核を掴む

 綺麗な小川をじっと見つめ、その澄んだ流れにしばし見惚れる。さらさらと流れる水を見つめていると、やけに居心地が良く思えていつまでも眺めていたい気分になる。この小川の向こうにはもっと綺麗な場所が続いているのだろうか。ふとそんな考えが過り、足を小川の中に踏み入れた瞬間。

――なまえ!

 それはどこか遠くのようで、とても近い場所から響いてきた。出どころを探そうと小川の中で立ち止まり、周囲をキョロキョロと見渡すも辺りには誰も居ない。誰の声だったのだろうか。……というか、なまえとは一体誰の名前だろう。

――なまえ!

 気のせいかと思った瞬間、今度はさっきよりはっきりとその声は聞こえた。その声があまりにも切迫していて、何故が私の胸がぎゅうっと苦しくなるのが分かる。……なんだろう、ついさっきまで居心地の良さを感じていたはずなのに、今では一刻も早くこの場所を離れたい気持ちになっている。

――なまえ!

「誰……?」

――なまえ!

 何度も何度もその名前を耳にするたび、私の中に焦燥感が込み上がってくる。……なんで、どうして。どうして、この名前を聞くたび、私はこんな気持ちになるのだろう。

――なまえ! 戻ってきとうせ……!

 その声に意識を向けると、名前のあとにこんな悲痛な声が続いてることに気が付いた。その途端、私の脳内にバチン! と電流が走り、私は弾かれたように目を見開いた。

「陸奥守さん……!」

 私はここよりも居心地の良い場所を知っている。その居場所を思い出した瞬間、瞳からボロボロと涙が溢れ帰りたくて堪らなくなった。

――なまえ!

 あぁ、陸奥守さんだけじゃない。みんな、私のことを必死になって呼んでくれている。こんな所に居る場合じゃない。はやく、はやくみんなの所に戻らねば。

「みんな……!」

 幾重にも重なるその声は、必死なって私を呼んでくれているのだ。その声がする方へ足を向け、小川から出た瞬間、眩しい光に包まれ思わず目を瞑ってしまう。

「……あれ、」
「――なまえ! なまえ!」
「陸奥守さん……」
「……っ!」

 目を開けば、布団に横たわる私を囲むようにして本丸の全員が集結していた。その一人ひとりと視線を合わせていけば、私がどれだけ心配させていたのかを思い知る。……そうか、私――。

「戦場に行っちゃったんでしたね」
「なしてあんな無茶なことを……!」
「皆さんを失うかもしれないと思ったら……居ても立っても居られなくなってしまって、」
「あほ! 主はわしらと違ってそう簡単に治せる体やないろ!」
「……すみません、」

 いつも朗らかに笑う陸奥守さんがこんな風に怒るだなんて。それだけ自分が大きなことをしでかしたということだ。出過ぎたことをしてしまったことを痛感し、もう1度掠れた声で謝罪すれば、今度は今にも泣き出しそうな表情を浮かべる陸奥守さん。

「えいか、なまえ。こん本丸の主はなまえただ1人じゃ。ほうやき、勝手に居らんくなろうしたらいかんぜよ」
「……はい」

 静かに、ゆっくりと。深く深く頷いてみせると、陸奥守さんの表情がぐにゃりと歪む。そうしてその顔を伏せ、ポツリと「ほんまに、良かった」と陸奥守さんは呟いた。

「ほいたらわしらは戻るぜよ。えいか、主! おまさんはしばらく絶対安静じゃ!」
「で、でも……」
「なまえ。絶対安静。えいな?」
「……はい」

 名前という核を掴まれてしまうと、もう私に成す術はない。こういう時に使われてしまっては、もうどうしようとないなと私はふっと苦笑を浮かべる。

「私は、幸せ者だな」

 どうやら私は、とても優しい付喪神たちに核を掴まれてしまったらしい。
BACK
- ナノ -