地獄へコール

「元気やった?」
「普通」
「フツーか。そんな感じやな」

 はんっ、と鼻で笑う声がする。その声を背中で聞きながら「侑は? 元気しとった?」と日常会話のように尋ね返すと、その質問には舌打ちを鳴らされ分かり易く不機嫌であることを訴えかけられた。

「俺の活躍、見てへんわけないやろ」
「まぁ。オリンピック選手やし」
「それやのにどの口で“元気しとった?”とか聞くねん。おもんな」
「そうやな」

 侑のこういうところ、昔から変わっていない。納得のいかないことや不満がある時、侑はいつも態度や言葉でそれを表現してみせた。私との再会がそんなに嫌なものであったのならば、わざわざ声をかけてこなければ良かったのに。今の私たちは赤の他人で、偶然居酒屋で席が隣り合っただけの関係性なのだから。変なところで意地っ張りなのも昔からだ。

「彼氏サン、地味やな」
「そうやね」
「なまえも。地味な服着て地味な顔しとう」
「そうやね」
「……なんやねん。そない俺と会話しとうないんか」
「別に」

 侑が振り返る気配がする。けれど私は決して振り返らない。「おい。こっち見ろや」取り繕うこともしなくなった怒声を頑なに背中で受け続ける私に、侑がもう1度なまえと名を呼ぶ。

「なんやの今更。もうええやん、私なんか」

 そっちだって私とは全然違う煌びやかな女性と一緒じゃないか。その道を選んだのは侑の方だというのに。どうして今更偶然再会した元カノにまでちょっかいを出そうとするんだろう。もう放っておいて欲しい。私は侑みたいな人間ともう二度と関わりたくはないのだ。

「俺のこと、ほんまに忘れられたんか」
「忘れてるから今別の人と付き合うてるんやんか」
「ほんまにアイツのこと好きなん」
「好きやで」

 侑にこそ訊きたい。侑の反対の席に座っていたあの可愛い女の子のこと、侑は本当に好きなのか。大事にしたいと思えているのか――。訊いたところでどうしようもないことだ。

「ほんならなんでそない地味な格好でいられるん」
「着飾らんでええっちゅう居心地の良さ、侑は知らんのや」
「知らん。ほんまに好きなヤツの前でそない気ぃ抜ける女なんか見たことない」

 侑に好意を寄せる女性はそうなんだろう。現に今もあの子は「お手洗いに」と身なりを整えに行っている。その気持ちは私にだって分かる。だけど、私はその努力を続けることが出来なかった。どれだけ自身を磨いても埋まらない侑への劣等感。決して同じ熱量で向くことのない侑の視線。それらに耐えかねて「別れたい」と切り出した私に、侑は汚らわしいものを見つめるような表情で「失せろ」と吐き捨てたのだ。
 あの日から数年。ようやく手にした居心地の良い恋愛。どうかこの平穏で地味な日々を壊さないで欲しい。

「あとで駅んとこにあるホテル来て」
「行かへん」
「来い」
「嫌や。私には付き合うてる人がおんねん」
「好きでもないやつに抱かれるくらいなら、俺が抱いてやる」
「私なんかより、“好きや”言うてくれるあの子を抱いてあげて」
「別に俺アイツ好きとちゃうし」

 最低な男。クズだ。
 なんでこんな男のことを堪らなく好きだったんだろう。心の底から軽蔑したいのに、数年ぶりに味わうこの男の身勝手さにひどく心が揺さぶられてしまう。だめだ、ようやく手にした恋を手放すわけにはいかない。

「アイツと俺なら、なまえは俺に抱かれたいやろ」
「……嫌」
「早いとこ彼氏サンとのデート終わらせてな」
「嫌や。今日は家に泊まんねん」
「俺の連絡先、渡しとく」

 机の端に置かれたアンケート用紙を使って走り書きされた11桁の数字。それを机に差し出されすぐに目を逸らす。グラスのコースター代わりにでもしてやろうか。そんなことを思うのに、数字の羅列が気になってしょうがない。
 後ろの席では何も知らない彼女が「お待たせ」と可愛い声を転がしながら侑との世界に戻って来た。そんな彼女に侑は「ううん。待ってへんよ」なんて言葉でうそぶいている。
 再び訪れた1人の空間。店の外に視線を伸ばすと、未だに取引先の電話にペコペコと頭を下げている彼氏の姿が目に映る。……はやく戻って来て。はやく私をあなたの家に連れて帰って。私を、地味な世界に縛り付けて。

 私を惹きこんで離そうとしない煌びやかな11桁の数字を、はやく無意味なものにして。
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