ぼくだけの愛しき
ファム・ファタル

「すまん!」

 着信開口1番。大きな大きな声がつんざいた。腹から出すその声に少しだけ耳を離した後、「おはよう」と笑みを返す。おはようは11時32分を指している時計の前で告げる挨拶にしては少し遅いかもしれない。
 私の呑気な思考と対立するように、電話の向こうでは「ほんと、まじで……すみません!」と慌ただしい声と音が鳴り響いている。私からしてみればそういう大地さんも新鮮で楽しいのだけれど。

「今から準備して迎えに行くからっ、その、もう……ほんっっとに……、」
「大地さん」
「はい」

 慌てふためくなかでも私への謝罪を続ける大地さんの言葉を切れば、途端に静かになる大地さん。どうやら叱られる覚悟を決めたようだ。まぁ、その覚悟は不意になるのだけれども。
 だって私、全然怒ってない。迎えに来てくれる時間を30分過ぎても連絡が来なくて、ラインを送っても既読にならない時点で察していたこと。それに、それだけ大地さんがゆっくり寝れたということだし、たまにはこういう日もいいかなって思える。

 とはいえ、「気にしないで」と言っても気にし続けるのが大地さんという人だ。だから、そういう大地さんには“何か1つワガママを言う”ことにしている。今日はそれを使わせてもらおう。

「1つワガママ言ってもいい?」
「はい」
「あのね――」



 明るめのハイウエストジーンズにグレーのスウェット。髪の毛はポニーテールにしてたけど、低めの位置で団子にまとめ直して帽子を被り歩く街中。1年前のあの日も今日みたいに日差しが強かったっけ、と照りつける日差しに手をかざし太陽を見つめる。あの頃に比べるとシンプルなコーデだけど、これくらいカジュアルダウンした服装で好きな人に会いに行けるって、それもなんだかいいなぁ、なんて。
 ワガママ言っちゃったけど、実際大地さんは大丈夫なのかな。官舎には先輩とか上司とかも居るわけだし。職場の人に見つかったらやっぱり気まずい思いをするかもしれない。……今回のワガママはちょっとやり過ぎだっただろうか。





「大地さんの家、行ってみたい」
「えっ、家?」
「うん。たまには大地さんの家でおうちデートをしてみたいな……って」
「それは良いけど。なまえさん、それでいいの?」
「いい! むしろいいの?」
「あぁ。……じゃあ、近くなったら連絡して」





 あの時のやり取りを思い返してみても、大地さんから詰まった感じはしなかった。でも、やっぱり大地さんの警察官としての領域に踏み込んでしまった気がしなくもない。……どうしよう、やっぱり今から公園デートにでも変えてもらう? そっちのが大地さんも――

「あ、なまえさん!」
「えっ。……あ、」
「近くなったら連絡って言ったべ?」
「ご、ごめん。考え事してたらつい、」
「ははっ。なまえさん色々考え込む時あるもんな」
「ごめん」
「いやいや、俺こそ。寝坊してすみませんでした」
「気にしないで。代わりにこんな大それたワガママ言っちゃったんだし……」
「んー、なまえさんのワガママはやっぱり小さいな」

 するりと繋がれた手の先で、大地さんが私のうじうじした考えを笑い飛ばしてみせる。絡めた指にちょっとだけ力を込めてみると、お返しのように力を込めて握られる手。それだけで、胸の中がフワフワとした感覚に包まれるから。私のワガママをいつだって小さいと受け止めてみせる大地さんは、やっぱり大きい。



「お疲れ様です!」
「おー、澤村。今日休みか」
「はい!」
「にしても休みの日にここに居るなんて珍しい――ん?」

 ガタイが良くて、強面な人相のその人は大地さんを見るなり表情を明るくした。それでも私にはやっぱり恐ろしくて、反射的に大地さんの後ろに後ずさったのをその人は見逃さなかった。ぱっちりと視線が合い、思わず漏れ出そうになった悲鳴をどうにか抑えていると「もしかして……ジムの女神?」と顔つきからは想像も出来ない“女神”というワードを放たれた。

「へっ? め、女神?」
「やっぱりそうだべ!? お? 澤村」
「えと……その、まぁはい。みょうじなまえさんです」
「おー! やっぱりか! なまえさん。良い名前じゃねぇか」
「あ、ありがとう、ございます……」

 良い名前――の部分からは再び私に視線が戻ってきたので、たどたどしい言葉と共に頭を下げた。そんな私に目の前の男性は満足そうな笑みを浮かべて「澤村のこと、よろしく頼んます」と頭を下げ返してくれた。……大地さん、良い人に囲まれて仕事してるんだな。

「にしてもいつから付き合うようになったんだ? ん、待てよ……つーことはアレか? 対策課を賑わしたのもなまえさんか?」
「あー……た、田辺警部補は、これからどこかにお出かけですか?」
「おう。これからヨメさんとデートなんだわ」
「そうですか。お気をつけて」
「つっても荷物持ちだけどな!」

 ガハハ! という効果音がピッタリな笑い方で立ち去って行った田辺警部補。豪胆さがベテランの風格を表していたなぁ、と嵐が過ぎ去った後にポツリと思う。かくいう大地さんは「はぁ……」と思わず溜息を漏らしている。ちょっとだけ不安になって「大丈夫?」と窺えば「あぁ」とすぐに笑顔に変わって歩みを進める大地さん。

「なまえさんに初顔合わせする上司が田辺警部補になるとはなぁ」
「ん?」
「田辺警部補、結構顔怖いからなまえさんビビったろ?」
「あー、えっと……うん」

 大地さんの上司をとやかく言うのも、と思ったけれど、怖かったのは事実。問いに頷けば「良い人なんだけど、出来れば最後らへんに紹介したかった」と頭を掻く大地さん。

「明日は事情聴取かなぁ、」
「今日、来ても大丈夫だった?」
「え、なんで?」
「やっぱり警察の官舎だし、私が来るのってあんまりよろしくないんじゃ……?」
「なまえさん」

 前を歩く大地さんが足を止め、私と向き合う。朝とは反対に私が言葉を切られ、今度は私が静かになる番。そうして大地さんの言葉を待つ私に対して、大地さんはゆっくりと口を開く。

「俺はなまえさんと付き合うことになった時、きちんと報告してる。だからなまえさんは間違いなく俺の彼女」
「う、ん」
「彼女と休みの日に会う、家に行く、家に来てもらう。一般の人に比べたらスムーズにはいかないけど、当たり前に出来ること。していいことなんだ」
「うん」
「したいことをしてる。それが俺の幸せ」
「……うん。私も、幸せ」
「そっか。ならよかった」

 大地さんは私のうじうじした所も、こうやって丁寧に拭い取ってくれる。いつだって優しい言葉で、私が欲しがる以上の言葉で、忘れられない言葉として。日常の中に埋め込んでくれる。そんな大地さんが、私の幸せ。

「ねぇ。ジムの女神って?」
「……それは忘れていい」
「大地さんが言ったの?」

 再び歩き出すと同時にふと思い立って訊いてみる。“お前ジムに女でも居るのか? ってからかわれた”という話は聞いたことあるけど。女神なんてワードは1つも聞いたことない。

「それは……。前に田辺警部補にからかわれた時、俺の反応がどうも分かり易かったみたいで。それで、付き合ってるって知らない人の間で“澤村がジムに居る女性に恋をしたらしい”って騒ぎになったんだ」

 それからジムデートに向かう度“ジムの女神に会いに行く”と茶化され続けたという思い出話も初耳だった。……それでもああやって会いに来続けてくれたんだ、と嬉しくなる私に対し、「こんなこと、恥ずかしくて言えるはずねぇべや」なんてむすくれる大地さん。それにもくすぐったい気持ちがこみ上げてつい笑いそうになったけど、笑えばきっと大地さんはもっとむすくれるだろうから、その気持ちを唇を引き締めて閉じ込める。

「まぁでも。例えジムが一緒だったとしても、俺はこんなだから。なまえさんに出会っていても声すらかけなかっただろうな」
「確かにそうかもしれない。……あの時、合コンに行って本当に良かった」
「いいや、逆」

 逆と言い切る大地さんの声は力強い。思わず「逆?」と食い気味に尋ねてしまった私に「あの時、合コンに行って良かったのは俺」と言い切る大地さん。

「合コンで出会ってなかったら、なまえさんにああやって向き合ってもらえなかったかもしれない」
「そう?」
「あぁ。だから、合コンに行って良かったのは絶対に俺だ」

 田辺警部補と別れた後、当たり前のように握られた手は未だに解かれていない。それを振りほどく理由もないから、私もぎゅっと握り返す。
 大地さんはこう言うけれど、どこで出会ったとしても私はいずれ大地さんに恋をしたと思う。好きだって気持ちも消えなかっただろうし、何度だって向き合ったと思う。

 だから今こうして握られた手を握り返しているのはきっと、運命なんだって思う。だけど、大地さんが私に出会ったあの合コンを“良かった”と思ってくれているのなら。大事な出会いのキッカケだったと言ってくれるのなら。

「やっぱり、私だよ」
「ん?」
「私のが良かった」
「……いーや、俺だ」
「ふふっ。私だってば」

 互いに出会えたことが、互いの幸せ。それで手を打ちましょう。

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