突き刺された覚悟
鯉登と一緒に大泊の街中を走っていると視界に入ったフレップ本舗と書かれた看板。――私たちが再会した場所。ここから私たちはたくさんの経験を杉元さんと共に重ね、そして再び戻って来た。その終わりがこのような逃亡劇になってしまったのはすごく残念だけど、これがそれぞれの選んだ道なのだ。
前を走る鯉登は辺りを見渡してはいるけれど、その様子に必死さは見えない。おそらく鯉登も心の何処かで最悪な結果は免れたいと思っているのだろう。私たちは、樺太を一緒に旅した仲なのだから。簡単に割り切れるわけもない。
「鯉登、あっち」
「……あぁ」
だけど。鯉登は陸軍兵士で、皆の上に立つ少尉だ。鯉登はその気持ちだけに従うことは許されない。立ち止まって見逃すことも出来ない。色んな思いを抱えて踏み出す足は、どうにも重みを感じる。曲馬団の時に見せた軽やかさはどこにもない。それだけ鯉登が迷っているのだと分かって苦しくなる。どうか向かった先に、アシリパちゃんたちが居ませんように――。
「杉元さん……」
「杉元立てッ」
3発の発砲音を聞きながら曲がった先に、赤い血で服を濡らす杉元さんと、その杉元さんにしがみつくアシリパちゃんが居た。撃ったのは月島軍曹たちか。「次は殺す」と杉元さんに向けて言った言葉――。それをこの旅で長い時間を共にした後でも遂行しようとする月島軍曹の姿に胸が痛む。“汚れ仕事をするのは私”そう言った言葉は、他の誰でもない、月島軍曹自身を呪っている言葉だ。月島軍曹も囚われている。
「動くなアシリパ」
鯉登が静かに拳銃を向け、「逃げればこうなることはわかっていたはずだ」と諦めたように呟く。鯉登の言葉は鶴見中尉殿ほどの人をだし抜けるわけないという思いも滲んでいるようだった。……誰も、こうなることを望んでいるわけではなかったのに。鯉登が拳銃に力をこめた瞬間、杉元さんの髪の毛が立つのが分かった。
「……?」
「近づくな鯉登少尉!!」
気付いた時には鯉登の左肩に剣が突き刺さっていて、刃先が肩から覗いていた。「俺は不死身の杉元だ!!」そう叫ぶなり鬼のような形相で兵士たちを殴り、圧倒してゆく杉元さんに鯉登が拳銃を向けるもすぐさま銃で殴り飛ばされてしまう。私はそんな杉元さんに圧倒されて何も出来ない。あっという間に鯉登たちを蹴散らし逃げてゆく杉元さんを、ただ黙って見送ることしか出来なかった。…………私は、一体何を甘ったれた考えを。樺太を一緒に旅した仲間とはいえ、これから先の選ぶ道を違えた相手。それがどのくらいの重みなのか。それを分かっていなかった。
杉元さんは、アシリパちゃんと共に歩く道でなら魂が抜けてしまっても構わないと思いながら進んでいる。……あれが、杉元さんの覚悟。
「鯉登少尉殿、診せてください」
「月島軍曹……」
近付いて来た月島軍曹が鯉登を横にすると、鯉登は荒い呼吸を繰り返しながら顔を伏せる。肩に深く突き立てられた剣の重みを鯉登も感じ取っているのか、その顔に覇気はない。先程の血に濡れた杉元さんの姿と、鯉登の肩に刺さる剣を見つめ、現状を自身に焼き付ける。
「なまえ、樺太に残るならまだ間に合うぞ」
「……残りません」
「……良いんだな? その選択は、なまえ自身が決めるんだぞ」
「はい。たとえ後悔することがあったとしても、それは受けるべき後悔です」
前に告げた言葉をもう1度月島軍曹に告げる。これから先の道は、血だらけの道だ。私は鶴見中尉殿によってその道から遠ざけられた。そして自分自身で戻って来た。ならばもう、怯えてはいけない。目に映る全てを受け止めなくては――。覚悟とは、そういうことだ。
「月島軍曹追え!! 逃げられるぞ」
杉元さんたちを追えという命令に一瞬顔を伏せる月島軍曹。アシリパちゃんを探せというのが鶴見中尉殿の指示で、今1番優先すべきこと。月島軍曹にとっての優先事項に相違だってないはずなのに、月島軍曹は「抜かないでください」と鯉登の腕を抑えることを優先する。
「行け月島。私はいいから……」
小さな小さな声。鯉登がこんな小さな声を出せたのかと驚いてしまうくらいのか細い声は、“行くな”と言っているようにも聞こえてしまう。だけど、それを言ってしまうと月島軍曹の心を惑わしてしまう。鯉登も必死に戦っているのだ。
「いつも感情的になって突っ走るなと注意していたでしょう……」
「……ッ、」
月島軍曹の言葉は呆れた口調だったけれど、そこに月島軍曹の鯉登に対しての気持ちが滲んでいるようで息を呑む。樺太での旅は、月島軍曹にとっても無駄ではなかったのだ。月島軍曹と鯉登に寄りそうに腕を伸ばした瞬間、頭上に影が落ちた。その人影に顔をあげるとその人は鯉登のことを冷たい視線で一瞥するだけですぐに立ち去ってゆく。
「鶴見中尉殿……」
私の知っている鶴見中尉殿は、あの場で部下に寄り添った言葉の1つは必ずかけていた。重傷を負った部下をあんな凍てつくような視線で見下すなんてこと、する人じゃなかった。“人助けなんて想像できない”杉元さんが鶴見中尉殿に向けて言った言葉。私にはその人物像を鶴見中尉殿に結びつけることが出来なかったけど、それはやっぱり私の知らない鶴見中尉殿が居るということ。
色んなことが一気に押し寄せて来てぎゅうっと目を閉じる。そしてすぐにその目を開き「月島軍曹、鯉登のことは私に任せてください。……私も、大丈夫ですから」と告げる。……私は逃げない。決して。月島軍曹は少しだけ私を見つめ、その場から立ち去ってゆく。
「鯉登しっかりして」
「なまえ……」
小刻みに震える鯉登に声を掛けながら布で肩口を抑え固定していると、馬のいななきが聞こえて顔をあげる。馬に乗っているのはヴァーシャで、私の顔をじっと見つめてきた。私はふるふると首を振り、「Пожалуйста, присмотри за Асирпа-чан(アシリパちゃんのこと、よろしくね)」と告げれば、ヴァーシャもフンフンと頷いて駆け出してゆく。ヴァーシャの手を取ったら尾形の元へ早く辿り着けるのかもしれない。だけど、今は誰よりも鯉登の傍に居たい。
「行くな……なまえ……どこにも行くな……」
「行かない。ずっと居るよ」
虚ろな表情でうわ言の様に告げる言葉に、私は何度でも返事をする。色んなことに直面して、それでも尚自分の力で立とうと踏ん張っている鯉登のことを、誰よりも傍で支えたい。
数日後。結局アシリパちゃんたちを捕らえることは出来ないまま、私たちも北海道へひとまず帰還することになった。鯉登は駆逐艦の釣床で今も安静状態を保っている。長時間船に乗っていると船酔いする体質らしく、今も眉根がぎゅっと寄って寝苦しそうだ。釣床の上でうめき声をあげる鯉登の顔を拭っていると「なまえどん」と懐かしい声に呼ばれ振り返る。
「鯉登大佐殿……失礼しました。今は少将になられたと伺いました」
「よかんど。……そんリボンは、誰かからん贈り物じゃしか?」
「あ、はい」
覚えていてくれたのか。あの時身に付けていたリボンとは違うリボンを見て、鯉登少将殿がどこか嬉しそうに尋ねてくる。私が今こうして鯉登の傍に居ることの意味を鯉登少将殿は理解してくれているのだろう。
「息子さん……音之進さんから頂きました」
「そうですか。前んリボンも似合うちょったばっ、こんリボンもわっぜ似合うちょいもす」
「ありがとうございます。……私の、宝物です」
「モス」
モスス、と笑う鯉登少将殿。数年越しに見つめられた鯉登少将殿の視線は、相変わらず柔らかくて強い。鯉登の真っ直ぐさは、鯉登家で育ってきたからこそだ。鯉登少将殿が釣床で眠る鯉登を見つめていると、鯉登も気配を感じたのか目をゆっくりと開く。
「父上……」
「あんべは、どげな」
「情けんなか……」
か弱い声で吐き出す声。杉元さんに刺されたこと、覚悟の違いを見せつけられたこと、月島軍曹のこと、自分たち親子のこと、鶴見中尉殿のこと。色んなことが一気にきて、それに圧倒されてしまうのは仕方のないことだと思う。だけど鯉登はそんな自分が許せないのか、いつもみたいな明るさがない。そんな鯉登を見た鯉登少将殿は、周囲をキョロキョロと見渡した後「生きちょりゃよか」と本心を口にする。この場で告げる言葉が親としての本心であることに私は嬉しさを感じていると、鯉登少将殿も私を見つめて微笑んでくれた。
「なまえどん。音之進をよろしゅう頼み申しあげもす」
「はい。……私こそ、音之進さんには樺太でたくさん助けてもらいました。鯉登閣下。音之進さんを、樺太に先遣隊として送り出してくださってありがとうございました」
「モスッ。音之進はよかにせどんになりもしたか?」
「……大事な人になりました」
私の言葉を聞いた鯉登少将殿は、モスス……と微笑みながらどこかへと消えてゆく。ヘンケのような笑みを浮かべ、鯉登少将殿は正しい理解をした上で私たちを2人きりにしてくれたのだ。そのことに照れ臭さを感じつつも鯉登の看病に戻れば、鯉登の目がバッチリと開かれていて思わず悲鳴が零れ出る。
「オイは、なまえにとってよかにせどんで、でしなしなんか」
「…………ちょ、ちょっと何言ってるかわ、わかんないッ! 良いから寝てな!」
あれ? さっきまで弱々しかったのに。急に元気になってないか? あまりの変貌ぶりに慌てて部屋を飛び出すと、鯉登少将殿が海を見つめていた。数分ぶりの再会に少し気まずさを感じる私に、「親心あれば、子心もあっとじゃんなぁ」と感慨深そうに言う鯉登少将殿。言葉の意味を読み取れず首を傾げてみせると「鶴見中尉どんの為にも、なまえどんはしっかり生きたもんせ」と肩に手を置かれる。その瞳の真っ直ぐさは、鯉登にそっくりで、やっぱり2人は理想の親子だと思う。今度は私も、鯉登親子みたいな関係性を作れると嬉しい。