感情を抱く

「こっちに血が続いてる」

 地面に落ちた血を辿り廃屋に辿り着く。そこには人が居たことを示すように焚火の跡があるけれど、谷垣さんたちの姿は見当たらない。壁の一部が破られているのを見つけ月島軍曹とやりあったのだと推測する。……こんな街の外れまで月島軍曹は追ったのか。もう夜も明けようかという時間になってまで。

「この方角にはアシパのコタンがある。行こう」
「うん」

 谷垣さんたちはアシパちゃんのコタンに向かったはずだと言う鯉登と共にコタンに向けて馬を走らせるとやっぱりそこに月島軍曹の姿があって、銃を谷垣さんたちに向けているところだった。

「月島ッ」

 鯉登が月島軍曹に声をかけて撃つのを止めるよう指示する。けれど月島軍曹はそれに応じず、「あなたも鶴見中尉を裏切ったということでいいですか?」と鯉登に拳銃を向けてきた。月島軍曹、今この場に居る誰よりも苦しそうな顔をしてる。鯉登に造反の意志があるのかと問うその言葉は、“俺を置いて行くな”と言っている気がしてならない。月島軍曹だって、救われたくてもがいているのだ。

「銃を下ろせ。これは上官命令だ。私は鶴見中尉殿と月島軍曹を最後まで見届ける覚悟でいる」

 月島軍曹を――。鯉登が告げる言葉にその名前が入っていることに思わず涙ぐむ。鯉登は、月島軍曹を突き放すつもりはない。自分だけが救われようなどとは思っていない。月島軍曹のことも救おうとしている。“鶴見中尉殿の行く道の途中でみんなが救われるなら別に良い”前にそう言った月島軍曹の言葉に同意し、「そのために私や父が利用されていたとしてもそれは構わない」と告げる鯉登の言葉は、間違いなく月島軍曹に響いている。自分が利用されることで月島軍曹が救われるのならそれでも良いと、そう真っ直ぐに告げた。……この人は、本当に真っ直ぐで綺麗な心をしているんだな。

「ただ私は鶴見中尉殿に本当の目的があるのなら見定めたい!! もしその先に納得する正義がひとつも無いのならば……後悔と罪悪感にさいなまれるだろう」

 だからこそ谷垣さんとインカラマッさんのことは殺してはならない。そう言葉を続ける鯉登の言葉には、“殺さない”という覚悟が宿っている。

「私にはもう遅い」

 月島軍曹の叫び声。こんな風に声を荒げる姿は初めて見た。鯉登の言葉が届いているからこそ、月島軍曹も本当の自分が表れたのだ。顔を伏せて吐き出す「たくさん殺してきた……利用して死なせてしまった者もいる」という小さな声。それは月島軍曹の弱々しくも確かな“助けて”という救いを求める声だ。

「まだ遅くないッ」

 鯉登のその言葉は、私にも響く。樺太で私に“普通を知る権利はなまえにもある”と言ってくれた時のように。鯉登は月島軍曹にも手を差し伸べてみせる。その力強さは、苦しんでいる人からしたらまるで光のように思えるのだ。

「本当に大切だったものを諦めて……捨ててきました。私は自分の仕事をやるしかない」

 その道しかないのだ――そう刷り込んでいるみたいに。自分に選べる道はこれしかないと言い聞かせるように呟く声は、月島軍曹の苦しみそのもの。月島軍曹がここまでしないと諦めきれないもの。それを捨てるのは、一体どれだけの苦しさが伴うのだろうか。

「その厳格さは捨てたものの大きさゆえか? 月島……!!」
「インカラマッ……あの子は……」

 震える声。月島軍曹は、ずっと前に光を捨てたのだ。それが分かって思わず頬に涙が伝う。自分の生きる道しるべを、自らの手で捨てるのはひどく辛く苦しいことだったはず。彼は今までずっと真っ暗な道を歩いてきたのか。そして、その道を選ばせたのは鶴見中尉殿なのかもしれない。2人の関係は、果たして本当に健全な関係性といえるのだろうか。……月島軍曹のことを、どうにかして救ってあげたい。

「もう産まれちゃうわ!! みんなで手伝って!!」

 インカラマッさんが陣痛に呻き、谷垣さんにもたれ掛かる。その様子を見たアイヌの女性がテキパキと指示をし、全員がわらわらと動き始める。お湯を沸かしに行った谷垣さんと交代するようにインカラマッさんの傍に行くと、インカラマッさんが私の手をぎゅう、と握りしめるので、私もその手を握り返す。

「うぅ〜……!」
「頑張って……インカラマッさん……!」

 座産の姿勢をとったインカラマッさんに声をかけながらインカラマッさんの汗を拭う。子供を産むという行為は、こんなにも命懸けで行うものなのか。私のことも、母がこうして苦しい思いをしながら産んでくれた。そうして与えられた人生で、大切な人と出会えた。一緒に、生きていきたいと思える人。
 アイヌの女性に指示された臼躍らせを谷垣さんと一緒に必死に行う鯉登をちらりと見つめる。……鯉登と生きる道は幸せなんだろうな。

「おぎゃあ」
「産まれた……」

 必死に産声をあげる子供を見て込み上がる感情を、なんと表したら良いか分からない。だけど、どうしようもなくこの気持ちを鯉登と分かち合いたい。臼躍らせを終えて再び外に出された鯉登たちがアイヌの女性に「入っといで」と言われて中に入ってくる。鯉登の腕には月島軍曹が託されていた子供が居て、コートが涎でぐっしょりとしていた。

「抱っこ上手じゃん」
「以前、鶴見中尉殿が抱いているお姿を見た」
「……そっか」
「にしてもこの赤子、これだけの騒ぎがあったのに一切動じておらんぞ。さすがあの夫婦の子だ」

 鯉登みたいに特徴的な眉毛を生やすその子は、仲間意識を抱くのか鯉登の眉毛をベタベタと触っている。“やめろ”とか“汚い手で触るな”などと言わず、むしろ微笑んですらいる鯉登の姿は慈愛に満ちている。……人が産まれるということ、生きて成長するということ。それは周りの人にも少なからずの影響を与えるのだろう。



 アシパちゃんのコタンを見張るよう指示されていた兵士は、出産が終わっても爆睡していて全くの役立たずだった。月島軍曹に手痛い目覚めの1発をもらい、そこでようやく自分の犯した失態に血の気を引かせ土下座する。目の前に居るのは鯉登と月島軍曹だ。自分は下手したら殺されるかもしれないと気が気でない様子。

「鶴見中尉殿には黙っておいてやる。1週間ほど街で過ごして頭を冷やしてこい。これまで通り“問題なし”と報告し続けるように」
「あ……ありがとうございます鯉登少尉どのッ!!」

 嘘の報告をしろと告げる鯉登。鯉登がまさかそのようなことを言うとは思ってもみなかったのか、兵士は戸惑いながらコタンから立ち去って行った。……やっぱり、鯉登の気持ちは大きく変わり始めている。

「鯉登少尉殿……あれは本心だったのですか? それともあの場を誤魔化そうとしたのですか?」
「どちらとでも好きにとれ」

 どう思うかを月島軍曹に委ねる辺り、大泊でのことは鯉登にとっても分からない部分なのかもしれない。けれど「ただ私は鶴見中尉殿が皆を犠牲に己の私腹を肥やさんとしたり、あるいは権力欲を満たしたいだけの……くだらない目的を持つ人間とは到底思えないのだ」という言葉に揺らぎは見えなくて、この言葉を揺るぎなく言ってくれたことに私はまたしても救われたような気持ちになる。

「指の骨を見たことがありますか?」
「誰の指の骨だ?」
「いえ……関係ないかもしれません」

 月島軍曹の言葉にチラつくあの時の鶴見中尉殿のお姿。あの時掌に乗っていたのは、もしかしたら指の骨だったかもしれない。よく見えなかったし、すぐに仕舞われたから確認もしていないけれど。

「“同胞のために身命を賭して戦う”それが軍人の本懐だ! そうだろ月島」

 鯉登がポケットから写真を取り出す。その写真にはきちんと鯉登の顔写真が貼り直されていて……きちんと貼り直される……? 冷静に考えてみるとそれは一体どういうことだろうか。“きちんと”というのであれば鯉登の顔写真は貼られていないのが正しいような気もするけれど……。んん?

「お前の鶴見中尉殿に対する姿勢は健康的ではない。私は鶴見中尉殿を前向きに信じる。月島はその私を信じてついて来い。……なまえも」

 真っ直ぐな人だ。こんな風に目を見て言われたら、ついて行く以外の選択肢なんてなくなる。私たちにはまだまだやらないといけないことがたくさんあるけど、それでも。今私が感じている“幸せ”という気持ちを、無下にはしたくない。

「こういうことだ月島!!」
「意味がわかりません」

 鯉登の顔写真を半分切り、それを月島軍曹の顔写真に合体するように貼る鯉登。……これに関しては私も意味が分かりません。月島軍曹と目を合わせどちらからともなく視線を逸らす。そうして数秒後に沸々とした笑いがこみ上げてきて、「ふふッ」とつい笑みが零れ落ちる。

「なんか、さすがに。ちょっと疲れたかも」
「……そうだな。私たちも帰って休むことにしよう」
「私は、風呂に行ってきます」
「存分に浸かって来い月島」

 ひと段落ついたら全身に疲労を感じ、思わず伸びをする。夜通しでいろんなことがあったなぁ。でも、今日のことは一生忘れないと思う。インカラマッさんと谷垣さん、アシパちゃんのおばあちゃん――フチたちに一声かけてから鯉登の馬に乗る。
 鯉登が、私の傍に居る。私も、鯉登の傍に居る。それって、どう考えても幸せ以外の何ものでもない。

「キエッ!?」
「今日だけ。こうさせて」

 鯉登の背中に擦り寄ると、鯉登の体が硬直するのが分かる。でも鯉登だって樺太ではこうしてたんだし、私がしたって良いでしょ。お互い様だ。そう開き直りもっとぎゅぅ、と抱きつく。……あったかいなぁ。

「寝るな、なまえ」
「寝ちゃうかも……鯉登早く走って」
「……」
「あッ、速度落としたでしょ」
「……ゆっくり帰っても良かろう」
「……そうだね」

 2人でゆっくり。この時間を噛み締めるように過ごすのも良いものだ。私の為に馬の速度を落としてくれる鯉登の優しさに、私は逆に抱きしめられているような感覚に陥る。それがひどく落ち着くから、私はどうしたって瞳を閉じてしまうのだった。



「お前たちにはまんまと逃げられたと報告する。他の連中に出くわさないよう南へ向かえ」
「本当にありがとうございました。鯉登ニシパ」
「3人とも達者でな」

 鯉登がきちんと赤ちゃんにも声をかけているのを微笑ましく思いながらインカラマッさんと頷き合う。インカラマッさんはその視線を月島軍曹に移し「月島ニシパ。あのとき千里眼で見えたものですけど……」と声を掛ける。けれど月島軍曹はそれを手で制し「必要ない」と言い切ってみせた。その表情から暗さは見えず、自分自身の何かを取り戻したかのようにさえ思える。

「なまえさん。どうかお幸せに」
「インカラマッさんも。谷垣さんと幸せな未来を歩んでくださいね」
「ありがとうございます」

 家永さんも見てると良いなぁ。……見てるだろうな。たとえ地獄からでも。

「なまえ。私たちも帰るぞ」
「うん」

 あの3人は鯉登が選んだ覚悟の結果だ。だからどうか、最後まであの家族が幸せに生きていけますように。




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