約束

 陸軍第七師団の中に女が居る――。その噂はたちまち周囲をざわつかせ、私は格好の的になった。

「おい! お前みょうじといったな!? 何故ここに女である貴様が居る!」
「……和田大尉殿」

 直立姿勢を保ち、敬礼で出迎えるとその手を掴まれ乱雑に払われた。そのせいで体勢が崩れるも、和田大尉殿は構わず唾を飛ばし続ける。……和田大尉殿と話していると、父親を思い出すな。

「私は鶴見中尉殿に命を救われました。そのご恩を返す為、日々研鑽を積んでおります」
「女ならば女らしく家に居ろ!」
「……帰る家はありません」

 帰る場所をなくしてどれくらい経っただろうか。おじいちゃんのお墓に、まだ1度も行けていない。あの男さえ居なかったら、おじいちゃんは死なずに済んだのに。……あぁでも。父親が居なければ私も居ないのか。子供は親を選べない。なんと皮肉たらしい話だろうか。

「ふッ」
「貴様何がおかしい!」
「申し訳ありません。和田大尉殿を見ていると、ついロクでもない男を思い出してしまいまして」

 私の言葉を聞いた瞬間、和田大尉殿の額に力がこめられるのが分かった。人がこういう表情をするのがどういう時かは、父親に嫌という程叩き込まれている。

「……ッ、」

 ただ違うのは。私は成す術なく殴られ続ける人形ではないということ。鶴見中尉殿の手を取ったあの時から、私は強い私で居ないといけなくなった。その為には、やられた分だけ同じようにやり返す必要があるのだ。
 殴られた左頬を抑えながら、思い切り右足を蹴り上げる。そうすれば和田大尉殿の体がくの字に折れ曲がり、声にならない悲鳴をあげた。

「貴様はどうにも死にたいようだな……!」

 急所を蹴り上げられた和田大尉殿の額からはダラダラと冷や汗が流れている。顔も真っ青に染まっていて、ついニヤリと口角が上がるのを抑えられない。あぁ、そうだ。私はずっとその顔が見たかった。
 
「殺されても文句は言えまい」

 軍刀に手を添える和田大尉殿をぼんやりと見つめていると、やけに近い場所からバチンと破裂音が響いた。その音と共に私の視界が揺さぶられ、遅れてきた痛みに頬をぶたれたのだと理解する。

「申し訳ございません和田大尉殿。この者には私がきつく言ってきかせますので」
「鶴見……! 貴様が拾ってきたこの女は一体なんなのだ!」

 和田大尉殿に殴られた左頬に比べたらなんてことない痛み。その痛みを感じながら前を向けば、和田大尉殿と私の間に立ちはだかるように立つ男の背中が目に映った。
 私の頬をぶった鶴見中尉殿は頭を下げながら、「この者は銃の腕が立ちます。故に楽して戦力が増えると思い、正式入隊ではないですが軍に引き入れました」と私のことを口にする。……そうだ。私なんてどうせ、そういう扱いだ。薄々分かっていたことに今更傷付くこともない。そう分かっているのに、心臓は頬以上の痛みを必死に訴えてくる。

「それにしてもじゃじゃ馬が過ぎる。こんなやつの手綱を貴様は本当に握れるのか」
「握ってみせましょう」
「……ふんッ。貴様は以前も失敗しているだろう」
「同じ過ちは繰り返さなければ良いのです」

 鶴見中尉殿の凛とした態度に和田大尉殿が言い詰まる。そうして苦し紛れに鼻を鳴らし「みょうじ。私は貴様を認めんぞ」と私に向かって言葉を吐き捨ててきた。その言葉には「中央には私から話を通し、既に許可を得ています。……和田大尉殿は中央の決定に異を唱えるということでよろしいですか?」と鶴見中尉殿が言葉を返す。

「貴様ら……覚えておれ……!」

 鶴見中尉殿の肩にわざとぶつかりながらその場を立ち去る和田大尉殿。その姿を鶴見中尉殿が冷ややかな目で見送り、「行くぞ」と静かに私に声をかける。そのあとを大人しくついて行き、「あの、」と声をかければ、誰も居なくなった所で鶴見中尉殿がくるりと踵を返し私と向き合った。

「申し訳ございませんでした」
「とても良い蹴りだったぞ、なまえくん」
「…………え?」

 下げた頭を思わず上げる。そうして見つめた鶴見中尉殿の顔は、とても穏やかなもので。ポカンと口を開く私に近付き、そっと頬に手を添えてくる鶴見中尉殿。

「ぶってしまってすまない」
「……全然、痛くありませんでした」
「和田大尉殿に言った言葉をどうか信じないでくれたまえ」
「……私は、あれが本心でも構いません」
「方便だよなまえくん」

 鶴見中尉殿の眉が悲しそうに垂れる。その様子に思わず吹き出せば、鶴見中尉殿もホッとしたように頬から手を離す。そうして「腫れぬよう、しっかり冷やしておくように」と労いの言葉を送り、「おやすみ」と優しく告げる鶴見中尉殿。……和田大尉殿に見せた顔と、今私に見せている顔。そのどちらが本当の鶴見中尉殿かは分からないけど。今はそれで良い。

「あぁそうだ。なまえくんの頬をぶったアイツの悪い指は、いつか私が食いちぎってやろう。約束するよ」
「えっ? ……あははッ、ふふッ。それ、和田大尉殿が聞いたら大変なことになりますよ」
「構わんさ」

 そう言って肩を竦める鶴見中尉殿は、とても心強い存在だから。




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