「もすッ!!」

 お菓子を食べながら、鯉登が上機嫌で「もす! うふふ……」とはしゃぐ。「父上を思い出した」と嬉しそうに話す鯉登に対し、月島軍曹は少し言葉を噤む。そしてその後、「鶴見中尉殿もさぞかし喜ばれるでしょう」という言葉をそっと続けてみせた。

「月島も食べろッ。元気になって早く北海道へ帰るぞ」

 自身の顔に乗せられたモスを必死に食べようとする月島軍曹を眺める鯉登は、今にも鼻歌を歌いだしそうだ。鯉登にとって、鶴見中尉殿はまだ絶対的存在なんだと分かれば分かるほど、鶴見中尉殿に会うのが怖くなってゆく。……でも、それでも。私は、知りたい。

「医者をここに連れて来なくては」

 ニヴフの人が、草だけでは尾形の傷は治せないと眉を下げて言う。それを聞いた杉元さんが言った言葉に、「危険を冒してまで尾形を助ける必要なんかないはずだ」と反論するのは鯉登だ。鯉登の言うことはごもっともだけど……。まだ少し鯉登の唇が尖っているのを見て、なんともいえない気持ちになる。アシパちゃんと共に顔を俯かせれば、「でも月島軍曹だってちゃんと医者に1度診てもらった方が良いだろ?」と言う杉元さんの声が鯉登を黙らせた。
 そうして杉元さんはニヴフ民族の格好をして医者のもとへと出かけて行った。その背中を見送り、鯉登をチラリと見上げれば「……幼心で言ったのはないからな」と気まずそうに告げてくる鯉登。

「分かってる。鯉登は正しいよ」

 多分、鯉登は誰よりも正しい。その正しさを貫く強さも持っている。だから、鯉登について行こうと思える。そういう鯉登のことを信じてるから――だから。

「鯉登も私のこと、信じて」
「……あぁ」

 



Нодо отвезти его в мою больницу私の病院に運ばなければ

 杉元さんが連れて来た医者が尾形の容体を診て、手術が必要だと診断する。その言葉に鯉登は反論するけど、杉元さんは「分かった、運ぼう」と尾形をそりに乗せる準備に取りかかりだす。誰よりも尾形に殺意を抱く杉元さんがここまでして尾形を助けようとしているのは、きっとアシパちゃんの為だ。その気持ちが分かるから、「鯉登、私からもお願い」と鯉登に声をかければ「……分かった」と鯉登も折れてくれた。

Боюсъ,до утра Не протянет...明日の朝までもたないだろう
「そんな……、」

 医者の言葉を聞いて思わず絶句する。やっと会えたと思ったのに……。一言も話せないままなんて……。「もうすぐ死ぬって……」と言うエノノカちゃんの言葉で、アシパちゃんも悲し気に俯く。……尾形、まだこんな所で死んじゃダメだよ。

「死ぬのを確認する。……なまえも来るか?」
「……うん」

 鯉登の問いかけに頷き、鯉登と共に病院の中へと入る。そうすれば入れ違いのように先に入っていた杉元さんが顔を輝かせながら、「尾形が逃げた!!」と外に居るアシパちゃんに向かって声を張り上げ、私たちの横を駆け抜けて行く。その手に握られていた剣を見た時、杉元さんが何をしようとしていたのかが分かって思わず息を呑んだ。……この人は、アシパちゃんの為になら地獄にでも向かう覚悟があるんだな。

「なまえ! 行くぞ!」
「うん」

 鯉登と共に部屋に入ると、医者が血を流し倒れていた。慌てて駆け寄れば「задうしろ」と小さく呟く声。その声にバッと振り返った時、時が止まったような気がした。

「尾形……、」

 助手の首にハサミをあてがい、ニヤっと口元を歪ませる尾形。……生きてた。……尾形が、今目の前で生きてる……。尾形に近寄ろうとした瞬間、その腕を鯉登に掴まれ横へと突き放された。そうして尾形に向かって銃を構える鯉登に「待ッ、」と声をかけようとした私を、尾形が視線で突き刺す。その瞳のあまりの冷たさに思わず息を呑むと、そのまま尾形は視線をズラし「Вали его с ног!その男を殴り倒せ!」と荒っぽいロシア語で怒鳴る。

「ロシア語!?」

 尾形がロシア語を話せたなんて。そのことに驚きつつ、咄嗟に「鯉登ッ」と名前を呼ぶも不意打ちを喰らった鯉登は、医者から頭を思い切り殴り飛ばされてしまった。助手を突き放し鯉登に近付く尾形は、鯉登から拳銃を奪い「Барчонок」と吐き捨てた。そうして引き金を引きかけた時、外から聞こえてきた谷垣さんたちの声がその指を止める。多勢に無勢と判断したのか、尾形は短い舌打ちと共に思い切り鯉登の頬を蹴り上げた。

「鯉登ッ!」

 思わず声を張り上げれば、ジロっと尾形に睨まれ「……なまえ。わざわざ俺のあとを追って来たのか?」と地を這うような低さで問われた。

「わ、私、」
「俺の頭ブチ抜くことも出来ねぇくせによぉ……。なんの為になまえはここに居る?」
「私は……、」
「……ふんッ。結局なまえもそっち側なんだよ。……あん時、殺しとけば良かったな」
「あの時って……、」

 一気に思い出される尾形とのやり取り。思い当たる節を必死に手繰り寄せる私に、「まぁいい。テメェに用はねぇ」と吐き捨て興味をなくしたように瞳を逸らす。……どうしよう。尾形に会えたのに、何も言えない。何を言っても尾形には届かない。尾形に、今の私じゃ言葉を届けられない。

「なまえッ! しっかりしろ!」
「ッ!」
「今度鶴見中尉に会ったら……“満鉄”のことを聞いてみろ」
「……ッ?」

 鯉登にそう吐き捨てたあと、尾形は医者に命令し逃亡の準備を始めだす。その背中に「待って……!」とハサミを構えながら声をかけても、尾形は「銃も持ってねぇなまえに何が出来んだよ」と鼻で笑うだけ。……この手段が、尾形にとっての救いなら――。

「ダメだなまえ、貴様が手を下してはならん」
「鯉登……、」
「なまえのするべきことは、それではないだろう」
「……ッ、」

 鯉登の言葉で、ハサミをぎゅうっと握りしめていた手から力が抜けてゆく。……私は、尾形を殺せない。殺したくない……。「尾形、お願い……。話を聞いて……、」目尻に溜まる涙に構わず尾形に縋っても、尾形は何も言葉を返してはくれない。それでも……どうか、どうか――。

「尾形……ッ」
「……せいぜいボンボンと仲良くやってろ」
「……ぐッ、」

 次の瞬間、顎に衝撃が走った。その衝撃が脳を揺らし、意識がふっと遠のく。揺らぐ視界の向こうには、背中を向け立ち去ってゆく尾形の姿。ダメ……行かないで……。そう声を出したくても、狭まる視界がそれを許してくれない。最後に尾形が「じゃあな」と言ったような気もするけど、それを確かめることもままならない。……尾形がどこに向かいたいのか――。どうすれば尾形を救えるのか――。知りたい。尾形のことを、分かりたい。






「――……なまえ」
「鯉登……、」

 目が覚めた時、鯉登のホッとした顔が視界に映った。慌てて起き上がろうとすれば、それを鯉登に制され「尾形はあのまま逃げた」と知りたい情報を与えられる。……生きていたことは嬉しいけど、私は結局、なんの力にもなれなかった。

「私……、尾形に何も言えなかった」
「そう気を落とすな。ヤツは生きている。まだ機会はあるだろう」
「…………うん」
「どこか痛む場所はないか?」
「うん、大丈夫」
「そうか。……では私たちも帰ろう。皆外で待っている」

 鯉登の手を借りてゆっくりと起き上がれば、そのまま優しく抱き締められた。「鯉登……?」と様子を窺うと、「……なまえは、何も知らないんだよな?」と瞳を覗き込まれる。その目がひどく揺らいでいるのが分かって、思わずぐっと言葉に詰まった。……あぁ、やっぱり。あの時尾形が言った“満鉄”という言葉は、鯉登の知らない鶴見中尉殿の姿だったんだ。……鯉登に手を差し伸べたことにも、理由があったんだ。

「……何も知らない」
「そうか。…………良かった」
「鯉登……、」

 鯉登は、私が知らないことを喜んでくれる。こういう状況でも私のことを想ってくれる鯉登の気持ちに、どうしようもなく胸が締め付けられる。きっと鯉登は今、自分が信じていたものがグラグラと揺れて不安で堪らないはず。それでも、私のことは揺らぐことなく信じてくれることが、どうしようもなく嬉しい。

「ありがとう、鯉登」
「礼を言うのは私の方だ」
「え?」
「なまえが居てくれるから、私も本当のことを知ろうと思える」

 ……強いな、鯉登は。私なんかよりずっとずっと強い。そんな鯉登の姿に、私は光を見いだす。鯉登ならきっと、私を救ってくれる。何があっても守ってくれる。
 鯉登が傍に居てくれたら、私は本当のことにしっかりと向き合える。……鶴見中尉殿によって差し伸べられた手が、本当に正しいものだったのかどうか、きちんと判断出来ると思う。

「きっと、鶴見中尉殿に縛られてる人は他にも居ると思う」
「……それは、」
「それが縛りなのかがハッキリとは分からないけど。もしその人がそれに苦しんでるのなら、救ってあげたい」
「……あぁ」
「鯉登が私にしてくれるように。私も、誰かの救いになりたい」

 ぎゅうっと鯉登に抱き着けば、鯉登も私を受け止めてくれる。……大丈夫、私の傍には鯉登が居てくれるから。どんな真実も、ちゃんと受け止められる。

「一緒に帰るぞ、北海道に」
「うん」
「なまえ。何があっても、なまえの居場所は私の隣だからな」
「……うん。ありがとう」

 鯉登が傍に居てくれさえすれば、私は自分の選択に迷うことはない。自分が居る場所を見失わずに済む。鯉登は私にとって道しるべで、光だから。




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