あなたの焦点になる

 見晴台から見える景色がぼやけて見えるのは、私の意識が鶴見さんに奪われているからだ。ここから見える景色は見ていて落ち着くものだったはずなのに、少しもうまく馴染んでくれない。私が私じゃなくなったみたいな不安定さを、隣に居る鶴見さんがどうにか形として繋ぎとめてくれているような気がする。……こうなっているのも鶴見さんのせいだけども。

「出張でね、ロシアに行っていたんだ」
「ロシアですか?」
「そう。ウラジオストクって知っているかい?」
「確か……鉄道が有名な、」

 鶴見さんの話によれば、仕事柄出張で海外に出向くことが多いらしい。そのことをやんわりと説明したあと鶴見さんは、「久々に帰って来た日本は良いね。早くこの見晴台にも来たかったんだ」と笑ってみせた。その言葉で私を避けていたわけでも、見晴台に足を向けなかったわけでもないことを理解出来るくらいには私は正常だ。……それを理解した瞬間、私の肩が分かり易く脱力するのも分かってしまうくらいには。

「仕事終わりに遠回りしてまで来て良かったよ」
「え?」
「こんな暗い時間になまえさんみたいな可愛い女性が1人で居るなんて。しかもお酒まで入れているじゃないか。まったく、恐ろしくて堪ったものじゃないよ」
「……そんな言う程飲んでないですから」

 鶴見さんはさっきから私を“飲んだくれ”みたいに言うけど。外で飲んでるんだし、それなりのセーブはしている。むぅっと頬を膨らませて抗議してみれば、鶴見さんは「それは申し訳ない。私自身が飲めないクチでね」と肩を竦めて抗議を躱す。……鶴見さん、お酒飲めないんだ。和菓子が好きだったりお酒が苦手だったり。意外性ばかりが見えてきて、余計鶴見さんから離れられなくされてしまう私は一体どうしたら良いんだろう。

「鶴見さん、てっきりブランデーとか焼酎とかワインとかお酒全般好まれるのだと」
「はは。体質的にどうもダメでね」
「……そうなんだ、」

 そういうのギャップ萌えって言うんですよ――と笑いたかったけど、その言葉に首を傾げる鶴見さんを想像してしまって口を噤んだ。流行り廃りを追わない鶴見さんが格好良いって思っちゃうのと、「ギャップ萌え?」と不思議そうに首を傾げる鶴見さんは想像しただけで悶絶ものだから。

「ロシアといえばウォッカだろう? 食事の場で勧められた時時は困ったよ」
「あはは、ウォッカは大敵ですね」
「そう。もう今すぐ帰りたいと思ったね」
「鶴見さんを追い払いたい時はウォッカが良いってことですか?」
「ぶぶ漬けみたいに言うんじゃあないよ」

 沁みる。アルコールよりも目の前の鶴見さんは心に沁みる。緩やかに笑う顔も、言う人が言ったらキザな言動も。全部、鶴見さんからじゃないと与えてもらえない。やっぱり鶴見さんじゃないとしっくりこない。鶴見さんじゃないと――。じっくりじっくり、だけども急速に積もってゆく想いを吐き出しそうとした時、「ウラジオストクに行った時、何故だかとても心が落ち着いたんだ」と鶴見さんの方から会話を差し出された。その言葉は吐き出すというより、まるで醸造でもされたかのような深みを持っていて、私はくっと口を噤む。

「しっくりくる、とでも言うのかな」
「しっくり、ですか」
「恥ずかしい話、今までそれなりの付き合いはさせてきてもらったつもりなんだけれども」
「それは……その、そういう、」

 確認しなくても分かる。でも、その付き合いが“恋愛的な”ものかどうかつい訊いてしまうのは仕方のないことだ。そして鶴見さんは私のそういう思いも汲み取った上で微笑みに留め答えを返す。そのことに顔を俯かせれば「なまえさん」と呼ぶ声が再び意識を呼び寄せる。鶴見さんのズルい所はこういう所だ。経験の差を感じさせるくせに、溝を思わせるくせに、こうして真摯に向き合おうとしてくれるから。だから余計に想いが募ってしまう。

「いつもどうしてか、いま1歩が踏み出せなくてね」
「……どうしてか、訊いても良いですか?」
「その理由が、私にもよく分からなかったんだよ。この人となら――と思えば、いつも心のどこかに罪悪感が生まれてしまってね」

 罪悪感――鶴見さんの言う言葉はどうも耳に馴染まない。理由も分からないのに、誰かと幸せになろうとするとそんな気持ちになるだなんて。そんなの、理不尽とも言えるじゃないか。不服な気持ちが顔に出てしまっていたらしい。鶴見さんは私の顔を見つめて口角を緩め「なんでなんだろうね。部下たちにも似たような気持ちを抱くんだ」と少し寂しそうに付け加える。

「だけどウラジオストクを訪れた時、そういう気持ちを包み込まれたような気がしてね」
「……何か縁があるんですか?」
「いいや、まったく。初めて訪れたはずなんだけど。……どうしてだか、とても懐かしい気になったんだ」

 鶴見さんはどこかに理由が転がってないかと探すような口ぶりで景色に言葉を投げる。それに対して景色は冷たい海風を返すだけ。その風に揺らぐ髭に触れながら、鶴見さんは「私はこの人生で、誰かと幸せになってはいけないような気さえするんだ」と諦観したように言葉を紡ぎ続ける。……そんなのって――。

「鶴見さん」
「ん? なんだい?」
「私と一緒に、ウラジオストクに行きましょう」
「……え?」
「一緒に、理由を探しましょう」
「えっと……なまえくん?」

 鶴見さんが初めて狼狽えた。視線を散らして言葉を探す鶴見さんの様子に「鶴見さん」と呼び、私に焦点を合わせる。鶴見さんがズルく来るなら、私は真正面から行ってやる。

「私は、私の人生で鶴見さんと幸せになりたいです。だから、一緒にウラジオストクに行ってください」
「……はは、」

 ハッキリと言い放てば、それは鶴見さんの中に真っ直ぐ届いてくれたらしい。少しの間を空けた後、鶴見さんが肩を竦め降参ポーズをしてみせた。どうですか、鶴見さん。鶴見さんの視線は今、私だけを見ていますか?




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