大切な人だから

 最悪だ。こんな姿、誰にも見られたくない。
 そう願う時ほど、神様は願いを叶えてはくれない。

「……いつから居たの」
「多分、みょうじさんが見られたくなかったやろなって時には」

 ごめん、と小さく吐き出された謝罪。相手はただ普通に通路を歩いていただけで、何も謝るようなことはしていない。そんな相手に謝られたことに対する申し訳なさと、どうしてよりにもよって私とあの人の関係を知る隠岐が遭遇しちゃうんだっていう苛立ちと。色んなものがぐちゃぐちゃと汚い渦を作って体の中を掻き乱す。

「ハァ〜……さいあく、ほんと、」
「みょうじさん、あの……ほんまなんていうか……」
「謝んないで。余計惨めになるから」

 体のバランスが分からなくなって、思わず壁に寄りかかりそのままズルズルと崩れ落ちる。そんな私の様子に、隠岐が慌てて駆け寄ってくる気配がするけど、それに対して気丈に振る舞う余裕はもうない。……こんなボロボロな姿、誰にも見られたくないのに。

「誰にも言わないで」
「うん。絶対誰にも言わへん」
「ほんと……恥ずかしい」

 隠岐に向かって言ったわけじゃない。だからこの言葉に「そんなことないよ」なんて励ましは要らない。親しい人間に散々「もう無理。別れる」なんて言っておきながら、いざ相手から別れを切り出されると「別れたくない」と涙ながらに縋るだなんて。こんなの、恥ずかしくないわけがない。あんな惨めな姿を隠岐に見られたなんて……。

「情けない……」

 吐き出した自虐は、行く当てなく私の心へと戻って来る。出せば出すほど心に傷を作り、沁みる痛みが吐き出す言葉を震わせる。だけど、今自分を保つ術はそれしかない。

「おれ、ここにもうちょい居ってもええ?」
「……やだ」
「嫌かぁ。……でもおれも嫌や」
「はぁ?」

 いつの間にか隣に座っていた隠岐は、いつものようにゆったりとした間を持って言葉を放つ。その変わらなさに少し苛立ちを感じるけれど、今はぐしゃぐしゃの泣き顔を伏せることに精一杯で、耳を塞ぐことが出来ない。

「泣くんは大事やけど、“ここまで”って止める人間も必要や思うねん」
「なにそれ、」
「だってみょうじさん、今でも充分傷付いてんのに。あんまり自分を責め続けんのもキツいやんか」
「……だって、」
「痴話喧嘩も別れ話も。そら恥ずかしいし惨めかもしれへん。そやけど自分を否定するほどの失態でもないとおれは思うで?」

 偉そうなこと言うてごめんな? と少し慌てたような声色で言葉を紡ぐ隠岐。その言葉のせいで、私は余計泣きじゃくるはめになってしまう。こういう場面で喰らう他人の優しさというのもまた心に沁みて、さっきとは毛色の違った涙を呼ぶことを隠岐は知っているのだろうか。

「おきぃ〜……」
「あら。こらあかんな、おれまでみょうじさん泣かしてしもうた」
「ほんと……もうやだ、」
「……おれ、もうどっか行ったがええ?」
「どっか行って……」
「そう言うけどみょうじさん。手、俺の服ガッツリ掴んでるで?」
「……うるさい、」

 良かった。ちょっと元気出たな、なんて。どうして隠岐は人が泣いてるというのにそんな良い笑顔を浮かべてみせるんだろう。どうして惨めな私の隣に居続けてくれるんだろう。訊きたいこともたくさんあるけど、今はそれよりも、隠岐の存在が傷だらけの私にはどうしようもなくありがたかった。
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