甘い本音

 病院で手当てを受けたものの、腕のケガは思っていたよりも深く、結果として私は戦線に復帰することは叶わなかった。

「なまえくん、ケガの調子はどうだい」
「今はもうだいぶ。……鶴見中尉殿は大丈夫ですか?」
「脳みそが少し欠けておる」

 日露戦争が終わり、旭川へ帰営してからすぐ。私は鶴見中尉殿につれられ、ロシアのウラジオストクを訪れていた。鶴見中尉殿は奉天会戦で頭に砲弾を受け、今も顔に包帯を巻いている。
 包帯巻きの男と、腕を負傷した女。周囲の人間は驚きの視線をこちらに向けるけれど、鶴見中尉殿はそれに構わず日本人街を闊歩してゆく。前に月島軍曹と訪れたことがあるのだと言いながら、色んな場所を訪れては他愛もない話をする鶴見中尉殿。決して万全とはいえない状態でここまで来たのには、何か大きな理由があるのだろうと黙ってついて来たけど、今の所何も決定的な話はされていない。

「あの、鶴見中尉殿、」
「ここからの眺めが好きでね」
「……え?」

 他愛もない会話を交わしながら辿り着いた先は、日本人街から離れた場所にある丘の上。そこで足を止めた鶴見中尉殿は「いつ見ても良い景色だ」と独り言のように呟く。鶴見中尉殿の思惑が読めず、戸惑っていればこの日初めて鶴見中尉殿と目が合わさった。

「なまえくん。キミはこれからはここで生きていきなさい」
「…………ぇ」

 あまりに唐突な言葉で、うまく言葉を咀嚼出来なかった。一体どうして――私が戸惑っていることなど口に出さずとも分っているはずなのに、何も補足する言葉は付け加えてくれない。それどころか、「なまえくん。私にとってキミは、もう必要ない存在だ」と尚もうまく噛み切れない言葉を吐き続ける。

「そ、んな、」
「その腕のケガじゃ戦いの場に戻れないだろう。大丈夫、しばらくは生活に困らないだけのお金もその他の手続きもすべて済ませてある。ご家族の供養も私が責任を持って引き受けるつもりだ」
「そんな……、どうしていきなり……」

 鶴見中尉殿の言葉をだんだん理解し始めた頃、脳がその理解を拒絶しだす。……今鶴見中尉殿に捨てられたら、私には何も残らない。私の唯一の居場所はそこしかないのに。

「お願いします……! これからも駒として動いてみせますから……! 利用価値のある人間だと証明してみせますから……!」
「なまえくん。私はキミを駒として見ていない」
「そんな……、」

 鶴見中尉殿にとって私は、最早利用価値のない捨てるべき駒らしい。絶句する私を無視し、鶴見中尉殿は「だからこそ、なまえくんとはここでお別れをしよう」と話を進めてゆく。

「言葉も分からない場所に置いていくなんて……どうして、」
「大丈夫。物乞いだって上手に言葉を話すんだ。なまえくんもすぐにロシア語を使いこなせるようになるさ」
「鶴見中尉殿……、」

 鶴見中尉殿の言葉が冷たく感じられないのはどうしてだろう。その言葉が冷たい刃先のようなものではなく、真綿のような優しさに思えてしまうのは何故だろう。……鶴見中尉殿の気持ちがまったく分からない。

「これをなまえくんに」
「コレは……」

 いつの日か渡されたリボンとよく似た白いリボン。前に貰ったリボンよりも大振りでレースが可愛らしい。差し出されたそれを受け取れば、「これからはこのリボンのように、真っ白な気持ちで人生をやり直して欲しい」と願われた。

「そんなこと……出来るわけないじゃないですか」
「すまないなまえくん。私はキミに酷な人生を与えてしまった」
「そんな、」
「死神は死神らしく――。それを貫くことが出来ない私は、死神失格だ」
「鶴見中尉殿……、」
「だから本当に落ちぶれてしまう前に。不要なキミはここで捨てて行く」

 私の懇願などで揺らぐことはないと分かっていても。それでも鶴見中尉殿の腕を掴まずにはいられない。鶴見中尉殿に捨てられたら、私は――。これからどうやって生きていけば良いのだろうか。

「Моя дорогая дочь」
「……?」

 鶴見中尉殿が私の体を抱き締め、ポツリと小さく言葉を吐きだした。それがなんだったのか、よく分からないうちにその体は離され「幸せになるんだよ」と微笑まれた。
 そうして鶴見中尉殿は私から距離を取り、そのまま二度と振り返ることはなかった。

 私は何1つ知りたいことを知ることも出来ず。誰の想いも分からないまま。ただ居場所がなくなったという事実だけが私の中に残った。




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