とこしえの夜の住人

「こんにちは……」
「ん? 嬢ちゃん、浮かねぇカオしてんな」
「……監督さんは分かってくれるのに、どうしてアイツは分からないんでしょうね?」
「アイツ?」

 進路指導を終えた帰り道。寄ることはしないけれど、何となく足を向けた体育館。今までは気付かれないように遠くから眺めるだけに留めていた場所。
 啓介を好きなのだと勘違いされてからはその場所に足を踏み入れることも多くなったけれど、やっぱり私にはこの距離がちょうどいい。この距離でバレない想いを人知れず温めていたい。
 潜在的に足を向けた渡り廊下で、休憩中だった烏養監督に出くわし挨拶をすると監督は私の表情が浮かないことを暗がりでも見抜いた。“アイツとは、あなたのお孫さんのことです”なんて言えない。



「東京に進学しようと思います」

 啓介のあとを追うのが嫌なのか? と訊かれると、それに全部の気持ちを掛けて頷くことは出来ない。この1年間で、啓介の優しさに触れて惹かれたのも事実だから。だけど、私の心の中心に根を張るのは啓介じゃない、別の人。
 その気持ちを心に生やしたまま東京に行って、私の心は持つのだろうか、啓介に対するこの罪悪感は消えるのだろうか。――烏養のことを忘れられるのだろうか。

 私の小さな脳で必死に考えた。考えても考えても分からなくて、烏養本人に訊くなんて軽率な手を使った。そして、勝手に傷付いてる。

―どうするもなにも……行けばいいじゃねぇか

 烏養のこの言葉は間違いなく私の為を想って言ってくれた言葉なのに。

―上野先輩優しいし、ちゃんと将来見据えて提案してくれてんじゃね?

 烏養の言う未来とは、私と啓介の行く末を見つめて言った言葉なのだろうか。……私には見えない未来が烏養には見えているのだろうか。だとしたら嫌だな。

「嬢ちゃん?」
「……すみせん。求めてる言葉が決まってるクセに、違う優しい言葉を返されてガッカリしてる自分に嫌気がさしてて」
「あぁ、進路の時期か」

 偽りの気持ちを先生に告げた行為も、それを誰も止めてくれない現実も、本心に素直になれなくてここまで来てしまったことも。何もかもが嫌になる。全部私が起こしたことだから、やり場のないやるせなさとなって私に纏わりつくのだ。

「今が1番難しい時期だよなァ。人生において最大の選択肢かもしれねェんだから」
「……そうですね」

 進路と言われれば進路ではあるけれど、烏養監督が思っている進路と私の進路はちょっと違う。でも、違いますと言う勇気は私にはない。だって烏養監督、めちゃくちゃ怖いんだもん。烏養がボロボロになってる時は大体監督に投げ飛ばされたのが原因だし。投げられたくないから、ただひたすらに監督の言葉に相槌を打ち続ける。

「って言ってもよ、その歳で選ぶにしてはちっとばかし大きいよな」
「はぁ」
「でも、選ばなきゃなんねぇ」
「はい……」

 うーん、と腕を組んで考えを巡らせてくれる監督を置いて帰る訳にも行かなくて、ローファーの先で砂利をゴロゴロと転がし答えを待つ。……どうせ腑に落ちる答えなんて誰からも貰えないのに。

「そういう時はなんとなくでいいんじゃねェか?」
「へっ?」
「なんとなく、みんなが言う方〜とか、よさそうな方〜とか」
「そんな簡単で、いいんですか?」
「さぁ。それは分からん」

 烏養監督って、もっといろんなこと慎重に考えるタイプだと思ってた。だからこそ“名将・烏養”の名前が知れ渡ってるんだと。なのにイチ生徒の進路を“なんとなくでいい”と言ってしまうとは。誰からも得られなかった斬新な答えに、思わず顔をあげると烏養監督も瞑想を終え、私を見つめていた。

「分からんが、もし間違いだったと後悔する時が来たらその時やり直せば良い。そん時でも時はまだ遅くないしな」
「で、でも……」
「“人間至る所に青山あり”って知ってるか?」
「いえ、知りません……」
「まぁ要は冒険してみろってことだ」
「そんなノリで人生決めてもいいんでしょうか?」
「あ? 別に一生のルートが決まる訳でもあるめェし。そんなノリでいいんじゃねェか? 案外人生そんなモンだぞ」

 ガハハ、と大きく口を開いて笑う烏養監督は本当に気前の良い近所のおじいちゃんって感じがして、凄くホッとした。そしたらなんだか肩の力が抜けて、それでいいんだって思えた。

「じじいと、みょうじ……?」
「コラ繋心! 誰がじじいじゃ! おじい様と呼べ!」
「ハァ? そこはフツー監督だろうが」
「コイツはまた生意気なクチ聞きやがって!」
「うぉ!?」

 私の後に続いた烏養の進路相談も終わったらしく、部活に遅れてきた烏養をさっきまで浮かべていた笑顔を引っ込めて、鬼の形相で投げ飛ばす烏養監督。……やっぱり怖いなぁ。――だけど。

「烏養監督、ありがとうございます! 私、なんとなくでやってみます!」
「おう。頑張ってな、嬢ちゃん」
「はい!」

 やっぱり笑った顔は烏養にソックリで。笑顔はとても好きだなと思った。






「ほぉ〜。あん時の嬢ちゃんか」
「はい。その節はお世話になりました」
「いやいや。今思えば畑違いの人間が偉そうに言っちまって悪かったなァ」
「そんなっ! 監督のおかげで今ここに居れるんです」

 あれから幾度の年月を越して、今。私の歩んできた道にまた烏養監督と出会う機会が訪れた。それも、こうして美味しいお酒を酌み交わしながら。
 烏養のお酒好きを鑑みると監督がこれだけお酒好きなのにも頷ける。私もお酒、飲めるクチで良かった。あの日のお礼を伝えることも出来たし、いい人生を歩んでこれたなぁ、なんてしみじみと日本酒と共に噛み締めていると、1人訳の分かっていない繋心が「は?」とか「なんのことだ?」とか赤ら顔をしかめ続けている。

「お前がこうして俺の家に連れて来た相手だ。おめぇ、よっぽど嬢ちゃん……なまえちゃんのことが好きなんだな?」
「アラ、繋心くんってば、あら」
「っ! じじいが連れて来いっつたんだろ!」
「俺は結婚相手の顔が早くみてぇなぁ〜って独り言を言っただけだぞ?」
「えっ、じゃあ私って結婚相手になるんですかね?」
「あら、繋心くんってば、あら〜」
「クソじじい……」

 私の茶化したセリフを真似て同じように繋心をからかう監督。現役時代は本当に怖かったけど、なんだか今は肩の荷がおりたような顔をしている。……多分、任せられる相手が出来たからだろう。

「では、おじい様。私は繋心さんのことを支えることをここに誓います」
「おう。コイツのケツ、しっかり叩いてやってくれよ」
「だから! 勝手に話進めんなって!」
「じゃあ繋心は私との将来考えてないってこと? 東京から呼び戻しておいて?」
「そ、れは……っ」
「コラ繋心。おめー男だろうが」
「分かってるよ! 考えてるに決まってんだろうが!」
「きゃっ。おじい様、どうしましょう。私、お嫁に貰われちゃうかもっ?」
「えー。こんなヘッポコでいいのか?」
「んー……でも、繋心のケツ叩くことには迷いも後悔もしなさそうですね?」
「ハハハ! 間違いねぇなぁ!」
「くっそ……酒が入ったらいつもこうだ……」

 こんなに美味しいお酒、一体他にどこにあるのだろう。そして、この環境で暮らしていくことのどこに迷う理由があるだろうか。
 もし、万が一、いや億が一。迷って後悔したとしてもそれはその時にやり直せば良い。

「酒の追加持ってくる」
「ありがと、繋心」
「おー」
「……なまえちゃん。アイツのこと、本当によろしく頼む」
「こちらこそ。私には勿体ないくらい素敵なお孫さんです」
「はは、だろ?」
「はい!」

 でも、やっぱりその可能性は兆が一見いだせない。そんなことを笑った顔がやっぱり繋心ソックリな監督を見ながら思う。あぁ、お酒が進む。こんな美味しい夜は、ずっと、ずっと更けて欲しくないなぁ。




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