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 美味しい時間はぺろりと過ぎるもので。大盛りを頼んだわけでもないのに、食べ終わる頃にはお腹がぱんぱんになるくらいだった。とはいっても、決して不快感のある満腹などではなく、幸福が詰まっているような感じ。この店はきっとリピーターも多いはずだ。

「じゃあなまえちゃん。そろそろ帰ろっか」
「あ、そうだね。テーブル空けないとだ」

 お茶で喉を潤し、カバンと共に伝票を持とうとすれば「良い」と影浦くんの声がその手を止めた。

「今日は奢ってやる」
「えっ、でも……」
「次、客として来い」
「次、来ても良いの?」

 影浦くんの言葉に次があるのかと驚けば、「来たいなら来い。来たくないなら来んな」とちょっぴり棘のある言葉を返される。前はその言葉の刺々しさに怯んでしまったけど、今はもう平気。

「来たい! から来る!」

 今日はごちそうさまでしたと頭を下げれば、影浦くんも「……おー」と片手をあげて応えてくれるから。「すっごく美味しかった。本当にありがとう」とハッキリお礼を告げれば「今度は上手じゃねぇか」と影浦くんも笑い返してくれた。



「カゲ、良いヤツでしょ?」
「うん。初めて会った時は“怖い”って気持ちが強かったけど、ちゃんと話してみたら怖いだけじゃないね」

 影浦くんと別れ、ゾエと一緒に歩く道すがら。ゾエの言葉に思ったことを伝えれば「うんうん。カゲに友達が増えてゾエさん嬉しいよ」とゾエが感動したように頷く。……そうか、私と影浦くんは友達になれたのか。

「ははっ、私も。私に、友達が増えて嬉しい」
「確かにそうだ。友達と友達が友達になって……ゾエさん嬉し泣き」

 バイクで送って帰ろうか? というゾエの提案を「お腹一杯食べたし、ちょっと歩いて帰る」と断り歩く帰り道。今日は夜風が気持ち良いなぁと4月の風を頬に感じ目を閉じる。
 心地良さが教室で浴びる陽の光に似ている気がするから、これは影浦くんが寝ちゃうのも分かるなぁと思う。……とはいえ、ここで寝るわけにもいかないけれども。

 そっと目を開き街中に視線を漂わせながら、かげうらでのひと時を思い返す。……影浦くん、あんな風に笑うんだなぁ。いつもマスクで口元隠してるから、あんなに歯が尖ってることすら知らなかった。……もしかしたら、あの日の影浦くんも笑っていたのかな。

 影浦くんと私。実は前に1度、話したことがある。とはいっても、会話らしい会話じゃなかったけど。もしかしたら影浦くんは覚えてすらないかもしれない。





 私とゾエが同じクラスだった頃。その日は日直が一緒で、ゾエと2人で授業の合間に黒板を消していた。

「おいゾエ。今日のボーダーだけどよ」
「あ、カゲ」

 入り口にぬっと現れた顔。その声に反応してゾエがぱっと振り返った瞬間、手に持っていた黒板消しに付いていた粉がふわっと空中に舞った。その粉を浴びるような形になった男の子は、「おいゾエ!」と怒鳴りながら手を振りその粉を散らしてみせた……は良いものの。マスクにほんのりと粉が残ってしまっていた。

「あー……カゲ、その〜……」
「あ!?」

 ゾエはゾエで申し訳なさからなのか、言い出すタイミングを失ってしまっていた。代わりに私が意を決して「あの」と声をかけてみれば、その声を受けた影浦くんの顔が私へと向き、じっと見下ろしてきた。その目がまぁ怖くて。でもゾエと仲良いみたいだし、殴ってくるようなことはないだろうともう1度勇気を出して言葉を続けた。

「マスク……粉、」
「……、」

 遠慮がちに自分の鼻先をトントンと叩き、粉が付いていることを伝えれば、影浦くんは何を言うでもなくじっと見つめ続けるだけ。私からしてみれば、これが影浦くんとの初めての会話だったし、真っ直ぐ見つめられて少し緊張してしまったのもあった。
 その視線から逃れるように目を逸らせば、影浦くんの腕がゴシゴシと動くのを気配で感じた。……良かった、ひとまず意味は通じたようだと安堵するのも束の間、「ぶふっ……カゲ、滲んじゃってる」というゾエの吹きだす声が再び視線を影浦くんへと誘導した。そうして見つめた先には、乱雑に拭ったであろうピンクのかすり傷。

 その滲み具合がまるで小さな子が口紅をひいたようで。お世辞にも上手とは言えない口紅に、思わず私も「ふふっ」と吹きだしてしまった。

「……元はと言えばゾエのせいだろうが!」

 そう言って声を荒げる影浦くんの声に、ほんの少し照れが入っている気がして、それが余計におかしくて。……ちょっとだけ、可愛いなと思った。

「ごめんね、カゲ。マスク、大丈夫?」
「……別に。擦れば取れんだろ」






 そう言って自分の教室へと戻って行った影浦くんの背中に「あれ。ボーダーの話は〜?」というゾエの声だけが残ったあの出来事。良い思い出でも悪い思い出でもなかったけど、あの1件があったからこそ3年になって同じクラスだと知った時、影浦くんとも仲良くなりたいと思えた。

 その結果、今こうして楽しい思い出を抱えて帰路に就くことが出来ている。……ゾエの言う通り、ボーダーの人はやっぱりみんな良い人だ。

 街中の空気をすぅっと吸い込めば、鼻腔にほんのりとソースの匂いが漂う。
 お腹も、鼻も、心も。とても満たされている。
こぼれる吐息に色づく紅


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