地平の星へ

 鶴見中尉殿が床に何かをぶち撒ける音がする。暗号解読の鍵を手に入れた鶴見中尉殿は、アシパちゃんたちをどうするんだろう――。不安を抱いていると「鶴見中尉殿」と有古さんの声が教会に響いた。

「土方歳三のアジトを伝えに来ました。今なら一網打尽にして向こうの刺青人皮を奪えます」

 北海道に戻ってから姿を見ないと思っていたけど。彼は諜報活動を行っていたのか。有古さんの言葉は決してこちらを裏切るようなものではないのに、鶴見中尉殿は「有古力松……お前の選ぶ道はそれで良いんだな?」と低い声で問う。どういう状況なんだろうと思っていると「その刺青人皮を全部……こっちへ!!」と有古さんの切羽詰まった声色と共に拳銃の金属音が耳に入った。
 咄嗟に3人で銃を構え月島軍曹が抉じ開けた扉から反撃姿勢をとる。アシパちゃんが逃げようとしているのを見てホッとしていると、扉に向かって椅子が飛んできた。そのせいで閉じられた扉を必死に開けようとするも何かにつっかえて開かない。早く鶴見中尉殿の助けに行かないといけないのに――。

「あッ鶴見中尉殿ッ!」

 3人で力任せに押すと何かがゴロンと転がった。それが鶴見中尉殿だと分かり慌てて駆け寄る間に、月島軍曹と鯉登はアシパちゃんたちを追って外へと駆け出してゆく。その姿を見送って鶴見中尉殿に手を差し出せば、鶴見中尉殿がその手を握って立ち上がる。……やっぱり、鶴見中尉殿の手は温かい。立ち上がって見下ろす先には、数枚の刺青人皮。……これだけの人が巻き込まれたのか。

「ん〜〜二階堂ッ!!」
「月島軍曹がアシパを追跡しています。応援に何名か連れて構いませんか? だそうです」

 教会に戻って来た鯉登が二階堂さんに通訳を頼み鶴見中尉殿に伺いを立てる。けれどそれは「いや……月島を連れ戻せ」と拒否され「“暗号を解く鍵”は正しい気がする。アシパはもう必要ない」という言葉が続けられた。……これでもうアシパちゃんが追われることはない。

「なまえ、そこに居ては鶴見中尉殿の邪魔をしてしまう」
「うん」

 鯉登の呼びかけに応じ鶴見中尉殿の傍を離れる。……これで良い。この道で、良いんだ。

「二階堂お前酒飲んでるのか?」

 教会の外に出ると兵士の1人が二階堂さんに対して眉根を寄せながら言葉をかけていた。確かにさっきビール工場には行ったけど、誰1人として呑気にビールを飲むようなことはしていない。

「ビールを頭から被ったみたいににおうぞ」
「……ッ!」

 サァっと血の気が引くのが分かった。消えたと思っていたふらつきが呼び起こされ、再び体中をビールで覆われたような気分に陥る。鶴見中尉殿はあまりお酒が得意ではないと以前言っていた。そんな人が、私たちから発せられる匂いに気付かないはずがない。……じゃあ……あの時、私たちが教会に居たことに鶴見中尉殿は気付いていた……? その上であの話をしたってこと?

「月島……」
「うぅ……ッ」
「なまえッ」

 耐えきれずに崩れ落ちた私を鯉登が支えてくれる。その手にしがみついていないと体がグルグル回って自分を保てない。……信じたい。たとえ私たちが聞いていると知っていたとしても、そこに本当の気持ちがなかったわけではないと思いたい。……信じたいのに、鶴見中尉殿は真っ直ぐに目を見てはくれない。真っ直ぐに見てくれたら、私はどんなことがあっても鶴見中尉殿を信じようと思えるのに。……なんで、こんな形でしか伝えてくれないんだろう。ウラジオストクの時だってそうだ。鶴見中尉殿のこと、信じて良いか分からない。

「私を信じろ。なまえ」
「鯉登……」

 鯉登の瞳も揺らいでいる。だけど、鯉登はそれでも進もうとしてみせる。鯉登の存在に、何度助けられただろうか。曲馬団の時も、リボンをくれた時も、尾形に会った時も。北海道に戻ってきてからも、たくさん、たくさん鯉登には救われてきた。そして今も鯉登は私の手を取り引っ張り上げてくれる。鯉登はやっぱり私の光だ。

「ありがとう、鯉登」

 月島軍曹を呼び戻し教会に入ると鶴見中尉殿は刺青人皮の上でジタバタしていて、暗号解読までもう少し時間がかかるようだった。それまで私たちは待機を命じられ教会の外へと出る。……今日は、全然月が見えない。

「……鯉登」

 教会の壁にもたれしゃがみ込むと、鯉登も傍に来て一緒に空を見上げる。鶴見中尉殿の近くに居ると、分からないと思っていたことが分かったような気がする。かと思ったら、分かったと思ったことが分からなくなる。……難しいなあ。

「ゴールデンカムイ、か。私も、その日暮らしで精一杯な時だったら惑わされてたかもしれない」

 鶴見中尉殿がこれだけの時間と思いと執着をかけて狙う物。その姿は鶴見中尉殿も金塊に取り込まれているうちの1人に見える。その道に月島軍曹を誘うのは、果たしてどういう想いが潜んでいるのか。

「なまえは、これからどうしたい」
「尾形に会って、鶴見中尉殿の本音も聞いた。……だけど、このままじゃ終われないって思う。ワガママかもしれないけど、私は、今目の前で起こってる金塊争奪戦を最後まで見届けたい。……私の大事な人たちが関わってる出来事だから。私も、最後までついて行きたい」

 落ち着いた頭で考えてみたら、アシパちゃんがこの争奪戦からこのまま手を引くとは考えにくい。彼女の覚悟は大泊で見た。その覚悟を杉元さんは信じている。だったら、あの2人は絶対この戦いに戻って来る。

「鶴見中尉殿は青森に居る父上に協力を要請したらしい」
「そっか……」
「私は、自分が言った言葉に嘘はない。だが……月島が言うように、鶴見中尉殿のことを信じて良いのかが分からなくなっているのかもしれん」
「鯉登……」

 自分の気持ちの揺らぎを、正直に伝えてくれる鯉登。それは鯉登なりの私への真心で誠意だ。それが分かって鯉登の目を見つめると「それでも、私を信じてついて来て欲しい」と願われる。鯉登はいつだって真っ直ぐだ。

「たとえ地獄でもついて行ってあげる」
「……ふッ。それは恐ろしく頼もしい」

 だって私は、鯉登の相棒だから。



「解けた」

 夜中から始まった解読作業。その終了が告げられたのは翌日の夕方午後18時。暗号が示す場所を見つめていると、鶴見中尉殿が菊田特務曹長に近付き至近距離で銃を放った。その音に驚くと、鶴見中尉殿は菊田特務曹長が中央のスパイであることも全てお見通しだったと告げる。

「菊田特務曹長を撃った銃声は我々が今!! ここで自ら退路を断ち是が非でも金塊を手に入れにいくのだという決意の号砲なのだ!!」

 高らかに宣言する言葉。その言葉に複雑な思いを抱く私とは違い、月島軍曹は迷いなく菊田特務曹長の頭を撃ち抜いてみせた。……ビール工場では人命を優先したのに。今はもう仲間だった人の命を奪うことになんの躊躇も見せない。……そんな悲しい生き方、月島軍曹にはして欲しくない。

「各地の部下たち全員に場所を伝えろ。あらゆる移動手段を駆使して1秒でも早く集まるように。武器弾薬を軍馬に満載して不眠不休で来いと!!」

 全員が忙しなく動きまわる中、鯉登だけが解読された暗号をじっと見つめ佇んでいる。その背中に「鯉登?」と声を掛けると、鯉登は何かを決意したかのように息を吸い、「行こう」と声をかけてくる。五稜郭に何か特別な思いがあるのだろうか。

「ご協力まことに感謝いたします」

 車掌に向かって敬礼する鶴見中尉殿を汽車の中から見つめる。札幌駅で待機していた汽車を動かし向かう先は、逃げようのない戦場。ぎゅうっと銃を抱き締めると「なまえ」と鯉登が声をかけてきた。

「五稜郭に着き次第、なまえは陸軍の訓練所に向かえ」
「え?」
「恐らく五稜郭では両陣営がぶつかる最後の戦いとなるだろう。ましてやあそこは“戦う為”の土地だ。そして私は、その最前線に立つ」
「ッ!」
「そんな顔をするな。簡単に死ぬつもりはない」
「鯉登、」
「……その為にも、なまえには陸軍訓練所に居て欲しい」
「もしかしてそこって……」
「あそこなら、必ず迎えに行ける気がするのだ。私が、そうだったから。だから私が迎えに行くまで、その銃をお守りとして大切に持っていろ」

 この銃を撃たせない為。私に引き金を引かせない為。その為に鯉登は私を想ってくれる。銃は使う為、人の命を奪う為にあると思っていた。……それが私の居場所だと思っていた。だけど、鯉登はそうではないと別の道を改めて示してくれる。

「分かった。……でも、撃つ覚悟だって捨てたわけじゃないから。守る為なら私は引き金を引くつもりでいる」
「……あぁ。私はなまえのその強さもちゃんと信じている」

 室蘭駅に着き、鶴見中尉殿はそこから駆逐艦に乗り換え五稜郭へと向かって行った。定員の関係上、私たちはそのまま汽車で最寄りの大沼公園駅まで向かう手筈だ。鶴見中尉殿が乗る駆逐艦をじっと見つめる鯉登の横顔を見つめ、私も視線を駆逐艦へと向ける。……この争奪戦の最終地点まで、あと少し。



 大沼公園駅に到着し、五稜郭の方角に視線を伸ばす。鶴見中尉殿は既に五稜郭に着いただろうか。そして、アシパちゃん達もそこに居るのだろうか。これだけの人が苦しんだ道の先に、救いはあるのだろうか。

「んぐッ」
「食べろ。昨日から何も口にしていないだろう」

 口に押し込まれた甘味。それが団子だと分かり鯉登を見上げると、鯉登の口はもっぐぅと膨らんでいた。私に1個を与える間に何個食べたんだ。

「月島もッ!!」

 ぐいぐいと月島軍曹の口に団子を押し付け、月島軍曹が咀嚼するのを何も言わずにじっと見つめる鯉登。そして再び私の口に団子を押し付け私にも団子を咀嚼させる鯉登。……餌付けかな?

「幾つか買って行くか」
「……気に入ったの?」
「ち、違うッ! 鶴見中尉殿がお好きそうだから土産にするのだッ」

 自分が好いと思う物を人にも与えたくなるの、鯉登の素直で良い所だとは思う。……でも、戦場に向かうのにお土産ってどうなの?

「ほらッ! なまえももっと食べんかッ」
「もういいゾ〜鯉登もういいゾ〜〜」




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