頬紅いらず

 深手を負った鯉登は、小樽の病院に入院することになった。その病院には囚人だという医者や、二階堂某さんや、アイヌの女性が居て烏合の衆と化している。北海道に居るアイヌの女性――。病院に居るということは、おそらくこちらの女性が「インカラマッさんですか?」思い浮かべた名前を呼ぶと、その女性は目を細めてみせた。

「あの、私、みょうじなまえと言います」
「……チカパシは、本当の家族を見つけたのですね」
「えッ、どうして……」
「ふふ。私、見えるんです」

 インカラマッさんはそう言って自身のお腹を撫でる。谷垣さんから聞いた話ではキロランケさんに刺されて治療中ということだったけれど……。見る限りインカラマッさんのお腹には子供が居る。恐らく谷垣さんの子だ。谷垣さんはきっと、このことを知らない。谷垣さんはアシパちゃんたちと共に逃げたのだろうか。もしそうだとしたら、インカラマッさんとは会えないままになってしまう。……いや。

「谷垣さんは、きっと……絶対。戻ってきます」
「ふふふッ。なまえさんにも見えているのですね」

 ありがとう――。そう言いながらインカラマッさんはもう1度自身のお腹に手を当てる。その表情が慈しみに溢れていて、早く谷垣さんにも見て欲しいと思う。谷垣さんが見たらきっと首筋を太くしてブヒィるだろう。

「なまえさんは、どうしてここに?」
「鯉登の付き添いです」
「そうですか。アナタも樺太の旅で良い出会いがあったようですね」
「……はい」

 インカラマッさんと2人して微笑んでいると「なまえさん。少し良いですか」と家永さんから手招きをされる。不思議に思いながらも近付くと、あっという間に袖を捲られ注射針を腕に宛がわれた。突然のことに頭を混乱させていると、家永さんの腕を月島軍曹が掴み止めに入る。

「お前は本当に見境がないな」
「んもうッ。だって今が好機じゃないですか」
「好機?」

 どういうこと? 私はこの差し出した腕をどうしたら良いんだ? いつの間にか月島軍曹に連行されていった家永さんを見送り、少しやるせない気持ちになって袖を戻す。ちょっとくらいならあげても良かったのに。いや、私の血はそんなに安くはない。下手したら金塊を積まれても首を横に振るかもしれない。……なんて。血に高貴も何もないか。



「インカラマッ! 今日も占ってくれ」
「良いでしょう。では占います」

 インカラマッさんの頭から白狐の頭骨が落ち、それが鯉登の顔に刺さる。「キエエエッ」と叫ぶ鯉登に「鯉登さんの今日の運勢は“吉”です」とインカラマッさんが告げ、鯉登がはしゃぐ。この病院で過ごす間に、鯉登は立派なカモになっていた。この前も「良い物があります」とエカエカというお守りを40銭で売り付けられていた。いくらお守りとはいえあまりにも高額では? と思ったものの、鯉登は躊躇なくお金を差し出し「持っておけッ!」と私に差し出してきた。そういう純粋無垢さが心配にもなるけど、インカラマッさんはこれから子育てとかで色々と入用になるだろうし、巻き上げられるだけ巻き上げたら良いと思う。相手は鯉登だし。

「インカラマッさん、体調は大丈夫ですか?」
「ええ。お陰様で。懐も温かいです」

 そう言ってインカラマッさんはほくほくとした笑みを浮かべるけれど、その表情にはどこか不安も混ざっている。自分の体に変化が起こっていて、その変化とは自分以外の命をお腹に宿すという意味合いを持つもの。本当ならこの場に誰よりも傍に居て欲しい人が居ない。私たちが北海道に帰って来てから結構経つのに未だに谷垣さんが現れないのは、どうにも引っかかる。

「出産の時は私も手伝います」
「本当ですか? それは心強いです」
「役立たずかもしれませんが……」

 子を産む、母になる。そんな人の手伝いが私に出来るかどうかは分からない。私には母の記憶もなければ女性にとっての“普通”の経験だってまだ浅い。インカラマッさんを元気付ける為に言ったけど、実は私も不安でいっぱいだ。

「……ん?」

 思わず伏せていた顔の前に、スッと差し出された手。その手を辿って見上げた先でインカラマッさんが微笑みを浮かべている。その瞳を見つめ返せばインカラマッさんはもう1度柔らかく笑って「なまえさんの人生は今までも、これからも。たくさんの愛に溢れています」と告げられた。「私には見えるんです」と言いながら移る視線は鯉登に向けられていて、鯉登の視線は私を見つめていた。

「鯉登……」
「私だってインカラマッの出産を手助けするつもりだ。なまえには負けん」
「……は? え、なんでそこで対抗意識燃やすの?」
「ふふふッ。心強いです」

 鯉登のこういうバカな所、樺太旅を経ても全然変わんないな。なんかもう、バカ過ぎて思わず笑っちゃう。



「お前も刺青人皮にしてやろうか」

 月島軍曹の拳銃が家永さんの頭に宛がわれ、その横をダダダと二階堂さんが駆けてゆく。これがここ最近の日常だ。
 刺青人皮を財布にするという悪趣味さに思わず月島軍曹の顔を見つめる私の後ろを、相変わらずダダダと駆けまわる二階堂さん。ただ血を抜かれる鯉登。というか鯉登、この病院に来てからお金やら血やら取られてばかりだな。

「なまえさん。今日は外出が吉と出ていますよ」
「本当ですか? じゃあ買い出しにでも行こうかな。……そうだ。インカラマッさんも買いたい物とかあるんじゃないですか?」
「まぁ。お出かけですか? 私もご一緒して良いかしら」

 インカラマッさんとの会話を聞いていた家永さんが自分も買いたい物があると会話に参加してくる。家永さんって、実年齢は60歳を越えててしかも男性なんだよな。なのにこれだけの美貌を持ってるのは……家永さんが囚人になった原因でもある。けど、それに加えて家永さんの化粧が上手なのもあると思う。綺麗に紅が引かれた唇は、思わず見惚れてしまう。

「接吻しますか?」
「えッ」

 家永さんから顎を持たれ思わず息を呑む。私があまりにも唇を眺めていたせいで家永さんから標的にされてしまった。このままだと私の唇がなくなってしまうと慌てて唇を内側に閉じ込めれば、「キエエッ!! 月島ァ!!」と向こう側で鯉登の猿叫が響く。

「巾着にしても良いんだぞ」

 家永さんの頬に拳銃をめり込ませ動きを止める月島軍曹。離れていった家永さんにホッとしていると「そもそも。お前たちの外出が認められるわけないだろう」と月島軍曹が冷静に言葉を続けてみせた。

「インカラマッは妊婦だぞ」
「あ、そっか」
「なまえも。軍に属していないとはいえ、金塊のことを知る人間だ。勝手は許されん」
「はぁい」

 月島軍曹のごもっともな言い分に3人で頬を膨らませる。「じゃあ何します?」と少し拗ねながら3人で会議を始めれば、月島軍曹はフンッと鼻を鳴らしてみせる。……なんか、月島軍曹って先生みたいだ。学校行ってないから分かんないけど。

「あッ、じゃあ私、なまえさんの顔借りたい」
「えッ狩りたい?」

 さっきの今でもうそんな物騒なことを? きょとんとする私に家永さんが笑って「なまえさんの顔、とても化粧映えしそうだから」と頬に手を添えてくる。月島軍曹がその様子を見て拳銃に手をかけるけれど、家永さんは構わず頬を撫で「やっぱり。肌のハリが羨ましい」と呟く。またしても家永さんの顔が近付いて来る気配がしたので慌てて「そ、そういうことなら喜んでッ!」と距離をとる。狩られるよりかは全然マシだ。

「ほんと? じゃあ少し待ってて! アナタを完璧にしてみせるわ」

 そこから先はもう成されるがまま。「目を閉じて」と言われていたので言われた通りにし、最後に唇に紅を乗せられ合図とともに目を開くとインカラマッさんが「まぁ。素敵です」と笑いかけてくれた。……本当に? 騙されてない……?

「鯉登ニシパにも是非見せてあげてください」

 家永さんに隠れて見えないけれど、さっきから鯉登がぴょこぴょこしている気配がする。大丈夫かな……。顔見せて爆笑とかされたら私月島軍曹の拳銃奪い取ってしまうかもしれない。鯉登に顔を見せるのを戸惑っていると、家永さんが目線を合わせてくる。

「とっても綺麗よ。なまえさんが結婚する時、私がまたこうしてなまえさんを完璧にしてあげたい」
「けッ……!」
「この細い指に指輪が嵌められて……なまえさんも完璧に……」

 ぐわっと開く家永さんの口。その動作に慌てて手を引っ込め距離をとる。逃げ出した先には鯉登が居て、バチッと絡む視線。……み、見られた……。もうこなってしまえば鯉登の反応が気になって鯉登の顔をまじまじと見つめてみたら、鯉登は笑うでもなく、何を言うでもなくぷいっと顔を逸らす。えッ、これはどういう反応……?

「鯉登?」
「ち、近いッ! 離れろ!」
「はぁ? ちょっと。せっかく化粧してもらったのに。何もないの?」

 それはそれでムカつく。笑われたら撃ち抜いてやるとか思ってたけど、全く反応がないのも癪だ。ずずッと顔を近付け「鯉登少尉殿ォ」と凄んでみせると鯉登の顔がバッとこちらを向く。……わッ、急に向かないでよ。

「オイん心を揺すぐいな!!」
「なッ、」

 最後に「むぜッ!!」と吐き捨てるように言い、布団を頭まで被る鯉登。…………そ、そんな真っ赤な顔見せられたら、こっちだって熱くなっちゃうじゃんか。やり取りを見ていた人たちの視線が私だけに向けられている気がする。その視線を真正面で受けたくなくて「お、落としてきますッ」と言って逃げ出す。……お化粧、しばらくはしなくて良いや。




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