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「ん゛んあ〜!」

 カゲの咆哮が教室に木霊するのはこれで数度目。でも今度のは毛色が違う。それに倣うように私も達成感を滲ませながら背伸びをすれば、頭も体も解れるのを感じる。ぱっと見つめた時計の時刻は7と3を指していた。19時過ぎってことは、3時間近くこの答案に頭を悩ませたことになる。

「お疲れさま、カゲ」
「……みょうじもな」
「帰ろっか」

 今日はご褒美に何か買って帰ろう。お腹空いたし、コンビニにでも寄って帰るか――と自分を甘やかしていると、「その……なんだ、ありがとな」とお礼の言葉が微かに耳を掠めた。

「カゲって、良いヤツだよね」
「んだよ急にきめー」
「ふふっ。鍵、返し行こう」

 ほらやっぱり。行こうと言えば、カゲはだらだらとその後をついて来る。こういう所、素直だよな。言葉が刺々しいってだけで。



「家、どっちだ」
「ん?」
「送ってく」

 校門を抜け、じゃあと手を振ろうとするよりも前にカゲが言葉を放つ。19時過ぎとはいえまだ明るいし、カゲの家とは近いわけでもない。だから大丈夫だと言おうと思ったけど、カゲの目が“無駄だ”と言っている。きっと私の遠慮は受け取ってもらえないだろう。

「カゲの家とは反対だけど……良い?」
「うるせぇ」

 ワンクッションを置こうと尋ねた言葉は、ただカゲの歩みをカゲの家とは反対方向に進めるだけで。慌ててその後をついて行き、「ありがとう」と言い換えてみるとその言葉に棘が刺さることはなかった。

「カゲのお店って昔からあそこにあるの?」
「1年くらい前に東三門から引っ越した」
「そうなんだ? それでもあれだけ繁盛してるってことは、きっと昔からの常連さんも来てるんだろうね」
「まぁな」

 得意げに鼻を鳴らすカゲからは、自分の店を自慢に思っているのが伝わってくる。そりゃあれだけ美味しかったら自慢したくもなるか。また近いうちに行きたいな。今度はゾエが食べてた豚焼きそばを食べてみたい。……やばい、お腹鳴りそう。そういえばこの道ってコンビニないんだよな。あっても駄菓子屋さんくらいだし、もうこの時間だと閉店してるだろう。

「この辺、コンビニあるか?」
「それがないんだよね……。カゲもお腹空いた?」
「まぁ、」

 ねぇか――と頭を掻きながら、カゲの歩みが道端の自販機に吸い寄せられてゆく。そうしてお金を入れて「ん」とその場を譲るカゲ。その動作に目でハテナを送ってみると、「今日の礼だ」と補足された。……こういう所、ゾエと似てるな。だからきっと、ゾエはカゲと仲良しだし、みんなもカゲと仲良くしたいって思うんだ。

「ありがとう。じゃあ……いただきます」

 私がピッとボタンを押しロイヤルミルクティーを取り出した後、カゲはもう1度お金を入れてブラックコーヒーを撃ち落とした。その横で一足先にプルタブを引くと、缶の中から紅茶の良い匂いが漂ってくる。この匂い、好きなんだよなぁ。思わず目を閉じ鼻から匂いを吸い込めば、「みょうじは匂ってばっかだな」とカゲから笑われた。

「確かに。私、匂いフェチなのかな?」
「知らね」

 スパっと切られた会話。前だったら怯んで終わってたと思う。でも、今はそれがカゲの性格だって知ってるから特に気にならない。なんなら「本当にそうか確かめたいから、カゲのブラックコーヒー貸して」と言葉を続けることだって出来る。

「うぜぇやめろ」
「なんでよ。私だって知らないから知りたいんじゃん」
「みょうじが知らねぇなら違うんだろ」
「……あ、そうか」
「バーカ」

 そう言ってカゲは再び私の前で親指と人差し指で輪を作る。この形、さっき見たぞ――そう思った次の瞬間には鼻先に軽い衝撃が走っていた。……そうだ、デコピンならぬ鼻ピンだ。

「……ねぇ、鼻低くなってない?」
「こんくらいで低くなるかよ」
「てか、カゲって鼻高いよね」
「は?」

 マスクに隠れた鼻先をずいっと覗き込んでみると、カゲはそれから逃げるようにマスクを上げてみせた。……あ、もしかして。

「照れてる?」
「照れてねぇ! お前のその感情が鬱陶しいだけだ!」
「感情?」

 カゲの言葉にポカンと口を開ければ、「なんでもねぇよ」と頭を掻きながら先を行くカゲ。鬱陶しいって言われちゃったけど。本当に嫌がられてるわけじゃないってことが分かるくらいには、カゲと仲良くなれたと胸を張れるから。

 私はその背中に「ねぇねぇ。それどういう意味?」と声をかけ続けるのだ。そうすれば「いつか教えてやるよ」とカゲが笑ってくれるって、私はもう知っている。
ミルクティーに沈む惑星


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