▼ 第3話‐03
「夏見…、怒ってる?」
こんな不穏な空気のまま別れたくない。
夏見が何を思っているのか、なんとか理解しようとグルグル模索してやっと出した言葉がそれだった。
我ながら、気のきかない間抜けな質問だと思う。
「馬鹿だと思ってる」
「…っば、馬鹿!? 私がっ?」
「相手のこと、好きだって言うから」
「だって…っ好きだもん…!」
「でも向こうは広瀬のこと好きとは思ってない」
「……っ!!」
心臓に矢が刺さったような衝撃が走り、頭の中が真っ黒に染まる。
…それは、私が今までずっと目を向けないように心の奥深くに押し込んでいたことだった。
「…広瀬は」
やめて。もうそれ以上言わないで。
「ただ都合良く使われてるだけだろ」
その一言が、私の頭を強く打ちつける。
脳内どころか視界までもが真っ黒に染まりきってしまいそうだった。
目の前がグラグラ歪んで立ってることすらままならない。
言い返す言葉は何もなかった。
…だって、全部本当のことだから。
「…なん、で」
なんでそんなこと言うの?
さっきのは何だったの? どうして私にあんなことしたの?
いろいろ問い詰めたいことがあるのに、喉が震えて声を出すことができない。
重い沈黙が流れ、そして夏見は私に背を向けたまま「彼氏のところ行かないの」と、溜息のような抑揚のない声を発した。
「気の毒だと思ってたけど、広瀬がそれでいいと思ってるなら邪魔しない。お幸せに」
「……っ」
一粒の涙がポツリと床にこぼれ落ちる。
耐え切れず、私は夏見に何も言わずに教室を飛び出した。
勢いよくドアを閉めると同時に堪えていた涙がドッと溢れだした。
固く携帯を握りしめて、私はがむしゃらに廊下を走り抜ける。
…わかってた。
カズヤが私のことを好きでもなんでもないと思ってることくらい、最初からわかってた。
でも、私のことを求めてくれるならそれで幸せだった。
…幸せだと、無理やりにでも思い込もうとしてた。
だってカズヤの他に私みたいな女を求めてくれる人なんて誰もいないから。
夏見が触れた唇や手がズキズキじりじりと疼く。
私は唇を噛み締め、一層強く携帯を握って行くあてもなく階段を駆け上がった。
夏見が言った通り、私は馬鹿だ。
救いようがないほどの馬鹿だ。
夏見はただ私に同情してただけだったんだ。
“夏見は私のことが好きなのかもしれない。”
そんな馬鹿な期待をしていた数分前の自分を殺してしまいたい。
「…っく…! っは、…はぁッ! はぁ…っ」
体力が尽きて、薄暗い踊り場に身を投げ出す。
埃っぽい階段にもたれ掛りながら、私は張り裂けそうな胸をぎゅうっと掴んだ。
苦しい。
このまま心臓が破裂して、私なんかぶっ壊れてしまえばいい。
もう何も考えたくない。
息を切らし、意識を朦朧とさせながら携帯を開く。
脳内は真っ黒のまま、指が勝手にカズヤの名前をたどっていた。
通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。
無機質なコール音を聞きながら私はそっと瞼を閉ざした。
・ ・ ・ ・ ・
「うわぁー!すごい!綺麗ーっ」
初めて見るラブホテルの内装に、私は大げさなくらいの歓声を上げた。
カズヤと電話をしている間も、家に帰ってリクエストされたミニスカートに着替えてる間もホテルに向かってるときも、
気を緩めるとすぐに涙がこぼれそうなくらい気持ちが沈んでいたけれど、非現実的な空間に一歩踏み入れると少しだけその気持ちを拭い去ることができた。
「わーっお風呂広い! テレビついてるー!」
なんとか今のテンションを保っていようと、私は部屋の中をあちこち見回った。
ピカピカの大きな洗面台、おしゃれな間接照明、部屋の隅に置いてあるスポーツジムにありそうな見たことのない器具…
何もかもが新鮮で、ここにいる限りは嫌なことは忘れていられそうだった。
「へぇー、ウェルカムドリンクを無料でサービスしてるってさ! 何か頼む?」
「飲み物とかいいから、こっち来いよ」
「あっ、うん…っ」
ベッドに深々と腰かけているカズヤに呼ばれ、私はその隣に遠慮気味に腰を下ろした。
キングサイズのベッドはうちにある布団とは比べものにならないくらいしっかりとした弾力があって、私の体を柔らかく受け止めてくれる。
淡い間接照明の光の中で見るカズヤはいつもよりも一段と格好良く見えた。
太ももを撫でられ、ドキッと胸が高鳴る。
いつもの息苦しくなるような鼓動とは違う、甘やかな心音が身体を包み込む。
こんな素敵な空間でなら、私も心から気持ちよくなれそうな気がする。
そう思いながら私は目を閉じてカズヤの体に身を寄せた。
「なぁ、電マ使っていい?」
「…ん…? でんま…?」
「これっ」
枕の先の照明パネルやティッシュの置いてある棚に手を伸ばして、カズヤは何かを手に取った。
目の前に突き出された見たことのない物体に私は首をかしげる。
「何これ?」
「ローターよりもヤバいらしいよ」
「え…っ」
目をギラつかせながら笑うカズヤとは裏腹に、私は表情を凍りつかせる。
さっきまでのときめきはたちまちいつも通りの重たい鼓動へと変わった。
ジャラッと聞き覚えのある金属音が鳴り、視線を下ろすとカズヤがポケットから手錠を取り出していた。
「わ、私…っ普通のエッチがしたい…っ」
「何言ってんだよ。こういうの好きなくせに」
「そんなっ好きなんかじゃ…」
「ローターでめちゃくちゃ感じまくってたじゃん。本当はまたやって欲しいんだろ?」
プレイの一環として抵抗してるだけとしか思っていないのか、勇気を出して言った訴えをカズヤは身勝手な決めつけでねじ伏せて私の手首に手錠をかけた。
「ほらっ、横になって脚開けよ」
抵抗しても無駄だと悟った私は言われるがままにベッドの真ん中に仰向けに寝そべる。
カズヤは開いた脚の間に入って、電マのスイッチらしき部分に手をかけた。
──ヴヴヴヴーーーッ!!
想像以上の激しい振動音が響いて私は思わず、ヒッと息を呑んだ。
ローターなんてまだ可愛いものだったと思えてしまうようなその電マの唸り声は、鼓膜を伝って私の心を震え上がらせる。
逃げ出したくなるような不安に駆られ、私は拘束されている両手を胸元に寄せてギュッと服を握りしめた。
「あっ…!うぅ、ん…っ!」
電マの先端がそっと脚の付け根を撫で上げる。
不快な振動が太もも全体に広がり、私は嫌悪感をあらわに眉をひそめて唇を噛み締めた。
軽くしか触れていないのに皮膚の内側まで痺れが深く染み込んでくる。
こんなのを思いきり押し当てられたら…
これから始まる地獄を嫌でも想像してしまい、痛苦しいほどに心臓が早鐘を打つ。
「んっ…!っ…う…!」
電マは反対の脚へと移り、恐怖心を煽るようにジックリとその振動を私の身体に教え込んでいく。
…怖い…怖い、怖い…っ
目を閉じてただひたすらに怯えていると、不意に電マが脚から離れて行った。
…これでおしまい、となるわけがない。
次に襲われる場所を察した私は、再び喉を引きつらせながら息を呑みこんだ。
「あぁっ! あ、あッ! いやあぁああっ!!」
下半身全体を揺さぶるかのような激しい振動が突き抜け、私は反射的にその猛威から逃れるように背中を反らせて声を荒げた。
とにかく無心になって我慢し続ければいいんだ、と決めていた覚悟はあっという間に打ち砕かれて、頭の中は“もう無理。止めて”という乞いに埋め尽くされる。
「だ、め…っ!カズヤッ、これ…っあ!ああぁあッ!!」
伸ばした両手を払いのけて、カズヤは無言のまま電マの先をグリグリと下腹部に押し付ける。
「いやあああっ!!やだっ!や…っカズヤぁ…っ!!ふあっ!あッあ、ああああ!!」
荒々しい痺れが絶え間なく体中を駆け巡り、脚がガクガクと激しい痙攣を起こす。
ローターの時と同じように、あまりにも獰猛な刺激のせいでイクきっかけすら掴めず、行き場のわからない熱い疼きは闇雲に体内をのた打ち回る。
「ああァあッ!!やめて、もうやめてぇぇっ!!」
絶叫に近い声を上げながら私はなりふり構わず何度も頭を振り乱した。
“快楽”とは言えない凶悪な衝撃は、もっとこの身体を狂わせてやろうと衰えることなく猛威を振るい続ける。
「うるせーよ変態」
「うあッ!あああっ…!くぅ…ッうぅううう!!」
悠々と私を嘲笑いながらカズヤは私の脚を平手で叩いた。
自分の苦しみが全く伝わってくれないのが悲しくて涙が込み上げる。
別の刺激で少しでもこの責め苦を誤魔化そうと、私はとっさに自分の指を噛んだ。
ギリギリと歯を食い込ませ、鋭い痛みで振動に対抗する。
…すると、噛んでいる手が不意にゾクゾクと疼いた。
それと同時に夏見の姿が朦朧とした意識の中に浮かび上がる。
夏見の体温や、唇や舌の感触が一気によみがえる。
苦しみに悶えている胸がさらに締め付けられて、溜らず瞳から涙が溢れ出した。
…あれが私にとって本当の“快感”だった。
でもあの感覚を味わえることはもう二度とない。
あんな感覚、知らないままでよかった。
本当の快楽を知ってしまったせいで、今がこんなにも辛くて苦しい。
その感覚をも打ち消そうと、私は一層強く指を噛む。
生臭い血の味がジワリと広がり、伏せた目から止めどなく涙が流れ落ちた。
第3話‐終
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