互いの道違えど

「宇佐美上等兵は?」
「精子探偵でもしているんじゃないですか」
「なんの探偵?」

 いやほんとに。なんの探偵? 菊田特務曹長の言葉に全員が口をポカンを開けるも、菊田特務曹長は特に言葉の補足をすることもないまま「宇佐美は先に行ってます」と話を前に進めてみせる。宇佐美さんが新聞記者からの情報を掴んだらしく、私たちも次の現場と予測されている場所へ鶴見中尉殿を待たずに向かうことになった。
 正直、宇佐美さんの名前を聞くと今でも体が強張る。鶴見中尉殿から贈られたリボンを汚されたあの時の顔は、今でも忘れられない。あれほど強い殺意を向けられたのは生まれて初めてだった。下手したら私の命は、あの時終わっていたかもしれない。大泊で再会した時は鶴見中尉殿も居たから何もなかったけど、次会った時はどうなるか分からない。

「祭りか?」

 嫌な予感を巡らせ顔を俯かせていると、その考えを消し去るかのような花火が夜空を彩った。鯉登は束の間の癒しと眺めているけれど、私にはどうしてもこの花火がそういう明るい物ではないような気がしてならない。真っ暗でも、明る過ぎても道は見えなくなってしまう。けれど、私はこの道を進まねば。それが私の選択なのだから。



 花火の上がった場所へ向かうと、やっぱりそこには掴み合う男たちが居た。額に四角いはんぺんのようなコブを持つ男と、その男に胸ぐらを掴まれる男。……宇佐美さんだ。くっと首が締まるような気分になりながらも鯉登たちと共に駆けよれば、菊田特務曹長が拳銃を構えながら「宇佐美上等兵離れろッ」と声を張り上げる。

「みんな撃つな!! 宇佐美に当たる!! 私が斬る!!」

 前の鯉登だったら宇佐美さんに「お前が避けろ」と言っていただろう。咄嗟に状況判断し、部下に危害が及ばないようにする鯉登に軍人としての成長を感じる。ある程度近付き相手の顔がしっかり見えるようになると二階堂さんがバッと足を止め「牛山だ……!! 近づくなッ手強いぞ」と警戒するように銃を構えてみせた。接近戦はダメだ――「鯉登」と叫び呼び止めようとした瞬間、牛山さんが一瞬の隙をついて宇佐美さんの体を持ち上げた。

「鯉登少尉避けろッ」
「……ん? 女?」
「きえええッ」

 さっきみたいに膝をがくっと折り曲げのけ反る鯉登。そのせいで宇佐美さんは勢いを止めることなくこちらにくるくると回りながら向かって来る。宇佐美さんを投げた瞬間、牛山さんの視線が私を捉えた気がしたけれど、暗がりでよく見えなかったのか牛山さんはそのまま背を向けて工場の中へと逃げて行ってしまった。慌てて後を追おうとするも、宇佐美さんの体がすぐそこまで迫っているので咄嗟に上へ跳び避ける。「工場の中へ逃げたぞッ」という鯉登の声に反応して駆け出そうとしたら足首に強烈な圧迫を感じ、前のめりに躓いてしまった。

「なまえ〜……」
「ッ!」

 私の足首を掴んでいたのは二階堂さんと共に地面に倒れ込んでいた宇佐美さんだった。急いで宇佐美さんの手から逃れないとまずい。本能がそう告げてくるのに、私の足はまったく動いてはくれない。

「痛ッ」
「起き上がりたいからさぁ、ちょっと手ぇ貸してくんない?」
「……大丈夫、ですか」

 おずおずと差し出した手を握られゾワリと悪寒が背中を走る。喉が締まったように息苦しい。鶴見中尉殿にとって、私なんてただの駒でしかないと知らしめた人。私の、心を踏みにじった人。その人が今再び私の前に居る。あの時はリボンを踏みにじられても怒りは湧かなかった。……だけどあの時、私の心は確かに痛かった。今ならそれが“悲しい”という感情だったと分かる。あの頃から私は、鶴見中尉殿のことを信じたいと思っていた。その気持ちを踏みにじられたような気がして悲しかったのだ。

「馬は馬らしく、あん時撃ち殺されたったらいかったがんに」

 立ち上がりながら耳元で囁かれた言葉。宇佐美さんは一体どこまでを知ってるんだろう。彼の不気味さに冷や汗を掻いていると私の様子がおかしいことに気が付いた鯉登が「なまえ?」と声をかけてきた。その瞬間宇佐美さんの手がパッと離され、「門倉部長!!」と誰か知り合いを見つけたのか、宇佐美さんはそちらへと駆け出してゆく。まるで私にはもう興味がなくなったみたいだった。宇佐美さんの本性を、鶴見中尉殿が知らないはずがない。それでもあんな狂気にまみれた人を傍に置き続けているという部分に、鶴見中尉殿の底知れなさを感じる。

「大丈夫か?」
「……うん。平気」

 気を取り直し鯉登と共に建物の中へと入る。樽が所狭しと並んでいる場所に行き着き暗がりを歩いていると「杉元ォ」と二階堂さんの怒号が響き渡った。やっぱり杉元さんたちもここに来てるのか。バッと周囲を見渡してみたけれど、尾形の姿はどこにもない。彼は狙撃手だ。今もどこかに隠れて様子を見ているに違いない。

「なまえはここに居ろ」

 隣に居た鯉登が静かな口調で告げ、そのままスルリと剣を抜き甲高い声をあげて杉元さんに向かってゆく。その背中からは“同じことは繰り返さない”という鯉登の覚悟を感じる。大泊の時とは違う鯉登の姿を見て、私もスッと銃を構える。守る為――。その為の銃だ。必要とあらば、私はたとえ相手が杉元さんでも引き金を引く覚悟だ。

「やめろアシパに当たる!!」

 興奮する二階堂さんを月島軍曹が必死に止める。その間も鯉登と杉元さんは殴り合っていて、辺りが一気に混戦状態となる。戦況を見極めようと目を凝らしていると頭上の樽が地響きと共に崩れ落ち、中に入っていたビールが勢い良く溢れ出した。鯉登が離れているように言ってくれたおかげで溺れずに済んだけど、もし巻き込まれていたら私は溺れ死んでいたかもしれない。泳ぎは昔から苦手だ。……苦手なのは泳ぎだけだ。……だ。

「うい〜〜!!」

 酔いどれ集団を見る限りここは放っておいても大丈夫だろうと判断し、「鯉登ッ。ここにきっと尾形も居る! 私行って来る!」と声をかける。アシパちゃんのことを菊田特務曹長が追いかけるのを見たけど、アシパちゃんのことだから自分の力でどうにか出来るだろう。警戒すべきは尾形だ。今この瞬間もどこかに隠れているのだとしたら、尾形はきっとアシパちゃんを狙う。尾形はアシパちゃんに樺太へ連れて行く程執着している。だったら、今もどこかでその銃口をアシパちゃんに向けているかもしれない。
 建物の外へ飛び出し周辺に視線を散らす。尾形が好みそうな建物に目星をつけ駆け寄ると下の方に蹴破られた箇所を見つけ、ここに尾形が居たのだと確信する。恐らくヴァーシャに狙われ逃げたのだろう。……私が尾形なら。尾形のこと、なんにも分かっていないけれど。狙撃手としてなら尾形のことを多少は知っている。……今度こそ。ちゃんと向き合いたい。



「宇佐美さん……?」

 建物に入って階段をのぼっていると上から宇佐美さんが降りて来た。その顔は真っ青で、よく見ると腹部から血が滴り落ちている。さっき会った時とはまるで違う様子に思わず立ち止まるも、宇佐美さんは私のことなど視界に入っていない様子。

「百之助なんぞに……かまってる場合じゃない」

 百之助。すぐそこに、尾形が居る――。「どけ」と宇佐美さんから腕を押され体勢を崩しながらも視線を上に這わす。一瞬だけ宇佐美さんのことを振り返り、すぐに階段を駆けあがる。あの様子だともう長くはないだろう。彼は最期の役目を果たしに行こうとしている。……どうか、鶴見中尉殿に会えますように。

「尾形ッ!」
「……なまえも銃持ってんのか。……いや。アレはお前の狙撃ではないな」
「良かった……生きてた」
「ははッ。しつこい女は嫌われるぞ」

 私が携える銃に視線を這わせ、すぐに逸らし鼻で笑う尾形。そのまま立ち去ろうとする尾形に「待って」と言いながら銃を向けても尾形は反応を見せない。私に撃つ気がないことを見抜いているのだ。だけど尾形とはこうしないと向き合えない気がする。その体勢のままじっと銃を構え続けていると尾形が再びフッと笑う。

「なまえに使われる銃は可哀想だな」
「あの時、どうして私の腕を撃ったの?」
「命令だったから」
「……命令?」
「鶴見中尉からお前を“殺せ”と命じられていた。だから撃った」

 鶴見中尉殿の命令――。その言葉にズキリと痛むのは心よりも右腕。宇佐美さんの言葉やこの2年間で頭のどこかにその考えはあった。私を要らないと言ってウラジオストクに置き去りにしたのは他の誰でもない、鶴見中尉殿だ。

 くだらない目的を持つ人間とは到底思えない――鯉登の言葉を思い出す。私の信じたい道は、鯉登の信じる道だ。もう1度銃を握る手に力を籠めて「じゃあ、どうして殺さなかったの? 大泊の時も。亜港の時も。尾形は私を殺さなかった」と言葉を重ねる。もう亜港の時のように、何も出来ないままでは終わらせない。

「だってそうした方が面白いだろ? なまえの葬式で鶴見中尉がどんな顔をするかよりも、生き延びたと知った時の顔の方が見てみたくなった」

 尾形の言葉は、自分の挙動に対して親がどういう反応するかを知りたがる子供のようだ。もしも尾形の言葉の通りなら、私は尾形の気まぐれで生かされた人生なのかもしれない。たとえそれが親を振り向かせたくて必死な子供心が原因だったとしても。あの時、私を殺さず狙撃手としての腕を奪うという選択をしたのは尾形だ。そのおかげで、私は今を生きられている。

「ありがとう、尾形」
「は?」
「第七師団で尾形が傍に居てくれたの、実は結構心強かったよ。だから、一緒に居てくれてありがとう」
「……別になまえの為じゃねぇ」
「私を殺さないでくれてありがとう」
「やめろ」

 覆いかぶさるようにして押し倒される。反動で落とした銃を拾おうとするよりも先、頬を下からガッと掴まれ動きを封じられてしまった。唯一動かせる目を尾形に向けると、尾形も私のことを見つめていた。

「綺麗な眼ぇしやがって」

 尾形の目は、真っ暗だ。尾形が上半身を起こして私の銃を私の目に突き付ける。……私はあの頃とは違う。ここに来るまでの道で、生きる理由が出来た。共に生きたいと思う人に出会った。私の居場所は、鯉登の隣だ。尾形と2年ぶりに再会したあの時みたいに、生きることから逃げるようなことはもうしない。
 右足にぐっと力をこめるのと、尾形がピクリと何かに反応するのは同時。視線を右側に向けたかと思ったら尾形はゆらりと立ち上がって銃を地面に落とす。

「お前はこのまま生きてみろよ。鶴見中尉が一体どんな顔をするのか、お前も確かめてみると良い」

 そう言って自分の銃を拾って立ち去る尾形。その背中に向かって「尾形」と呼んでも尾形が振り返ることはなかった。……尾形と話せるのは、これが最後だろう。最後にちゃんと伝えたいことが言えて良かった。じゃあね、尾形。

「……さようなら」




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