次の幸いへ

「もうどこにも行くな! このままずっと、俺のそばにいっろ、くっだ、さい!」

 何度も思い出してはふふっと緩む頬。新幹線の中で目まぐるしく移り変わってゆく景色を眺めながらも、脳内には数十分前に言われた烏養の言葉だけが居座っている。
 時は遅くないと思い立って帰省した宮城。それでも、たったひと月でやり直すことなんて出来るのだろうかと不安もあった。
 それは見事に杞憂に終わったし、なんならひと月という日数は充分過ぎるほどに、私の中に潜んでいた烏養への想いを成長させてみせた。

 学生時代の記憶で止まっていた烏養は、数年の時を経て更に大人の格好良さを纏っていた。かと思えばあの頃と変わらない子供っぽさも兼ね備えていて、側に居るとすごくホッとした。やっぱり烏養が好きだと、宮城の空気が、ココが好きだと、何度思っただろう。
 
 今度は後悔しない為にも東京に帰る。そして啓介との関係を終わらせて、何もかも整理してまた大好きなあの場所へ帰ろう。

“待ってるからな、みょうじ。なるべく早く帰ってこいよ”

 大好きな人もこんなにも心待ちにしてくれている。……あぁ、早く、宮城に帰りたい。



 東京の駅は相変わらず人で溢れている。アナウンスの声や宣伝広告の声、人の声や足音が雑踏となって響き渡る空間。それらを懐かしいと思いながらも負けないように必死に足と腕に力を籠めて前へと歩みを進める。
 初めて東京の街中を歩いた時も、こうやって時の流れに飲み込まれないように必死に着いていったんだっけ。段々それにも慣れて、当たり前になって、あっという間に10年近い年月を重ねてたんだ。――そりゃお肌のハリにも悩むよ。都会の喧騒の中で私1人がのんびりとした悩みを抱いているような気がして思わず笑ってしまう。でも、それも啓介に会うまでのこと。啓介と向き合う時はちゃんとしよう。ちゃんと、自分の言いたいことを伝えて、それでお互いが後悔しない未来を選べるよう、啓介と話し合おう。

「なまえ」
「啓介!? えっ、仕事は?」
「なまえが帰って来る日に仕事なんか出来ない」
「……なんで、」
「言いたいこと、沢山あるよな。……でもまずは言わせて。――おかえり」
「……うん」

 意を決して歩き出した足は、ほんの数十メートル歩いた所でよく見知った顔に止められてしまった。
 あの仕事人間の啓介がまさか仕事より私を取るだなんて。その行動にも驚いたけれど、おかえりと言ってくれる啓介の表情は想像していたよりもずっと柔らかくて。宮城に居る間や新幹線に乗っている間で何度も決意を重ねたハズなのに、それを揺るがそうとする人物なのだと、実感してしまう。

 でもね、啓介。私にとって烏養はそれ以上の存在なんだ。せっかくここまで迎えに来てくれたのに、今、私の中に居るのは送り出してくれた烏養なんだ。それはどうしても、もう揺らがない地盤になってる。だから、啓介。別れ話をしよう。

「あのね、」
「まずは乗って」
「……。……うん」

 意を決して口を開いた私の言葉を止め、柔らかい言葉で車に乗るようエスコートする啓介。どうして、こんなにも優しくするの? まるであの頃の啓介みたい。もう今更だし、そうされると別れようとしてる私の心が痛むの。だから、やめて。お願い。



 駅の喧騒から逃げ出すように走り出した車。その中は音さえも振り切ったかに思えるほど静まり返っていた。それが私と啓介の本来の間柄を表しているみたいで、心が冷たくなってゆく。
 私たちはいつからこんな関係になったんだろう。烏養のことが好きだったのも事実だけど、私は確かに啓介のことも好きだった。啓介を1番に考えようと思いながらこの10年を過ごしてきた。それなのに、どうしてこうも縺れてしまったんだろうか。

「烏養は、元気だったか?」
「え?」
「会ったんだろ? アイツに」
「……うん」

 啓介の口から烏養の名前が出たことに心臓がギュッと縮まるのが分かる。どうして、啓介はそれを知ってるんだろう。よりにもよってどうして烏養の名前を――

「俺、ずっとなまえの本当の気持ちに気付いてたんだ」
「っ」

 今度は喉を締め付けられた気がして、言葉を発することが出来なかった。だけど、ハンドルを握って前を向いている啓介から不穏な空気は感じ取れない。それどころか、本当に遠い昔を懐かしんでいる気配すら感じる。どうにか動かせる視線だけを啓介に移動させるとやっぱり啓介の口角はゆるやかに上がっていた。

「周りが好き勝手騒いでるのも気付いてたし、なまえは俺に興味ないってことも気付いてた」
「じゃ、じゃあ……」
「なまえのこと、タイプだったんだ。だから、どうしてもなまえと付き合いたかった」
「そ、んな」
「例え烏養のことが好きだったとしても、付き合うことで俺にその気持ちを分けてくれるかもしれないって思ったんだ」
「全然、知らなかった……」
「うん。だろうね。俺、なまえと違って隠すのうまかったから」
「っ、」

 初めて知る話に脳が着いていかない。なんて言葉を返そうか考えあぐねている私を啓介が微笑みで受け止め、優しい口調で言葉は続く。

「だけど、なまえの気持ちを知ってるクセに烏養と引き剥がそうとしてコッチに呼んでしまった。なまえと離れて過ごしたあの1年は本当に嫉妬でおかしくなりそうだったよ」
「うそ……全然そんな感じなかったじゃない……」

 ようやく思いを言語化しだしたことで会話がポツポツと生まれだす。こんな話、今まで全然してこなかった。もしも――いや。今だからこそ出来る話なんだ。

「だから言ったろ? なまえより隠すのは上手いって」

 信号待ちでようやく啓介の顔が私の方を向く。その顔は少しやつれていて、まともなご飯摂れていないんじゃないかと不安になるくらい。それなのにやっぱり雰囲気はどこが柔らかい。

「啓介……?」
「なまえの中に烏養が居るように、俺の心には常に罪悪感があったんだ」

 心配になって名前を呼ぶと先の言葉を予測した啓介が更に言葉を重ねてくる。……啓介はたぶん、分かってるんだ。私が決めた決意も、情に絆されてそれを揺らしかねないことも。だから、それをさせないように仕向けている気がする。

「罪悪感に潰されそうで、こっちに呼んだクセに同棲を拒否したり、やっぱりなまえの側に居たくて一緒に暮らそうって言ったり。そんな自分勝手な自分が嫌になったり。――俺はずいぶんと嫌な彼氏だったな」
「……そんなことない。啓介は優しい所だってちゃんとあるよ」

 別れを告げようとしている相手に何言ってるんだろうって自分でも思う。でも、これも本音だから。啓介の優しさに惹かれて私はこの道を選んだんだ。

「いいや。俺は自分勝手なヤツだよ」

 信号が青に変わり、動き出す車体。再び啓介の顔は前へと向いてその声も少し遠くなる。こんなに弱々しい啓介を見るのは初めてだ。……ここまで啓介のことを追い詰めてたなんて。自分勝手なのは私もだ。

「なまえは自分を責めちゃ駄目だからな」
「え?」
「どんな事情があるにせよ、浮気に走るクズ野郎だぜ? 俺は」
「……っ」

 こんなことになるに至った原因をまさか啓介から持ち出すとは思わなくて、またしても言葉に詰まってしまった。その雰囲気を感じ取った啓介は小さく「ごめんな」と悲しそうに呟く。

「なまえと昔話してると、ふとした時に烏養のこと思いだしてるのが分かって、心の何処かでイライラしてた。何年経っても勝てないことに大人気なく嫉妬してムカムカして。隠すのが上手いとか言っておきながら、隠せてなかったんだよな、俺も。そこに付け込まれて好きでもない相手と浮気しちまった。――なんて、言い訳がましいな」

 全ては俺の弱さが招いた結果なんだ。ハッキリと言葉にする啓介にやっぱり私はうまく言葉を紡げない。私だってそうだって思ってた。なのに、いざこうして言い切られると私にも責任はあるんじゃないかって思ってしまう。

 あの日、1日早く終えた出張から帰ってきたらベッドには見知らぬ女と啓介が居て、その光景が鮮烈過ぎて、悲しくなって。塞いでた思いが爆発して、まともな話し合いを避けて有給申請をして帰った。

 私ばかりが我慢してるって思ってたけど、本当は違うのかもしれない。啓介にだってずっと我慢させてきたし、帰省中もまともに啓介の話を聞こうとしなかった。私にだって責任はある。

「私こそ、ごめんなさい……」
「なまえは謝らないで。悪いのは全部俺だから。なまえからの電話も焦りが先立ってなまえの言いたいことを聞いてあげなかったし」

 最後の最後で優しいあの頃の啓介に会えた気がして、涙腺が緩みそうになる。こういう話で泣くのは好きじゃない。フェアじゃなくなる気がするから。その思いでギュッと噛み締めた唇を啓介の温かい左手が触れる。

「血ぃ出るからやめろ」
「……、」

 私の性格も、癖もなにもかも知り尽くしてる啓介には隠しごとは出来そうもない。

「ごめん。ごめん……。私、烏養のことが好き……っ」
「……うん。言ってくれてありがとう。今まで我慢させてごめん」
「けいすけ……っ、」
「なまえ、俺たち別れよう」
「……っ、ごめんっ、」

 必死で耐えようとするのに涙は止まらない。私の周りに居る人はどうしてこんなにも優しい人で溢れているんだろう。別れを告げることが出来ない私の代わりに、終わりを口にしてくれる啓介だって、10年経ったって、あの頃の優しさは褪せてなんていなくて。
 私が啓介から優しさを奪ってただけなのかもしれない。そう思えば思う程申し訳なくて、瞳からはボタボタ涙が零れていく。
 やっぱり私は誰よりも自分勝手な人間なんだ。私だけが良い思いをしてる気がする。

「なまえは誰よりも優しいから。今、こんなクズ野郎に対して申し訳ないって思ってるだろ?」
「……だ、って」
「違うからな。なまえが俺を見ようとしてくれていたのはちゃんと知ってるし、それでも烏養に対する気持ちが抜けなくて辛い思いをしてたのも知り過ぎてるくらいだ。それなのに手放さなかった俺が1番悪いんだからな」
「けいすけぇ……」

 泣きたくないなんて言っておきながら号泣しだした私を見て、コンビニの駐車場に車を停めて私をあやしてくれる。「あーあー。目が腫れるぞ」なんて言って優しく涙を払ってくれる啓介。

「なまえと過ごして来た時間は、本当に、ほんとうに、楽しかった。だから、最後は笑ってお別れしたい。最後まで自分勝手で悪い。ワガママ言ってごめん。でも、宮城に戻る日はそうさせてくれないか」
「……うん。分かった」

 涙でぼやけながらも真っ直ぐ啓介の顔を見つめると啓介も同じような顔をして笑った気がした。



「忘れものないか?」
「うん。大丈夫」
「烏養には連絡してあるんだろ?」
「うん。迎え、来てくれるって」
「そっか。もう今頃空港に居たりしてな」
「……繋心ならあり得るかも」

 退職手続きや荷造りや挨拶を終えて迎えた東京最後の日。ある程度の荷物は先に送っているので残るはキャリーバックのみ。それでも啓介は空港まで送ると言ってくれた。

 その申し出を「繋心のもとには自分の力で行きたい」なんて意味不明な理由で断るとそれを優しい笑みで受け入れてくれた。啓介との残り時間はたくさん昔ばなしをしたり、思い出の場所を巡ったりして笑いながら過ごした。
 東京での思い出も改めて作ることが出来たし、本当によかった。これで心置きなく宮城に、繋心のもとへ行ける。

「玄関先でごめんな」
「ううん。こっちこそ最後までワガママ言ってごめんね」
「いや、そんなことはないさ。……じゃあ、俺はここでサヨナラだ」
「うん。……啓介。私のこと、好きになってくれてありがとう。啓介の優しさに何年も甘えちゃってごめんなさい。いつか、啓介にも素敵な人が現れることを心から祈ってる。……じゃあね」
「なまえ……」

 それ以上の言葉は発さないけれど、合わさった瞳はとても穏やかで、愛おしさが伝わってくる。それが堪らなくて、思わず泣きそうになったけど、最後は笑って終わろうって約束したから。

「じゃあ、行ってきます!」
「あぁ。行ってらっしゃい」

――バイバイ、啓介。




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