昏き掌のインタルード

 坂ノ下に戻り、2人して台所に立つも早々に退場を喰らった俺は成す術がなくなってしまい、ちゃぶ台近くの畳に座してみょうじの後ろ姿を眺めていた。
 勝手知ったる他人の家ぶりを感じ、ワケを訊くと俺が烏野に行った後、時々母ちゃんと2人で台所に立っていることを知った。
 どうやら普段から近所の人に美味しい果物やら野菜やらを譲り受けているらしい。それを2人して分け合っていたのだ。ちなみにそれを今初めて知った俺は「ほぉ〜? どうやら店番すっぽかしは常習的みてぇだな?」と恨めしそうにつついてみた。

「げっ、バレちゃったか。まぁでもそのおかげで今日美味しい愛情タップリご飯食べれるんだから。良いじゃん」

 あっけらかんと笑いながら躱すみょうじはやはり手ごわい。先ほど嶋田マートで立てた誓いは守っておいた方が良さそうだとそれ以上の追及はやめることにした。

 それよりも楽しそうな鼻歌を聴いている方が心地が良い。



「烏養って洗い物は出来んだね」
「洗い物しねぇと母ちゃんがどんだけ怖ぇか。みょうじは知らねぇだろ」
「アハハ。素敵なお母様じゃん」

 みょうじの作ったメシは案の定美味かった。洋風なものが並ぶかと思いきやどれも和風なものばかりで、味も疲れた体に沁みわたるような優しい味付けだった。
 並べられた晩メシをぺろりと平らげ、今度こそ2人して台所に並んで食器も片した所で「じゃあ飲みますか!」と明るい声で言うみょうじの手にはビールが握られていた。

「ご飯たけじゃ物足りないでしょ?」
「……おぉ」

 俺が求めているもの、思っているもの、そのどれもを察知してみせることに少なからず驚いている。コイツと俺の間には10年近い空白があるハズなのに。どうしてみょうじはこんなにも俺の考えていることが分かるのだろうか。高校時代に付き合っていた訳でもないのに。

「飲まないの?」
「――あ、あぁ。飲む」

 嶋田マートで買ったであろうツマミの袋を開け、缶同士をぶつけ、小高い音を聞きながらグビリと喉どしを味わう。あぁ、やっぱりビールはどんな時だってうまい。

「授業でさ、アルコールパッチテストしたの覚えてる?」
「あー。なんかあったな」
「私あれの結果だと弱いって診断されたんだよね」
「お前が?」
「そう。絶対誤診だと思ったね」
「はは、だろうな。今のお前見てたら分かる」
「でしょー? まぁやったの私なんだけど。てか、嶋田ってあのテストで――」
「あぁ――…」

 2人で高校時代の思い出話に花を咲かせ、時間が経つのも忘れて語り合った。みょうじが帰ってきたばかりの時もこうして同窓会をしたが、今日は格別な楽しさが漂っている。心の底から懐かしいと思えたし、なんならあの頃に戻れた気がした。
 もしかすると思い出の体育館で体を動かしたことが関係しているのかもしれない。あぁ、それにしても今日はビールが体に沁みる。動かした体にうめぇメシとビールを沁み込ませることがこんなに至福だということは大人になった今じゃねぇと分かんねぇことだ。
 大人もそう悪かねぇんだぜと、ちゃぶ台の向こうで笑うありし日のみょうじに笑いかけながら俺の意識は夢の中へと途切れて行った。



 ピピピ……と意識の遠くで聞こえる音を頼りに瞼を開くと頭上で携帯がアラームを告げていた。その音で意識を覚醒させ、少しグラグラする頭を抱え携帯を止めると時刻は午前3時を3分過ぎていた。……どうやらあのまま飲んだくれて寝ちまったらしい。

 頭を掻きながら畳を見渡すと机を挟んだ反対側で畳に収まるようにしてみょうじが眠っていた。みょうじが寝落ちした所を覚えていない辺り、どうやら俺の方が先に眠っちまったらしい。俺以上に行けるとは、誤診もいいところじゃねぇか。

 それにしても寝顔はあの頃と変わんねぇんだな。眠るみょうじのあどけなさに柄にもなく目を細め、自分の部屋から布団を運びそっとかけてやるとそれを手繰り寄せながら尚も眠るみょうじ。

 あの人はこの寝顔を何年も隣で見てきたのだと思うと、あの頃抱くことはなかった嫉妬心が顔を覗かせ、それを消し去るように慌てて首を振る。
 俺が抱いていい感情ではない。それこそ、あの人にこそ抱く権利がある感情だ。――それをどうして俺が。

 感じたモヤモヤを煙と一緒に吐き出そうと咥えた煙草。忍び足で縁側に移動し、まだ薄暗い空を眺め一服をしていると少しは心を落ち着かせることが出来た。大人は色々とズルいもんだよなぁ。自分が傷付かない方法を学び、その方法を選ぶ本能が身に付いている。……もう今更だと、すっかり逃げの姿勢が基準になってしまった。

 大人になんかなるもんじゃねぇ。

「手、出してこなかったんだ」

 薄明すら見えない空に気分を沈ませていることなどおかまいなしに、みょうじのからかう声が居間に響く。起きて第一声がソレかよと溜息混じりに紫煙を吐き出し、「ここ、実家だぞ?」と答えると肩を竦めてみせるみょうじ。

「以外と硬派なんですね?」
「お前……東京でどんな生活してきたんだ?」
「別に? 普通だけど」

 こっちがどんな気持ちかも知らないで。笑えない冗談を言ってのけるみょうじの相手をするのを止め、煙草を咥えなおし外へ視線を向け直した。……こんなとこで襲えるかっつーの。つうかまず、こっちはお前に潰されてんだよ。

「あっ、おいっ」
「ゲホッ……やっぱ煙草だけは無理」
「なら吸うなバカ」
「だって格好良く見えたから」
「……は?」
「ちょっと真似したくなったの。でも、やっぱ無理」
「……そうかよ」

 俺の口から煙草を奪ったかと思えばすぐさま俺の口に煙草を押し戻してくるみょうじ。非難しようとみょうじを見つめると、いつもの自由奔放とは違ういつか見たあの寂しい表情を浮かべていて、思わず窘める言葉を噤んだ。
 微かに感じた違和感を確かめようとした時、「上野先輩、覚えてる?」と聞きたくない名前を口にされた。

「……覚えてるもなにも。お前の彼氏だろ」
「……ちゃんと覚えてたんだ」
「で、お前の彼氏がどうしたよ?」
「……んーん。なんでもない。ね、お風呂貸して!」
「はぁ?……まぁ、いいけど」
「あとついでに部屋着も」
「部屋着ぃ?」
「良いじゃん! 一夜を共にしたよしみでさ!」
「おんまえっ……!」
「アハハ! 嘘だって。繋心くん顔コワ〜イ」

 一瞬感じた違和感をみょうじはすぐさま拭い取って、それを上手に隠してお風呂場へと向かって行った。……なんで、このタイミングであの人の名前を口にしたんだ? それを訊けない俺はやっぱりずる賢い大人になってしまったんだろう。




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