襤褸 | ナノ



「消しごむ」

「え?」

「落としたよ」

「あ」


 それが彼女との初めての会話。


「あのさあ、人の顔見て笑うのいい加減やめてよね」

「ねえ、寝癖ひどいよ」

「!」

「女の子なんだから気を付けなって」

「ば、わ、わた、」


 かなりばかで分かりやすくて照れ屋で、無口で怒りっぽい彼女はすぐに俺のからかいたくなるリストの記念すべき1位にランクインした。
 あまり俺以外の人間と話しているところを見かけない。気に入らないことがあればグループぐるみで悪く言う、それが友達との繋がりになると思っている女子たちが、嫌なのだと思う。


「おはよ」

「‥‥あ、おはようございます」

「?‥どうかした?」

「いえ、失礼します」


 ある日を境に、彼女は俺とも関わらなくなった。話しかけても避けられてしまう。からかうことはあっても彼女に嫌われるような何かをした覚えはまるで無いのに、なぜだろう。窓の外の桜の木が風に揺れる。

 ‥‥ああ、なんだ。俺は寂しいのか。





 声をかけられることも、目が合うこともなくなった。彼女と出会う前に戻ったと言えばそれまでなんだろうけど、そうじゃない。もう俺のなかでは彼女の居場所がつくられていて、そこだけがぽっかりと空いてしまった。他で埋めようだなんて馬鹿な話だ、彼女のための空間が他のもので埋まるわけがない。

 距離が開いたまま、彼女は転校した。





 高校を卒業してから知ったことがある。一部の女子が彼女にいろいろ、そう、それはもういろいろと吹き込んでいたらしい。もちろん俺はそんなつもりは微塵もなくて、憤慨さえ感じた。

 もう一度だけ、もう一度だけでも彼女に会えるなら、俺は、




襤褸




 クラスの人気者である彼と知り合ったのはくだらない出来事のせいで、彼と出会ってさえなければ平穏無事な高校生活がおくれるはずだった。人の心にずかずか入ってきてわたしの日常をぶち壊して、わたしという人間性さえもどうにかされそうだった。なにより嫌だったのがそんな彼の存在を心地好いと感じる自分だった。
 彼はことあるごとにわたしに絡んできて、あの人懐っこい笑顔をみせる。きっと好きだったのだと思う、彼のことが。いきなりあらわれた彼は、モノクロの世界に色をつけた。

 ある日、人気のない教室に呼び出されて向かえば、それはそれはリーダー気取りの女王様が取り巻きを連れて待っていた。無言で立っていれば蹴られる背中。反動で床に叩きつけられ、笑い声に包まれる。「うぬぼれてんじゃねーよ」「きめー!」「みろよ、ゴキブリみたい」「ブスが調子乗んなよ」多分こんな感じのことを言われていた。興味がなくて覚えていない。問題はそのあとだ。

「おまえのせいで彼が迷惑してんの、いい加減気付けよ」

 ああ、そうか。わたしは足枷だったのだ。



 避けた直後の彼の顔は今でも覚えている。端整な顔に影が射して、曇りのない瞳に曇ったわたしがうつりこむ。もう二度と見たくなかった、あんな醜い顔をしたわたしのことなんて。
 だから、せめて。あなたのなかからわたしの存在が消えるようにと。私と関わりのなかった、あなたがあなたらしい日常に戻れるようにと。

 ‥‥いつから、わたしは、こんなに臆病になってしまったのだろう。



(ねがわくば、あなたの笑顔が、また見れますように、と、)

 
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