知りたい

 樺太での役目を終えた私たちは北海道へ帰る為、樺太を南下することになった。逃げた尾形のことが気にはなるけれど、尾形は再び私たちの前に現れる。今はそう信じ前を向く。

「月島軍曹、首は大丈夫ですか?」
「あぁ」

 治療してもらったとはいえ、そりの揺れで傷口が開く恐れもある。さてどうしたものか……そう悩んでいると、視界に張り裂けそうな胸板が映る。そうか。見えた――。

「谷垣さん、ここに座ってください」
「ん?」
「はい。そして月島軍曹はここ。はい。そしたら谷垣さんが月島軍曹をぎゅっと……はい。大丈夫です、完璧」

 自身が手配した配席に達成感を感じながら汗を拭いていると、月島軍曹がじっと私のことを見つめてきた。その視線にニッコリと微笑み返せば、月島軍曹は何も言わないし反応も返してはくれなかった。きっと私の采配に言葉も出ないくらい感激しているのだ。

「近い近い! ちょっと近過ぎるぞ鯉登」
「仕方なかろう。なまえが谷垣をこちらのそりにしたのだから」
「うッ……」

 これはとんだ誤りだ。というか鯉登ももう私の体に抱き着くのに一切の躊躇もしなくなったな。……まぁ、嫌な気はしないし良いんだけど。

「……ボッキ?」
「ヘッ……ヘンケッ……! 一体どこでそんな言葉を……!」



 休憩の為樺太アイヌの集落に寄ると、お婆ちゃんがもてなしてくれた。そのおもてなしに杉元さんたちが首ったけになっている様をじっと見つめていれば、隣に居た鯉登が「月島」と横になっている月島軍曹の名を呼ぶ。

「ロシア語でバル……バルチョーナクとは、どういう意味だ?」
「Барчонок? 貴族の少年とかそういうものをからかう感じで、つまり……“ボンボン”です。どこでそれを?」

 月島軍曹の問いには反応せず、ただじっと杉元さんたちの奇行を見つめる鯉登。確かにБарчонокとはそういう意味合いを持つ言葉だ。ボンボン――鯉登にとってはもはや馴染みすら感じる言葉かもしれない。けれどあの時尾形にそう吐き捨てられた鯉登は、それ以上の何かを読み取った様子だった。あの言葉にもきっと私の知らない何かが詰まっているのだ。そしてそれをあの場で告げた尾形の意図も、私には分からない。

「明日は敷香まで行って日用品を買うぞ。鶴見中尉殿にみすぼらしい姿を見せるわけにはいかんからな」

 鶴見中尉殿……。この2年間、1度も忘れることの出来なかった人物。私を見た時鶴見中尉殿は一体、どんな反応をするのだろうか。



「よし出発だ。明るいうちに出来るだけ距離を稼ぐぞ」

 それぞれが敷香での買い出しを終え出発しようとするも、杉元さんの姿が見当たらず白石さんが通りに出る。その瞬間、白石さんの左足に弾丸が撃ち込まれた。続けざまに谷垣さんや私たちを狙って撃ってくるので、狙いは間違いなく私たちだ。頭ではなく脚を狙ったのは「狙撃手の常套手段だ」……谷垣さんの言う通り、仲間を引き摺り出す為の狙撃手のやり方だ。ということは――。

「撃ってるやつが見えたか?」
「ううん。でもここら辺に隠れやすい場所はないから、きっと遠くからの射撃だと思う」

 尾形がもう戻ってきたのか。でも尾形は今利き目を失っているし、万全じゃない状態で戻って来るとは考えにくい。だけど……これだけの狙撃が出来るのは……。

「なまえ、感情的になるな」
「……ごめん」

 確かめに行こうとした私の腕を鯉登が掴む。頭を下げてそりに隠れ直すと鯉登が「月島手鏡を貸せ!! 相手を確認する!!」と月島軍曹に声をかける。手鏡という存在自体を初めて聞いたような反応を見せる月島軍曹に驚きつつも、手鏡を使って周囲の反応を窺う。けれどそれはすぐさま撃ち抜かれしまい、狙撃手の腕の良さを思い知るだけとなった。

「我々は1歩も動けんぞ。どうするんだ月島ァ!!」

 私には感情的になるなって言ったくせに、困ったらすぐ月島軍曹の名前を叫ぶのはなんなんだ。すぐ隣に居るのに大きな声で叫ぶ鯉登に眉根を寄せていると建物の隙間を走っていく杉元さんの姿が見えた。尾形が杉元さんの恐ろしさを知らないはずがない。それなのに杉元さんのことを撃たないのは、どうにも引っかかる。

「ねぇ鯉登。多分だけど相手、尾形じゃない」
「……なまえが言うのならばそうなのだろう」

 私の言葉を聞いた月島軍曹が軍帽をちらつかせ始める。「こちらに注意を向けさせ続ける……。連携作戦のためにな」その言葉通り相手も狙撃を繰り返してくるのを見て、尾形ではないという思いを確信に変えてゆく。にしてもこの狙撃手、めちゃくちゃ狙撃の腕が良い。私にはもう、こんな狙撃は出来ないと思う。

「どうやら杉元が行ったようだぞ」

 狙撃が止んだのを合図に目星をつけていた建物に駆け込むと、そこには杉元さんと顔を突き合わせてお絵描きをしている男が居た。さっきまで私たちを狙っていたはずの男は杉元さんと2人で「ああでもない、こうでもない」と言いながら楽しそうに絵を描いていて状況がよく読めない。持っている銃はモシン・ナガン……ということは、ロシアの兵士か。

「この男は国境でキロランケニシパを待ち伏せていたロシア兵の1人だと思う」
「皇帝殺しか」

 月島軍曹がアシパちゃんの言葉で状況を把握したらしく、ロシア兵に「Кубийству Императорамы Непричастны(皇帝殺しには無関係だ)」と説明を行う。ロシア兵は説明を聞いたあともただじっとしているのみ。これじゃ納得してもらえなかったのかと思っていると、尾形の顔を描いた絵が目に入る。…………そうか。この人も尾形を追っているのか。

「はやくロシアに帰れバカアホ」

 左足を撃ち抜かれた白石さんがロシア兵に暴言を吐き捨て、私たちは再び北海道への帰路を辿る。お世話になった燈台の夫婦の元に寄って無事に預かっていた手紙と写真を届けることも出来たし、これで樺太での恩はきちんと返せた。

「2週間後に大泊まで迎えに来るのでそれまで待機せよとのこと……なのでしらばく豊原に滞在する」
「理由は豊原のほうが大きな街で良い宿があるからだ。以上! 各自好きに過ごせ」

 私にとっても最後の樺太滞在だ。大泊に辿り着いたあの時から樺太に何か大きな思い出を作ることはしてこなかったけど、鯉登たちと出会った土地だと思うとやはり感慨深いものがある。この感覚はあの兵舎に対して抱いた感情と同じだ。懐かしささえ感じながら街中を歩いていると、物陰から視線を感じバッと振り返る。そこにはあのロシア兵が居て、ロシア兵も自身の存在がバレたことに驚いているようだった。

Я немного знаю о снайперах狙撃兵のこと、少しなら分かるんだ

 反応がないことに気まずさを感じるも、この人は尾形に口を撃たれたせいでうまく喋れないことを思い出す。そういえばこの人、名前すら知らないな。

Как тебя зовут?名前はなんていうの?

 訊いたところでどうするわけでもないけど。なんとなく、知りたくなった。ロシア兵も特に私を警戒するでもなく、しゃがみ込んで指で地面に“Василий”と書いてみせてくれた。ヴァシリさんというのか。「Василий」と名前を口にするとヴァシリさんが手をブンブンと振ってみせる。もしかして……「Можно я буду называть тебя Вася?(ヴァーシャって呼んで良いの?)」と意図を汲んでみるとウンウンと頷いてくれた。どうやらヴァシリ……ヴァーシャも私が狙撃に詳しい人だと信じてくれたらしい。どこぞの尾形とは違う警戒心の薄さで少し心配になるけれど、ヴァーシャも親近感を抱いてくれたがなんとなく嬉しい。

Спасибо.Вы можете называть меня なまえじゃあ私のことはなまえって呼んで……って、呼べないのか」

 頬を掻いて笑っていると、「なまえッ!」と叫びながら鯉登が現れた。ずんずんと近付いてくるなり「ソイツは私たちを撃ったヤツだぞ! 親しくするなッ!」と言いながらヴァーシャと私の間を断ち割るようにして入り込んでくる。

「でもヴァーシャの目的はあくまで尾形だし。もう私たちに攻撃してくることはないと思うよ。だよねヴァーシャ? ほら、フンフンだって」
「キエッ! 何がフンフンだッ!」

 キエエェッ、フンフン、と2人がよく分からない言語で会話し始めたので、そっとその場を離れ月島軍曹たちのもとへ足を向ける。月島軍曹は街の中に居て、杉元さんと何かを話している様子だった。ボソボソと話す声はなんと言っているか分からなかったけれど、「アシパさんは鶴見中尉にまだ会ったことは無いはずだが、あんな男に心を開くとは全く思えねえからな」という言葉と共に杉元さんが立ち去って行ったのを見て恐らく金塊に関することだと察する。

「なまえ」
「杉元さんと、何を話してたんですか?」
「……別に」

 ふっと視線を逸らし杉元さんの後を追う月島軍曹は、ヴァーシャよりも真意が見えない。……この人は、一体何が知りたくて鶴見中尉殿について行っているのだろうか。知りたい。いろんなことを、ちゃんと。知りたい。




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