頭隠して気持ち隠せず

「このスーシュカという菓子パン……お茶うけにとても合う!! 鶴見中尉殿に教えてあげたい」

 燈台を所有していた先ほどの老人夫婦が住む家に場所を移し、出されたパンとお茶を味わう鯉登はいつも通りに戻っていた。鯉登は今どんな気持ちなんだろうと気になって見つめている時、ドアがバタンと音を立てて来訪者を知らせる。

「杉元さん! 良かった!」

 顔いっぱいに雪を貼り付けた3人は、しばらく呆然と突っ立って放心状態だった。さぞかし大変な思いをしただろうと出迎えれば「Иди погрейся на печкаペチカの上で暖を取りなさい」とおじいさんがストーブの上を指差す。

「ストーブの上を使って良いよって言ってます」
「ペチカの上がこの部屋で1番温かい。ロシア人はその上で寝るんだ」

 月島軍曹と2人で杉元さんたちに伝えると、杉元さん谷垣さんチカパシくんの3人はそこにぎゅうぎゅう詰めになって暖を取りだす。この部屋に来てから一言も発してない様子を見て「Могу я сделать им чашку чая?彼らにお茶をあげても良いですか?」とおばあさんに尋ねれば、おばあさんは快く頷いてくれた。人同士の助け合いに、人種は関係ないのだと言われているような気がして、じんわりと心が温まるのが分かる。

「ふふ……虫みたい」

 人間同士の温かいやり取りに胸熱くしていれば。隣に座る鯉登は1人優雅にお茶を楽しんでいる。いつもだったらボンボン少尉め、と呆れる所だけど、今日はちょっとうまく笑えそうもない。その様子を見た月島軍曹は私と目が合うなり、私の中にある本心を探ろうとする。多分きっと月島軍曹は燈台で何かあったことに勘付いているはず。それでも何も言わないでいてくれたのは、月島軍曹の優しさからだと思いたい。

Поспите здесь сегодня泊まっていきなさい
Спасибоありがとう

 宿を貸してくれると言う夫婦にお礼を告げ、今日はここで眠ることになった。おばあさんが案内してくれた部屋のベッドに横たわり、鯉登が眠る部屋の方を見つめる。
 もし、鯉登に全てを話すことが出来たら。その時鯉登はなんと言うのだろう。どんな顔をするのだろう。鯉登は、私の言うことを信じてくれるだろうか。私の信じたいと思う事を、一緒に信じてくれるだろうか。

「そうだと良いな」

 今こうして悩んでいる私ごと、鯉登は守ってくれるだろうか。



「ヘンケすごい!」

 翌朝。元気を取り戻した杉元さんが「ごめん。昨日、そり燃やしちゃった」と謝りを入れると、ヘンケはありあわせの材料でそりを完成させてみせた。もう少し足止めを喰らうものだとばかり思っていたので、ヘンケの手腕に杉元さんと2人で唸る。……ヘンケ、本気で格好良い……。トゥクン、とときめく心臓を抑えながらヘンケを見つめれば、ヘンケは静かにふっと笑う。しょ、職人だ……!

「月島ァ!!」

 もう随分と聞き慣れた声。その声に視線を動かせば、「金槌が手にくっついた!!」と慌てる鯉登の姿。……あれなのかな。やっぱり鯉登ってバカなのかな? 昨日私が感じた気持ち、返してくれる?

「この気温なのに素手で金属に触れればそうなるでしょう。無理やり剥がせば手の皮が破けます」

 当たり前の指摘に顔面蒼白する鯉登に、ふっと零れ出た声。昨日はうまく笑うことも出来なかったけど、今日の鯉登は思い切りバカに出来そうだ。「誰か小便かけてやれ」という言葉に、「オレ……出るぜ。手ぇ出しな」と職人のように名乗りをあげる杉元さん。……もうこれくらいのやり取りじゃ誰も動じない。

Мы поможем вам手伝います
Спасибо助かるわ

 料理を作っていたおばあさんに声をかけ、エノノカちゃんチカパシくんと共にペリメニの生地を包んでゆく。それを壺の中に入れ、ペチカで焼いていれば心なしかしっとりした鯉登が戻って来た。

「……疑問なのだが。小便である必要が、あったと思うか?」
「お湯で良かったとは思うよ」
「…………そうだよな?」

  私は、月島に嫌われているのだろうか……と今まで見たこともない顔で手洗い場へと向かって行く鯉登を全員で見送り、誰も言葉を発さず各自の持ち場に戻る。そうして出来上がった料理を皆で囲み、「フクースナ」と言い合えばご夫婦の顔が嬉しそうに緩む。

Мы всегда вдвоемいつも2人だけだから
Мне приятно, что вы все здесь今日はとても楽しいよ

 そう言う2人の顔が、私に向けられている気がして首を捻る。「あの写真は娘か?」と問う鯉登の指先を辿れば、私と同じ年齢くらいの女性の写真が目に入った。再びご夫婦に視線を戻すと、2人の顔が悲しげな表情に変わる。そうして明かされた娘さんの存在。……あぁ、この人たちも“分からない”辛さを抱えているのだ。娘さんが今何をしているのか、どこに居るのか。それを知りたいと願う気持ちは、痛いほどよく分かる。

 2人に近寄ってその背中を擦れば、2人から抱き締められた。こんなに良くしてくれた2人に何か恩返しは出来ないだろうか――。その思いを視線に乗せた時、杉元さんと目が合う。そうして杉元さんはしっかりと頷き、「探そう」と笑ってくれる。

「Я буду спрашивать о вашей дочери везде, где бы я ни был(娘さんのこと、探してみます)」
Вы уверены?本当かい?

 顔を見上げる2人に微笑み、「Я сделаю все, что в моих силах(頑張ります)」と告げれば、何度も「Спасибоありがとう」と繰り返される。……もう1度尾形に再会したら、尾形は嬉しいと感じてくれるだろうか。

「おかあさん。あの空っぽの額に俺の写真を入れておいたから、もしも燈台にこのアイヌの女の子が立ち寄ったら伝えてくれ。“杉元佐一が生きてる”って」

 杉元さんの言葉をご夫婦に伝え、出発の準備を整える。その傍らで「写真、アレで良いんですか?」と杉元さんに問えば「うん。アシパさんに見せるにはアレが1番だから」と杉元さんは笑う。その言葉に笑い返し、「アシパちゃんがあの写真を見た時の顔、見てみたいな」と呟けば「見れるよ、絶対」と杉元さんは言葉を続ける。……杉元さんは凄いなぁ。まったく揺らがない。

「よし行こう!」

 ご夫婦に別れを告げ、再び走りだす犬ぞり。昨日とは打って変わって晴天の空を見上げふと思う。……今私の後ろに居る鯉登って……。首を動かし後ろを振り向けば、「なんだ?」と鯉登が問うてくる。それには答えず自身のお腹にまわった腕を見つめ、もう1度視線を鯉登へと移す。鯉登は意図が読めないのか、「な、なんなのだ……?」と戸惑っている。

「あのさ、今鯉登が着てるコートってさ」
「……あぁ」
「杉元さんのオシッコ、かかったやつだよね?」
「なッ……バ、バカを言うな! ちゃんと着替えた!」

 コートが変わったかどうかなんて覚えてないし、いまいち信用出来ない。鯉登の言葉に「……うわッ」と短めの声をあげたのは、鯉登の後ろに乗っている月島軍曹。いやでも月島軍曹、ちょっと自業自得じゃありません? 私なんて完全に被害者なんですけど。

「ちょっと……離してくれる?」
「ムッ。そしたら私が落ちてしまうだろう!」
「いやでも……ほら、やっぱオシッコ野郎に抱き着かれるのは嫌っていうか……」
「お、おし……だから違うと言っているだろう!」

 お腹にまわされたコートを摘まみながらその腕を離そうと試みれば、「キエエッ! こうすれば良かじゃろ!」と視界を覆われた。この感覚何度か味わったなと思っていると、再び聞こえてくるうるさいくらいの鼓動。そうしてコートの中に引き込まれたのだと理解するのと、「うんぶッ」とうめき声をあげるのはほぼ同時。「月島軍曹も私のコートの中に入れば良い!」と自棄を起こしたように吐き捨てる声がくぐもって聞こえる。「いえ結構です。お気遣い感謝します」と私を切り捨てる月島軍曹の声もくぐもって聞こえてきて、思わずコートの中で「ちょっと! 月島軍曹ッ!」と叫ぶもその声は誰にも届かず。……ねぇこれ、完璧私巻き込まれ事故でしょ。必死の思いで鯉登から離れようともがけばもがく程、鯉登の力は強まってゆく。……ちょっと、お願いだから。私の心臓だって同じくらいうるさくて心が休まらない。こんなの耐えられない。というかまず体勢がキツい……。

「鯉登……腰、限界」
「あ、す、すまん」

 腰が痛いと訴えれば、ようやく鯉登が解放してくれた。……これならオシッコートに抱き着かれていた方がまだマシだ。さっきまで寒くて堪らなかった風が、今は丁度良い。火照った頬をその風に当てて冷ませば、エノノカちゃんがふと振り向き私の顔を見つめる。その表情が前に見たヘンケとそっくりで、私は思わず「な、何ッ」と子供染みた声で反応してしまった。

「なまえ、ボッキ?」
「違うから!」

 エノノカちゃん、この旅で一体何を学んでるの。「良いから前向きな」と少し荒っぽい口調で言ってもエノノカちゃんにはまったく響かない。……犬ぞりってこんなに疲れる乗り物だったっけ?




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