愛されたことがなかった。愛したこともなかった。いつから世界がこんなにもつまらなくなっていたのか、もう覚えてなどいやしない。‥いや、語弊だ。世界は生まれたときから、これ以上無いほどつまらなかった。 だから。この感情を、この感情の表し方を、オレは知らない。 「ベ、ル」 ああ、ほら。またおまえはオレの中を掻き乱す。まるで自らの胸に己のナイフを突き立てたかのような錯覚。右ポケットの携帯で辛うじて迎えを呼ぶ。息が出来ない。くらくらする。止まらない。 もう一度あいつがオレの名前を呼んだ気がしてから視界はブラックアウトした。 彼のあの部屋で寝ているその本人は、あんなに血まみれだったくせに怪我なんて無かった、と。さらさら白髪男さんが言っていた。解っていた。彼は殺し屋だ、と解っていた。でもいざこうなったときに戸惑っている自分がいる。わたしの手はどうやっても届かないという現実をたたき付けられたような。そんな気がして。 二回のノックで我に戻る。開いた扉から見えたさらさらな銀色。張った気が緩む。 「パスポートだぁ、準備が済んだらロビーに来い」 そう言われ投げ渡されたのは赤いパスポートに飛行機のチケット、そしてお金。再び顔をあげた先にもう彼はいなかった。 準備が済んだら、なんて。準備するだけの荷物さえ無いのに。偽造されたパスポートにチケットとお金を挟んで握りしめた。 「‥さよなら」 落ちた滴には気付かないふり。 「行くな」 閉じた扉の向こう、そう呟いた人間がいたことを女は知らないまま。 |