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ナナシ

 辿り着いた動物病院はこの時間でも数人の患者さんが居た。スマホで見た通り、評判が良いのだろう。普段自分が行く人間の病院とは少し違う雰囲気に新鮮味を感じながら、ふと思う。なんの予約も入れずに来てしまったけれど、果たして受け付けてもらえるだろうか。
 そんな今更なことを思いながら恐る恐る受付へと向かい、事務員さんに「あの、」と声をかければ「どうされました?」と微笑みを返され、少しだけ心が落ち着く。

「犬を拾ったんですけど……」
「ありがとうございます」

 段ボールを見た後、もう1度私の顔を見つめ優し気な瞳を浮かべる事務員さん。それだけでここを選んで良かったと思える。事務員さんの言葉に照れ臭さを感じつつ「あ、イエ、」と言葉を返せば「まずはこちらの問診票に記入をお願いします」と先程と同じくらいの柔らかさで言葉を重ねられた。

 問診票とボールペンを受け取り、空いている席に腰掛けそれを眺める。そうして自分の情報を記入し、その下のペットの欄へと移動したその1問目で手が止まった。

「名前……名前か……」

 空欄で飛ばすことも考えたけど、それはそれでちょっと嫌だったのでひとまず“ナナシ”と記入することにした。……後で名前考えてあげないとだな。

 その後の欄はほとんど空欄になってしまったけれど、どうにか問診票を書き上げ受付に提出し、あとは呼ばれるまで待つだけとなった。その間に取り急ぎの連絡を入れたり返したりを手早く終わらせ、スマホからナナシ(仮)へと視線を移す。くりっとしたつぶらな瞳が可愛らしくて、思わず緩む頬。……こんなに可愛いのにな。
 というか、問診票も空欄にしちゃったけどナナシってなんの犬種なんだろう? 後で獣医さんに訊いてみようと思いつつ、ナナシも周囲に怯える素振りもなく落ち着いているのでもう1度スマホに目線を落とす。“犬 初めて 飼い方”で検索をし、情報を仕入れようと深く読み込むことに夢中になっていると、「みょうじナナシさん」と院内に名前が響き渡った。みょうじナナシ……あ、私たちか。聞き慣れない名前に半歩遅れて反応を示せば「診察室へお入りください」と促された。

「失礼します」
「こんばんは」
「こんばんは。よろしくお願いします」

 待ち構えていた先生は背が天井に届くんじゃないかってくらい大きくて、思わず尻込みしてしまった。けれど、水色のケーシーを身に纏った先生は背格好とは裏腹に、ナナシを見つめながら「見つけてもらって良かったなぁ」と穏やかに声をかけている。その顔がとても優しくて、ちょっとだけ拍子抜けしてしまった。提げられた名札をチラリと見れば“昼神”と書かれている。昼神先生か、なんかありがたい名前だなぁなんて思っていると、カルテに書かれた名前を見つめながら昼神先生が「みょうじさん」と声をかけてきた。

「はい」
「この子を見つけた場所ってどこですか?」
「えっと、近くの公園です」
「なるほど。それと――」

 いくつかの質問に答え、その間にもナナシの診察は続き、昼神先生は色んなことを丁寧に教えてくれた。犬種は恐らく雑種であること、生後2ヶ月あたりであること、ワクチンの接種が必要であること。その他にも分からないことを質問し、それにも分かり易く丁寧に答えてくれた昼神先生に、私は診察が終わる頃にはすっかり懐いてしまっていた。

「じゃあ次は1週間後にまた来てください」
「はい。それまでこの子とちゃんと仲良くなっておきます!」
「はは。この子も“お願いします”だって」
「え? あ、それは……」

 ワクチンを受ける前に私に慣れてもらった方が良いということで設けられた1週間。その期間に意気込んでいると昼神先生が段ボールの文字を指差し笑う。捨てられていた時の段ボールに入れたままで来てしまったからだと弁明しようとすれば、「この子の気持ちはきっとこの文字通りだと思いますよ。なぁ?」とナナシを見つめる昼神先生。

「ほら。尻尾振ってる」

 そう言って得意げに笑う昼神先生とその隣で「ワン!」と応えるナナシ。ナナシもすっかり昼神先生に懐いたようだ。……次の診察までにもっとナナシと仲良くなっておかねば。昼神先生に負けちゃう。

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