農夫と赤いスカーフ

 宮兄弟がバレーを続けるか、続けないかの大喧嘩よりちょっと前。北信介にも同様のことが起こっていた。相手は私だ。
 それまで、信介と私は大耳と信介に負けないくらい穏やかな関係であった。信介の言うことに筋の通ってないことはなかったし、言い合いになったとしても結局は私に非があったなと自身で反省することばかりだった。そう自問自答して「ごめん」と言えば信介も「俺も悪かったわ」と謝ってくれた。だから、信介が正論ばかり並べても嫌気がさすことはなかった。

 それが。あの時ばかりは互いに折れず歩み寄らず。あの宮兄弟でさえオロオロと困惑するほどだった。私たちのことに周囲を巻き込んでしまっているという動揺もあった。だけど、それでも。どうしても、あの頃の私は信介の進路に素直に頷くことが出来なかった。もちろん、背中を押すことも出来なかった。
 信介の実家が農業をやっているのは付き合う前から知っていたし、すぐそこに点と点はあったのだ。だから、信介と農業を線で結ぶことなど、考えてみれば容易いことのはず。だというのに、当時の私は信介から「農業の道に進む」と言われた時かなりの衝撃を受け、同時に絶望した。農業という、何かを産み出す職に就くというのはそう容易いことではない。その道に進むということは、それなりに自分の人生を呈さないといけないということ。それはつまり、信介は私より仕事を取ったと言っても良いのではないか。私にはそれが許せなかった。
 私にだって夢がある。その夢は、信介の傍で叶えることは出来ない夢だった。信介はこの地元の大地を愛し、そこに芽を宿すことが夢なのだから。私の咲きたい場所は、信介の傍ではなかった。だから。私たちは離れて暮らすことを決めた。

 そうして離れて暮らして思い出すのは、何故か地元のことばかりだった。今では自然の景色など、この画面の中でしか見ることはない。そういう電子に囲まれた華やかな都心に居ると、どうしてか信介の居るあの場所に思いを馳せてしまう。

「このスカーフ……」

 ぼんやり眺める通販サイトで出会った赤いスカーフ。その赤は、信介の実家が持つ田んぼから見た夕陽を思い出させた。黄金の大地に映える赤い光は、まるで信介の持つ温かさのようだと感じたことを覚えている。信介はいつだって冷静で、取り乱すなんてことはただの1度もなかった。離れて暮らそうという決断に至った時でさえ、いやもっと言えば互いの進む道が違うと分かったあの時でさえ。私が一方的に怒鳴り散らしただけで、信介は1度も声を荒げることはなかった。……だけど。私は、信介の冷静さの奥に深くて温かい想いが宿っていることを知っている。今私がこの地に居るのもそうだ。信介が私の想いを尊重してくれたから、私は自分の夢に向かって進むことが出来ている。

「……よし」

 画面には“購入完了”の文字。この赤いスカーフは、私の想いだ。綿毛ではなく人の手によって、だけど。だけど、綿毛のように目的地へと降り立ち、彼の男のもとへと届けられる。きっと信介はこの赤いスカーフを巻いて、自身の育てた麦を誇らしい表情で見つめるのだろう。
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