教会の鍵穴から

 近くの教会に入り、鶴見中尉殿が月島軍曹にアシパちゃんとソフィアさんを拘束するよう指示を出す。そして「追跡者を排除するまで教会には戻ってくるな」と私たちに教会から立ち去るよう告げる。

「鶴見中尉殿、女の所持品からこれが……」

 月島軍曹が手渡す1枚の写真。その写真を見つめた鶴見中尉殿は、額からドロリと液体を垂らす。その様子は、確実に私が見たことのない姿だ。やっぱり、この2人には私の知らない鶴見中尉殿が関わっている。

「各自指示通りに動け」

 写真を手にしたまま鶴見中尉殿が私たちを教会から追い出す。用心深い性格の鶴見中尉殿が、自分の傍に二階堂さんしか残さないなんて。そのことにも違和感を覚えつつ、鯉登たちと外に出る。合流地点には徒歩の4名が居たけれど、馬で分かれた3名の姿が見当たらない。普通なら徒歩組より先に居るはずなのに。どうしたのだろうか。

「鯉登少尉殿はここに残って下さい。3人が来るかもしれない」

 月島軍曹の言葉を受け鯉登と共にその場に残る。しばらくすると雨が降り出し、周囲の音を掻き消す。必然的に思考が自分の中に向けられ、鶴見中尉殿の顔が浮かんできた。……さっきのあの顔、どうにも引っかかる。

「……共に来るか?」
「……うん」

 鯉登も鶴見中尉殿の様子がおかしかったことに気付いているらしい。2人で雨音に隠れながら教会の勝手口に近付き裏手に回る。するとそこには他の兵士を探しに行っているはずの月島軍曹が居て、鍵穴を覗きこむようにして扉にへばりついていた。

「鍵の穴覗き野郎ッ!」
「貴様! ここで何をしている。鶴見中尉殿をコソコソと嗅ぎ回る気か!?」
「鍵の穴覗き野郎ッ!!」

 鯉登と2人して月島軍曹の肩を抓りながら小さな声で責め立てると「鯉登少尉こそ!!」と月島軍曹も負けじと言葉を返す。……確かに私たちこそだ。グッと言葉に詰まる私たちに「“鶴見中尉殿を信じる私を信じろ”とか言っておいて、あなたが信じてないじゃないか!!」と追撃してくる月島軍曹。……確かに言ったな。鯉登言ったな。

「いやいや私は信じている!! 勝手に決めつけるなッ」
「じゃあなんでさっき鶴見中尉殿を相手に普通に話せたんですか。今までは早口の薩摩弁になってしまっていたくせに……」

 ビール工場で向けた視線を再び鯉登に向ける月島軍曹。この言葉でようやく私も月島軍曹が抱く疑念を理解し「自分でも気づかぬうちに鶴見中尉殿を信頼できず、心が離れてしまっているのでは?」という突き付けに息を呑む。鯉登があの時言った言葉は確かに真っ直ぐだった。それは間違いない。だけど、今も鯉登は鶴見中尉殿のことを見定めようと必死に葛藤している。そして、それは月島軍曹も同じ。私たちは互いを信頼したくて必死にもがいている途中なのだ。

「二階堂! 外で待機して教会を見張れ。教会前にいるとバレバレだから離れたところで隠れていろ」
「はいッ」
「鯉登たちが戻ってきても教会に近づけるな。包囲されないように外で守りを固めろ」

 鶴見中尉殿に動きが見えたので3人で扉にへばりつく。二階堂さんまで外に出すなんて。鶴見中尉殿の行動が今までとは違う。それに、私たちを遠ざけるよう念押しまでするなんて。一体何を考えているのか。固唾を呑んでいると、鶴見中尉殿の足音がこっちに向かって来るのが分かって慌てて2人の肩の肉を抓りながら引っ張る。「痛ててッつねった!!」という声を無視して2人を机の下に押し込み息を殺していると、先ほどまでへばりついていた扉が開かれた。鶴見中尉殿は部屋の中を更に念入りに調べたあと部屋から出てゆく。アシパちゃんやソフィアさんとする会話を誰にも聞かれたくないみたいだ。

「猿ぐつわを外すけれど、大きな声を出してはいけないよ。手荒いことはしたくない」

 優しい口調でアシパちゃんに話しかける声。鶴見中尉殿の声は優しくて、慈愛に満ちているようで、それでいて悲しい。アシパちゃんに見せている顔はどんな顔なのか。私には分からない。

「オマエ誰だ!!」
「無理もないか。お互い変わってしまったものな。あれから……17年? 私を思い出せるかね? ゾーヤさん」

 ゾーヤさん……? ソフィアさんを別の名前で呼ぶ鶴見中尉殿の声を不思議に思っていると、鶴見中尉殿が「私の家族のことも忘れてしまったかな?」と言葉を続けてみせる。……鶴見中尉殿に家族が……?

「あいにく写真もすべてあの日燃やしてしまってね。彼女たちが生きていた証となるものは、この指の骨だけだ」

 指の骨――月島軍曹が言っていた言葉を繋ぎ合わせ、鶴見中尉殿の言葉を落とし込む。「娘のオリガと、妻のフィーナ」……Ольгаオリガ。祝福を意味する名前。その名前を自身の娘に与えるほど、鶴見中尉殿にとって大切な存在。その姿は今、鶴見中尉殿の掌に乗せられている。
 ドクン、と大きな音が自身の左胸から響く。それをあやすように手を置き呼吸を整えていると隣から冷たい気配が流れ込んできた。

「はぁ?」

 血管を浮き上がらせ鍵穴にかぶりつく月島軍曹。“本当に大切だったものを諦めて捨ててきた”コタンで吐き出した言葉を私は知っている。……月島軍曹からしたら、鶴見中尉殿の行動は許せないのだろう。捨てないという行為は、月島軍曹からしてみたら裏切り行為に思えるはず。

「フィーナとオリガの犠牲の上にあなた達は何を得ることが出来たのか、教えてくれないか?」

 扉に添えられた月島軍曹の指先が白む。知りたいと願った先が、鶴見中尉殿の個人的な弔いかもしれない。その為に自分は大事なものを捨てさせられた――。もしそうだとしたら、それはあまりにも酷い仕打ちではないか。……鶴見中尉殿がそんなことをする人だとは思いたくない。

「民族の生き残りを賭けた戦いか、愛する者への想いか。建前と本音の違いだけで、どちらも嘘ではない」

 再びドクンと鳴る鼓動。ソフィアさんの話に言葉を返す鶴見中尉殿は、軍人としての想いと、個人的な想いは共存すると言っている。

「全ての元凶はどこにあると思う?」

 教会で明かされる私の知らない過去。それら全ての元凶はどこかと鶴見中尉殿はアシパちゃんに問う。その言葉1つ1つが毒矢のように鋭くて痛い。「ウイルクが正直に身の上を明らかにしていたら7人のアイヌたちは殺し合わずに済んだ。もっと言えば北海道アイヌの金塊を当てにして日本に渡ってこなければキロランケも……」そこで言葉を置き、「さらに言えば……フィーナとオリガも」と付け加える鶴見中尉殿。
 鶴見中尉殿の言葉はいつだって優しくて、どこか温かい気持ちになるものだった。なのに、今聞こえる言葉は体中を突き刺すように強い。

「2人の骨も、今日まで捨てられなかった」

 月島軍曹……。ちらりと見つめる顔は鍵穴に向けられたまま。彼の気持ちを考えると心が苦しい。鶴見中尉殿の「“家族を愛してしまったがゆえに弱くなった”と考えれば、ウイルクを理解できなくもないが……」という言葉は、私にとっては嬉しい響きに聞こえる。鶴見中尉殿にも人を想う気持ちは確かにあるのだと思えるから。だけど月島軍曹にはそれを捨てさせ、この道しかないのだと思わせたのも鶴見中尉殿だ。

「全部……恨みだっタの? オリガとフィーナ殺した男。ウイルクの希望、私達の未来アシパ……メチャメチャに壊すために」

 ソフィアさんの言葉を聞いた月島軍曹の体に力が籠る。鶴見中尉殿の返答次第ではこの扉を蹴破って殴り殺しにでも行きそうだ。けれどそれは「復讐ならいくらでも機会はあった。樺太で殺してもよかったし、網走監獄を砲撃で更地にすることだって出来た」という鶴見中尉殿の言葉によって止められる。

「満州で眠っている戦友たち。ウラジオストクで眠っているフィーナとオリガ。彼らの眠る土地が日本の領土になればという祈り。だがその個人的な弔いのためだけに道を逸らすなどということは、断じて無い」

 月島軍曹の体から力が抜けるのが分かった。救われた――。彼は今、ようやく自分の選んだ道が、選ばなかった道に対して見合うものだと自信が持てたのだ。鶴見中尉殿の力強い言葉に、私の心も救われる気がしていると私と月島軍曹の肩を鯉登が叩き顔をあげさせる。…………なんだその顔。メン鯉登よりムカつくな。

「ウラジオストクになまえを置いてきた鶴見中尉殿を、信じて良かった」

 月島軍曹の言葉が私に向かって放たれる。……それは、鶴見中尉殿にとって私が月島軍曹が捨てたものと同じということだろうか。もしそうだとしたら。鶴見中尉殿が与えてくれた日々を、本物だと信じても良いのだろうか。

「お前の愛する人間はみんな殺される。私の愛するフィーナとオリガのように。私ならそれを防げる。私だって愛する者をもうこれ以上失いたくはない。だから金塊を放棄しろ、アシパ」

 アシパちゃんが葛藤する気配がする。アシパちゃんも杉元さんと一緒に金塊を探して旅をしている。だけど、こんなに小さな子がこれほどまでに苦しまないといけないようなことなのか。ゴールデンカムイ――鶴見中尉殿の言った言葉は、この金塊争奪戦を言い表しているようだ。アシパちゃんには、苦しい思いをして欲しくない。

「ホロケウオシコニ」

 アシパちゃんが吐き出した言葉を聞いた時、私は心のどこかでホッとした。……これで、良いんだ。




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