白を踏みにじる

 普段からニコニコと穏やかな人だと思っていた。女の私にも「宇佐美って言います。分からないことがあったら僕に訊いてね」と初対面から柔和な態度で接してくれていたし、実際手も貸してくれた。宇佐美さんは良い人――その認識は、目ん玉をひん剥き、口から涎が垂れるのも構わず私に怒りを向ける宇佐美さんの表情を見て剥がれ落ちた。

「おめが篤四郎さんの隣に居んのは許す。駒に過ぎねえち思うたったすけ」
「宇佐美、さ」

 グッと髪を掴まれ、そのまま壁に打ちつけられると呼吸がまともに出来ない。「うッ、」とうめく間も宇佐美さんは額に血管を浮き上がらせ、「だども!」と荒々しい口調で息巻く。

「リボンだと!?」

 宇佐美さんが私の髪の毛に付けていたリボンをむしり取り、それをそのまま地面へと叩きつける。そこでようやく宇佐美さんの怒りがリボンのせいだと気付くも、私にはどうすることも出来ない。
 乱れた髪の毛がパラパラと落ちて視界を覆うけれど、宇佐美さんの憤怒に燃える表情はありありと見える。髪の毛を掴んでいた手を首元にあてがわれ、そのままグッと圧迫される。その状態で息を吸おうと必死で口をパクパクさせてみても、それはただ意味のない行為に留まるだけ。

「おめなんかが篤四郎さんのいっちゃんなわけがねえ」

 空気を与える代わりに、怒りを押し付けてくる宇佐美さん。脳がそろそろ限界を訴えてきだした。意識が白みだした時、首元にあった圧迫感がようやく引いてゆく。押さえつけられていた反動か、腰が勝手に折れ曲がり宇佐美さんに背中を見せるような姿勢になる。
 その体勢のまま必死に空気を取り込んでいれば、咳と涙で異常事態を知らせてくる体。脳だって突然の出来事にうまくまわっていないし、どうしてこんなに宇佐美さんがリボンで怒るのかも分からない。

「篤四郎さんのいっちゃんは僕だーすけ、大目に見てやったがんに」

 宇佐美さんの顔を盗み見ようとすれば、それを見越したように髪を鷲掴みにして顔を引っ張り上げられた。思わず「痛い!」と叫んでも宇佐美さんには届かない。それどころか、宇佐美さんは余計に怒りを深め「いっちょめにいとしげリボンなんか……」と地面に落ちたリボンを睨みつける。

「おめなんか篤四郎さんからしてみたら鉄砲がうんめだけの駒ろ」

 篤四郎さん、いっちゃん、駒。宇佐美さんが興奮気味に話す言葉を拾い集め、うまく回らない頭でまとめた主張。これは恐らく、“嫉妬”という言葉が1番しっくりくるかもしれない。それだけ宇佐美さんは鶴見中尉殿のことを盲目的に慕っているのだろう。もしかしたら“愛憎”と呼んでも良いかもしれない。

「コンニャロ」

 乱雑に手を離され、体ごとふらつく間に宇佐美さんはその標的を地面に落ちたリボンへと移す。そうしてコンニャロ! と何度も吐き捨てながらリボンを踏みにじる宇佐美さん。その様子をぼんやりと眺めながら「鶴見中尉殿のこと、愛してるんですね」と呟けば、宇佐美さんの顔がグルリと私に向く。私は、そこまで誰かを想ったことがない。だからこうして我を忘れて怒り狂う宇佐美さんの姿は、少し新鮮に映る。

「どうしてそう思うんです?」
「……私には頂いたリボンをこうして踏みにじられても、宇佐美さん程の怒りが湧いてこないです。でもきっと、宇佐美さんは逆の立場だったら私のことを殺すでしょう?」
「そうだね。首を思いきり踏みつけるよ」
「そんなことが出来るくらい、宇佐美さんは鶴見中尉殿を愛してるんだなって」

 思ったことを正直に述べれば、宇佐美さんの表情がニッコリした笑みへと変わった。きっと私の答えが宇佐美さんの望む正解だったのだろう。途端に怒りが抜け落ち、「当たり前でしょ。鶴見中尉殿のことを1番理解しているのはこの僕なんだから」と鼻歌でも歌いだしそうな顔に変わる。

「……あぁそうか。分かった」

 続けざまに吐き出す言葉は驚く程軽やかで、先ほどまでここに居たのは別の人なのではないかと思う程。「僕たちは共犯者てがんに、なして気付かねかったろう」と肩を竦め苦笑する宇佐美さんは、目を細めながら私にその顔を向ける。

「キミが愛情を知らないから。だから鶴見中尉殿は手っ取り早く“愛情”を渡したんだ」
「それがこのリボンってことですか?」
「ふふッ。そうだ、そうだよ。結局キミも鶴見中尉殿の駒に過ぎないんだよ」

 うんうんと首を何度も縦に振り、自分の言うことを肯定する宇佐美さんは私の言葉など関係なしに話を進めてゆく。最早私の存在など眼中にないのだろう。

「鶴見中尉殿は君の“狙撃の腕”が欲しかった。そしてキミは親の愛に恵まれなかった。だから鶴見中尉殿はリボンっていう分かり易い愛情をチラつかせてキミを駒にしたんだ」

 考えてみれば、宇佐美さんの言っていることはあながち間違いではないと思う。確かに、狙撃の腕が良くなかったら、鶴見中尉殿は私に目を掛けることもなかっただろう。前に聞いた“楽して手に入る戦力”という言葉。それが鶴見中尉殿の本心だったのではないか。その後に言われた言葉が方便で、実際は私なんて“安い駒”なのかもしれない。……それで構わないと言ったのは私だろう。

「私はそれで良いんです」
「……へぇ」
「他に生きる場所もないですし、駒として扱われるのが私にとって唯一の居場所ですから」
「そっかそっか。なんだぁ、キミも弁えられるんじゃん。ま、僕が教えてあげたおかげだけどね」

 宇佐美さんは「結局、篤四郎さんのことをいっちゃん理解してるのは僕だってことらね」と独り言のように呟いて私の前から立ち去って行った。そうして残ったのは、土で汚れたリボンだけ。……まるで私の心そのものだ。




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