幸せの渦中

「美鈴たち、準備順調?」
「うん。良太がウエディングドレスでうんうん悩みまくってるけどね」
「あはは。美鈴じゃないんだ」

 私は即決してるんだけど――と笑いながら髪を耳にかける美鈴ちゃんの指には、銀色のリングが嵌められている。その幸せな輝きを微笑ましく思いながら、この指輪がここに収まるまでの過程を思い出して大きめの笑い声が漏れてしまった。

「どうしたのなまえちゃん」
「ごめん。林夫婦の騒動思い出しちゃって、つい」
「も、もうっ……! 恥ずかしいから……!」
「わ、美鈴照れてる〜。大丈夫、逆プロポーズした時の美鈴、めちゃくちゃ格好良かったから」
「わー! やめて恥ずかしい! あんなキレ気味逆プロポーズとか……忘れたいぃ〜……」

 美鈴ちゃんが顔を両手で覆うのを見て、ちぃちゃんと一緒に笑い合う。“プロポーズは良太からして欲しい”という美鈴ちゃんと、“美鈴さんに喜んでもらえるプロポーズがしたい”と張り切る良太くんの間で色々とあり、しびれを切らした美鈴ちゃんが「良太! 私と結婚しなさい!」とまさかの逆プロポーズを行ったのだ。その言葉に良太くんは顔を真っ赤にして涙ながらに「喜んで……」と頷き、居合わせた私たちは手を叩いて狂喜した。

「ママ〜!」
「はぁい! ごめん、ちょっと行ってくる」

 あの逆プロポーズは私たちの間でこれからも定期的に話のネタになるだろう。美鈴ちゃんもそれが分かっているらしく、「やり直したい……」とぼやいている。その姿からさえ幸せオーラが伝わってくるから、私はまた1つ笑みを零し、もう1つの幸せへと視線を移す。

「千絵もすっかりお母さんだよね」
「ね。山田も学生時代からは考えられないくらいしっかり者になってさ。もうビックリだよ」

 私たちの視線の先に居るのはちぃちゃんと娘ちゃん。山田とちぃちゃんは就職後まもなく結婚し、今は家族の人数を3人に増やし和気あいあいとした家庭を築いている。ちぃちゃんも美鈴ちゃんも、みんな幸せで嬉しい。一静もこの間のオリンピックを誇らしげで、それでいて幸せそうな表情で観ていたし、大好きな人たちが幸せを感じている瞬間を傍で見ることが出来るこの現状は、私にとっても幸せなことだと思う。
 そういえば一静は及川くんが帰化したと聞いた時も、驚く私とは対照的にどこか誇らしげに笑ってたっけ。アルゼンチンに旅立つと聞いた時も一静はそうだったなと思い返す。だからオリンピック期間中、一静が日本ではなくアルゼンチン側を応援している姿にも納得だったし、なんだかんだ言って一静は及川くんのことが好きなんだとバレないように微笑んだあの時も。私は今みたいに幸せを噛み締めていた。

「なまえちゃんたちは? 結婚の話とか出てないの?」
「うーん、お互いに意識してないわけじゃないけど」

 娘ちゃんを抱え戻って来たちぃちゃんが、娘ちゃんにジュースを飲ませながら私に問う。私と一静も同棲を始めていて、もう5年近く経つ。就職したての頃、「学生に比べるとゆっくり過ごす時間は減るだろうけど、その分濃い時間を一緒に過ごそう」と一静が提案してくれたのが同棲のきっかけ。そのおかげで私たちは仕事で埋もれる毎日でも、互いの姿を見失わずに想い続けてこれた。

「今でも充分幸せだし、一静の特別で居られてるしなぁ」
「出た出た。まじで松川家が1番暑苦しいんだけど」
「あはは! 分かる。まっかわもクールなくせに見せつけてくれるもんね」

 見せつける――この言葉が一静の何を示しているか、私は瞬時に理解して咄嗟に顔を染める。
 今年の夏、みんなの都合が合った休日に、私たちはバーベキューを行った。その時一静は自分が焼いたお肉や野菜を私に率先して渡してくれただけでなく、私の口の端についたタレを「付いてる」と笑いながら指で優しく拭ってくれたのだ。正直言うと、一静と生活しているとこれくらいのことは日常茶飯事で、私も一静に対して同じことをしてあげていた。だからその行為を見ていた他の人たちの顔がニヤニヤしているのを見て、そこで初めて私たちが“見せつけていた”ことに気が付いたのだ。

 一静の手にかかればどうも恥ずかしい言葉がするりと口からこぼれ落ちてしまうらしい。今美鈴ちゃんたちに言った言葉もそうだったらしく、私はわざとらしい咳払いで場の空気を変えようと試みる。

「まぁ、仕事とか色んなタイミングとかあるしね」
「だね。“長く付き合ってるから”“同棲してるから”って理由で結婚しないといけないって決まりもないわけだし」

 美鈴ちゃんとちぃちゃんの言葉に頷きを返す。本当にその通りで、別に一静と結婚したくないわけじゃない。ただ、付き合っていく中で“結婚”を選ぶタイミングがずれてしまっているだけ。でもそのことに焦りを抱くわけでもなく、一静が傍に居てくれるのなら私は今のままでも充分幸せだと思っている。

「ママ、」
「あら、もう飲んだの? 早いねぇ。じゃあママと遊ぼうか」

 だけど。ちぃちゃんが娘ちゃんと遊ぶ姿を見ていると、ちょっと羨ましいと思ってみたり、自分の姿を重ねてみたりもする。



「なまえ今日山田くん家行ってたんだっけ? 田所たち元気にしてた?」
「うん。相変わらずみんな元気だったよ」

 今日は予定通り仕事が終わったらしく、聞いていた時間通りに帰って来た一静が食卓の向かい合った先で私の1日を尋ねてくる。その問いに“こんなことがあった、あんなことがあった”と口にすれば、一静もそれを楽しそうに聞いてくれる。
 互いに互いのことを話し、それに色んな反応を返す。このやり取りは一静とはもう10年近く行なっているけど、未だに飽きがこない。本当にくだらない、どうでも良いようなことでさえも。「何それ」と脱力しながらそのどうでも良い話に笑える関係性も、私にとってはやっぱり特別だと思う。

「なまえ、おいで」
「ん」

 ご飯を食べて、一緒に食器を洗って、洗面所で肩を並べて歯を磨いて。そうして迎えた夜は数知れず。今ではベッドの中で腕を広げてくれる一静に抱き着くのも当たり前になった。ぎゅっと抱き締めてくれる腕の中は、今でも私だけに与えられた特別な場所だ。
 一静の職業柄必ずとは言えないけれど、1日の終わりを同じベッドに潜り込んで「おやすみ」と微睡みながら見送り、1日の始まりを「おはよう」と微笑みながら迎える。そうして一緒に過ごす日々の中に、私は数えきれないほどの特別を見いだしている。だからやっぱり、私は今のままで充分幸せで、それ以上を必要以上に望みはしない。一静に抱きしめられながら私も一静を抱きしめ返せば、「冬なのに暑いな」と笑う一静の声が頭上で響いた。



「今日行きたい場所あるんだけど、良い?」
「うん。良いよ、どこ?」
「前一緒に行ったイルミネーション。覚えてる?」
「あぁ! 懐かしい。リベンジイルミでしょ?」
「リベンジイルミって」

 翌朝、おはようを告げ合いまたしても食卓で向かい合って朝食を食べている時。一静がイルミネーションを見に行きたいと告げてきた。あそこのイルミネーションの前で一静が私に告白をしてくれるはずだったのに、結局トイレ前のソファになったのは良い思い出だ。その後無事にデート先として訪れることが出来たから、“リベンジイルミ”と呼べば「なまえのネーミングセンスは相変わらずだな」と一静が笑う。

「スマートマン気に入ってるくせに」
「消去法で仕方なくだわ」
「痛っ」

 コーヒーのお代わりをしようと席を立つ一静が私の額を軽く小突く。その行為に頬を膨らませて抗議する私を、一静は軽く笑いながらその膨らむ頬にキスを落とす。

「ごめんって。今日は記念日だからさ、ずっと笑っててよ」
「……スマートマン」
「ははっ。機嫌治ったみたいで何よりです」

 一静の言葉は魔法みたいだ。私のトゲドゲした気持ちなんてすぐ削ぎ落とされてしまう。私たちが喧嘩らしい喧嘩をせずにやってこれたのは、この魔法のおかげだと思う。だから私はその感謝の意味を込めて台所に立つ一静に後ろからそっと抱きつく。今日はまた一段と冷え込む日だけど、一静の傍はいつでも心地の良い熱がある。

「私の傍に居てくれてありがと、一静」
「こちらこそ。でも、このモードはまだダメ」
「ん?」

 コーヒーをシンク台に置いた一静が振り向き、私の頬を掴みその真ん中にある唇めがけてキスをする。それを何度か繰り返した後、「出かけられなくなる」と口の端をいたずらに上げながら笑う一静。

「性欲魔人め」
「うーわ、よく言う。今日の夜までその言葉覚えてといてよなまえちゃん? その時どっちが魔人か決着をつけようじゃないの」
「なっ……! ぜ、絶対一静だよ!」
「んー? じゃ今から試してみる?」
「こ、コーヒー! 私もおかわりしよっかな〜??」
「はは。カップ持っといで。注いであげる」

 スマートな所も、こういう時はやけに意地悪な所も。一静は変わらない。というか、その部分に磨きがかかっている気がするけど、それはきっと気のせいなんかじゃないはずだ。



「やっぱり綺麗だねぇ」
「だな。夏の花火、冬のイルミネーションって感じ」
「確かに」

 昼過ぎにでかけ、街中をフラつき辿り着いた場所。ここはイルミネーションの名所だから、それなりに人が多い。とはいっても、それぞれがそれなりの距離を保っているおかげでぎゅうぎゅう詰めという程もない。一静と2人で寄り添い合ってイルミネーションで彩られた景色を眺め歩く。色鮮やかな電飾の中に、真っ白な息が漂い消えてゆく。目の前に広がる景色に夢中になっていると、一静が「あそこのベンチに座ろう」と私の手を引いた。

「俺たち、出会いはベンチだったよな」
「駅前の時計台ね。あの時はまさか同い年だとは思いもしなかったよ」
「俺のこと老け顔だって思ってたんだっけ」
「違うよ。それは一静が自分で言ったんだよ」
「はは、そうだったっけ」

 さすがに10年近く前のことになると記憶が曖昧だけど、それはお互い様の水掛け論だ。まぁでもあの頃から一静は私の何手も上を行っていたから、時々は同じレベルで小競り合いするのも悪くはない。そうやってしばらくポツリポツリとなんでもない会話を交わした頃、一静が「俺、その人にとっての幸せってものをよく考えるんだけどさ」とポツリと呟いた。

「うん?」
「俺の仕事って、その人の現世においての終着を見届けるわけじゃん?」
「うん、そうだね」

 一静が自分の仕事について口にするのは珍しい。そのことを不思議に思いながらも一静の言葉の続きを待てば、その意思を汲み取った一静が私の指に自身の指を絡めてきた。

「もしめちゃくちゃ良い人生だったって思える人だったら、その最後も良いものにしてあげたいし、あんまり良い人生じゃなかったと思う人なんだとしたら、最後くらい良かったと思えるようにしてあげたい」
「……うん」

 その言葉だけで、一静が自分の仕事にどれだけの誇りと責任感を持っているのかが分かる。私にとってはそういう一静が誇りであり、一静を好きで居続ける理由。その想いを握られた手に乗せて強く握り返せば、一静の顔が私へと向いた。

「ふと思ったんだ。“じゃあ、俺の幸せはなんなんだ”って」
「それは、なんだったの?」

 ほんの少しの期待を潜め問う言葉に、一静は緩やかに微笑む。それだけで私の気持ちもゆるゆると心地の良い熱を持つ。やっぱり私たちは、10年という年月をかけてかけがえのない存在を手にしたらしい。

「なまえと一緒に生きていくこと」
「……奇遇だね。私にとっての幸せもそうだよ」
「それは光栄です」

 2人して笑い合い、そのまま視線を目の前に広がるイルミネーショへと移す。一静と見る景色は何倍も綺麗だ。

「美鈴と良太くんを見て、“羨ましい”って思ったんだよね」
「羨ましい?」
「うん。それに、山田くんたちが子供を育てる姿を見て、自分の姿を重ねてもみたわけです」
「……え?」

 一静の言葉に、一瞬思考が停まる。その気持ちは、私がちぃちゃんに対して抱いた気持ちと全く同じだ。まさかのシンクロ具合に驚き目を見開いていると、その顔をおかしそうに見つめた一静が「俺もそろそろなまえと夫婦になりたいなぁ、と思ってます」とトドメの言葉を差し出してきた。

「う、あ……えっと」
「もちろん、なまえが関係性を変えることを望まないのならそれで良い。ただ俺は、出来ることならなまえに俺の奥さんになって欲しい」

 二つ返事出来ないのは、決して迷っているからじゃない。今のままでも良いと思っていたけど、一静もそれを望んでくれるのなら、私は一静と夫婦になりたい。ただその気持ちをどう表現すれば良いのかが分からなくて、口から言葉が出て行ってくれない。そんな私に一静は不安な表情をするでもなく、緩やかな笑みを浮かべてくれる。……きっと、私の思考回路なんて手に取るように分かってくれているのだ。

「結婚したい理由はたくさんあるけど。実はなまえのことを誰かに話す時、“妻”とか“奥さん”とか“嫁さん”って呼びたいって理由も結構おっきい。……あと“ママ”も」
「……ふはっ、何それ」

 一静の言葉のおかげで強張っていた体から力が抜ける。……確かに“旦那さん”と一静のことを示す言葉を増やすのも、魅力的な特別だ。

「全然スマートな理由じゃねぇけど。俺の願望を叶えてくれますか?」
「それを叶えられるのは、私だけなんでしょ?」
「どうもそうらしい」
「……喜んで。叶えさせて頂きます」
「ありがとう。……なまえ、ちょっとこっち来て」

 そうして手を引かれ、イルミネーションの前まで歩いて行けば。一静がその場に跪いてポケットの中から小さな箱を取り出した。まさか指輪まで出てくるとは思ってもなくて、堪らず両手で口を押える私に「サプライズ成功?」と一静が笑う。一体いつからここまで考えていたんだろう。一緒に暮らしてたのに、全然気付かなかった。

「さすがスマートマン」
「言うだろうと思った」

 忙しい最中、私の為にここまで準備してくれた愛おしい人。その人が今から忘れられない最高のプロポーズをしてくれる。私は一体、どれだけの幸せに包まれているのだろう。

「みょうじなまえさん。これからも一生大事にします。人生の最後に“良い人生だった”って言わせるって約束します。だから俺と、結婚して下さい」
「不束者ですが、どうかよろしくお願いします」

 頭を下げたあとゆっくりと目線をあげて、差し出されている箱を受け取る。そうすれば上から覆いかぶさるように抱き着かれ、周囲から響く拍手がくぐもって聞こえてくる。その拍手を気恥ずかしく思いつつも、それを上回る幸せを一静に伝えたくて私も強く抱き締め返す。一静の腕の中はいつだって心地が良くて、永遠に離れられそうもない。だけど、どうしても伝えたいことがある。

「ね、一静」
「ん?」
「私の願望も1つ良い?」

 体を離し、顔を見上げれば一静も優しい表情を浮かべて私の言葉を待ってくれる。その顔をじっと見つめ「一静の人生を“良い人生”にするお手伝いを、私にもさせて下さい」と願う。この言葉を聞いた一静がこれからどんな顔をして、どんな言葉を返すのか――私にはそれが分かる。だから私は、一静より先にその顔を浮かべて一静の言葉を待つことにした。

 一静、私たち2人で、共に互いの人生を“良い人生”にしていこうね。




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