きみが掬う劣等感

 俺の頭にみょうじさんの泣き顔が浮かんでは胸を掻きむしりたくなるような感情が湧き起こる。何度もみょうじさんのラインを開いては「俺もみょうじさんが好きです」と想いを告げたくなった。

 ジムで立ち上がれないくらい体を鍛えても、心の重りは退きはしない。それどころかずんずんと重くなっていくばかり。もしまた会えたら――いいや。会えたとしても、俺はもうみょうじさんの前から居なくなるべき人間だ。何も声をかけてはいけないし、見つめてもいけない。それだけのことを俺はみょうじさんにしでかしたのだ。

 そんな風に自分を責めながらも心のどこかでみょうじさんが居ないかジム全体を見渡してしまっている。こういう自分を見た時、みょうじさんは「警察官らしい」と笑ってくれるだろうか。――そんな理想を抱いては自分の甘さに辟易する。

 シャワーを浴びてタオルで頭を拭いている時、ふとみょうじさんの髪形を思い出した。……あの日、ハンカチを綺麗に髪の毛に編み込んでいたよな。あれってどうやってやるんだろう。初めて会った日も髪の毛くるくる……いや、ふわふわ? させていたっけ。俺は絶対に出来ないだろうな。……あぁもっと間近で見つめてみたかった。

「……はっ」

 みょうじさんを好きになってからというものの、己自身のだらしなさに嫌気を覚える回数が増えた。ふとした瞬間にみょうじさんのことを思い出しては会いたいという気持ちを募らせて。どうして俺はあの時決めた判断1つ貫き通せないのだ。こんな警察官、ただの笑い者だろう。



 生活安全部には種類があって、その中でも俺は少年課に配属されている。主に未成年の非行を防止する役目を担った課で、その仕事の一環として夜の繁華街の巡回もある。

「今日は異常なさそうだな」
「ですね。毎日こうあって欲しいものです」

 先輩警官と話しながらも這わせ続ける視線が、ある1点で留まった。そこは繁華街と並ぶようにしてひっそりと佇む道。その両端に居座るのはいわゆるそういうホテル。どんよりと陰った空気感なのに、そこは様々な蛍光色で彩られていてほんの少しの不気味さを持っている。

 そんな場所でしゃがみ込んで肩を震わせる女性。一瞬で不穏な事態を気取ったが、その姿に見知った人を重ねた時、頭が真っ白になった。もしかしたら自らの意志で来たのかも――。人違いかも――。色んなことを言い訳のように思い浮かべたけれど、その背中に近付けば近付く程に脳が間違いないと叫び出す。

「……みょうじさん」
「…………え」

 意を決して声をかけると、女性――みょうじさんは、涙に濡れる瞳を瞬かせ俺の姿を捉えた。あぁやっぱり。俺がみょうじさんのことを見間違えるはずないじゃないか。にしても一体みょうじさんはこんな所でどうして? 

「巡回していたらみょうじさんの姿が見えて。その……こういう場所、ですし、そっとしておこうと思ったんですが……」

 言葉を続けるうちにみょうじさんの瞳が潤むのが分かる。それだけでみょうじさんが苦しんでいること、誰かの助けを求めていることを理解するのには事足りる。……誰かの助け。それこそ、俺が望んで就いたこの仕事の役割ではないか。これを理由にみょうじさんの想いを断ったんだ。だったら、今みょうじさんの役に立たずしていつ役に立つ? 俺はこの日の為に警察官になったんだ。

「少し様子がおかしかったので。……大丈夫ですか?」
「うぅ〜……! ふっうっううぅ、」

 唇を引き結んだあと、こみ上げてくる涙を抑えることが出来なくなったのか、嗚咽と共に零し続けるみょうじさんを車に乗せハンドルを握る。先輩がみょうじさんに話を訊いているうちに、みょうじさんの元カレだという男のことを殴りたくなった。
 今すぐにでもみょうじさんのことを抱き締めて震える肩を擦ってあげたかった。どうして俺は警察官になってしまったのだろうか。俺が警察官でなければ今すぐみょうじさんと恋人同士になって、元カレのことを殴りに行くのに。
 やるせなさや怒りで胸がいっぱいで、今にも爆発しそうな思いをハンドルを握る指先に込め続けた。






「よろしくお願いします」

 女性警官に頭を下げその場から離れる。みょうじさんの視線が寂しくぶつかるのにも気付いていたけれど、今ここで振り返ってしまったら、みょうじさんが求めた線引きなんて出来ないことを知っているから。振り返ることはしない。
 足を上司のもとへと向け、俺に出来ることをする。警察官になったからこそ。俺は、正々堂々とみょうじさんのことを守ることが出来るのだ。
 ふっと息を吐き、己を律する。警察官になったことを悔いてしまってはみょうじさんに申し訳ない。……絶対に、守ってみせる。

 上司に事情を説明し、すぐさま元カレ――須央源斗に電話での警告が行われることになった。電話の様子だと「金輪際こういったことはしないので、どうか逮捕だけはしないで欲しい」と懇願する態度だったらしい。そんな風に身の安全を確保したがるのならば、はじめからこんな馬鹿げた行為なんてしなければいいのに。
 溜息にも似た安堵が口から漏れ出る。……とにかく。ひとまずみょうじさんに事の次第を報告に行かねば。そう思い再び足を向ける速度は、ランニングマシーンに乗っている時よりもハイペースのように思えた。






「1人で帰るのは、ダメでしょうか?」
「まぁ酔っているわけでもないので。ですが、1人で大丈夫ですか?」
「……えっと、」

 事情聴取を終えたタイミングだったらしく、女性警官がみょうじさんに引受人について尋ねている所だった。誰にも知られたくない――だけど1人で帰るには心もとない――そんな葛藤が見えて、思わず「俺が送ります」なんて言葉が口を吐いて出た。「警察としての仕事です。お願いします」だなんて。後付けも良い所だ。

 2人きりの車内。何か言葉をかけたかったけれど、何を口にしても警察官ではない個人としての言葉になりそうで。それを口にすればみょうじさんが傷付くことを知っているから、微かに唇を開けては閉じを繰り返すしかない俺に、みょうじさんは何も話しかけることはしなかった。

「もし何かあったら連絡してください。いつでも対応します」

 あくまでも警察官らしく。その思いを持って演じた口調はみょうじさんにどう響いたのか。俺には分からなかったけれど、泣きだす前とは少し違った口の形で引き結んだあと、みょうじさんの小さな体が胸の中に飛び込んできた。

「抱き締め返さなくて良いです。だから……今だけ。こうさせて下さい……」

 そんなことを言われて、はいそうですか、なんて言える強さは俺にはない。前は拒んだこの小さな体を、こんなにも震わせて恐怖に怯えるみょうじさんに、悪夢のような体験を刻ませていたのかもしれない。……そうならなくて、その恐怖からみょうじさんを守ることが出来て、本当に良かった。警察官という職に就いて、本当に良かった。

「……最悪なことにならなくて、本当に良かった」
「っ、うっふぅ……うぅ、」

 胸の中で泣き声をあげるみょうじさんを離したくないと思った。そう思うと同時に、みょうじさんの大事さが身に染みたし、これ以上みょうじさんを悲しませることなんてあってはならないと痛感した。

 俺はまだまだ未熟だから。みょうじさんの隣に立つ資格なんてないけれど。警察官として、みょうじさんの身の安全は守ってみせる。そんな風にひっそりと誓いを立てた。



「坂下巡査」
「はい?」
「あれから、みょうじさんはどうですか?」
「あぁ。何度か周辺を巡回してますけど、須央さんの姿は見ないですよ」

 女性警官の言葉にひとまずは胸を撫でおろすが、頭をぐっと下げ「これからも暫くは周辺の巡回をお願いできないでしょうか」と頼み込む。職権乱用なんて出来ないし、こればかりはお願いするしかない。

「さ、澤村巡査っ」
「お願いします。みょうじさんを、守って下さい」
「わ、分かりましたからっ」

 どうか、みょうじさんの身が安全でありますように。穏やかな日々を送れますように。

「新しい恋――」

 に、出会えますように。とは言えなくて。自分の未練がましさに少し情けなくなって涙が出そうになった。



「澤村巡査いらっしゃいますか?」
「みょうじさん? どうされました?」

 数日後、警察署を訪ねてきたみょうじさんに嫌な予感がした。もしかしてまた――。全身に寒気が走り、頭に血がのぼるのが分かる。

 良かったら別の場所で、と提案するみょうじさんを人通りの少ない場所に案内し、「あの、もしかしてまた……」と微かに震える言葉は「もう1度告白をしに来ました」と予想外の言葉で舵を取られた。

「澤村さんのお仕事が大変なのは理解しています。澤村さんがどれだけ真剣に取り組んでいるかも分かっています。澤村さんが言った“余裕がない”という言葉も。そんな中で私と向き合ってくれた澤村さんに、あんなひどいことを言って本当にごめんなさい」

 腰を折って謝罪するみょうじさんに、自分も欲望に負けて貫き通せなかった行為を詫びる。……俺は仕事を言い訳にして、みょうじさんから逃げていただけだ。そんな俺にみょうじさんはもう1度向き合ってくれている。

「余裕が出来るまで待ちます――と言うつもりだったんですけど。澤村さんは優しいから、きっと無理させますよね」

 みょうじさんは俺以上に強い。俺の為を想って、自分の想いを断ち切り前を向こうとしている。

「だから。好き、でした。これからは一般市民として、澤村巡査の活躍を応援させて下さい」

 好きの間に少し間をおいた後、過去形にしてみせるみょうじさんに置いて行かれてはいけない。……今ならまだ。まだ間に合う。

「ダメです。勝手に終わらせないで下さい」
「え?」
「……俺に、守らせて下さい。仕事なんて関係ない。1人の男として、みょうじさんを守りたいです」
「えっ……え?」
「仕事も大事です。だけど、それ以上にみょうじさんのことを大事だと思ってしまうんです」

 みょうじさんをそばに置いて泣かせることが怖かった。幸せに出来ないんじゃないかという恐怖に怖気づいた。そんな俺を想い続け、更には優しさで俺のことを諦めようとするみょうじさんに、このままではダメなんだと気付かせてもらった。

「…………す、すみません」
「そっ、そうですよね。……都合、良過ぎますよね」

 みょうじさんの言葉に立ち眩みを覚えた。間に合えと願った本音はもう遅かった。それもそうだ。俺は必死なみょうじさんの告白を不意にして、逃げた男だ。そんな俺がみょうじさんと向き合おうだなんて、虫が良過ぎたのだ。

「澤村さんからそう返されるとは思ってもなくて。ちょっと、どういう反応したら良いか……分かってないんです」

 両手で顔を覆い、俯いた顔から雫が零れ落ちてゆく。……俺はみょうじさんのことを泣かせてばかりだ。でもこの涙は今までのものと違う、俺が掬うべき涙。かといってどうすればいいのか、混乱した頭が見いだせるはずもなく。

「帽子なんかじゃなくてぇ……」
「すみません。俺、こういうの慣れてなくて……」
「抱き締めてくれたら良いんですよぉ……」
「……〜っ!」

 こういう時、男は女性に敵わないのだと思い知る。擦り寄るように近付いてきたみょうじさんが小さな手で俺のシャツをきゅっと握る。何度も固く握りしめたであろうその手が信頼を表すように緩められているから。途端に愛おしさがこみ上げて来て、その勢いに背中を押されみょうじさんの背中に腕をまわす。包み込んだ華奢な体はあまりにも細くて。この人を、この人が与えてくれるこの気持ちを、守りたいと思えた。

 素直な気持ちを素直に認めることが出来た時、意地を張り続けた自分が急に恥ずかしくなった。

「仕事仲間に見られたら、ど、どうするんですか……っ」
「ふはっ……そうですね。ごめんなさい。――こうすれば隠れるんじゃないですか?」

 そう言って帽子を背伸びして俺の頭に被せたかと思えば、ぐっとつばを下げてみせるみょうじさん。慌ててつばを上げ、「……みょうじさん!」と抗議するけれど、目の前の彼女は眩しいくらいの微笑みを浮かべて待っていた。その笑顔に見惚れたが、自分の声のでかさにハッとして慌てて周囲に詫びを入れる。

 みょうじさんと向き合う。それは決して仕事を疎かにするということではない。どちらも大事にする。その上でみょうじさんを幸せにしてみせる。……余裕はないけれど、みょうじさんとの恋愛はもう恋愛“だなんて”ではないのだから。

「じゃあ俺は仕事に戻ります」
「あの!」
「はい」
「その……。今日、良かったら、ウチで晩酌、しませんか?」
「……じゃあ。お言葉に甘えて」

 待ってます! と弾けそうな笑顔になるみょうじさんに、引き締めた口角がつい緩みそうになる。
 
 この仕事に意味をくれたみょうじさんを。逃げてばかりの俺を受け止め、それでも好きだと言ってくれる愛おしい人を。

 俺は一生、手放すことはないだろう。

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