正しいなんて不可能

刻印)に至るまで

 なまえを見るのが辛かった。何度も見ないように努めた。その度になまえは視界にチラついて、居なくなってはくれぬのだと思い知る。なまえを見る度に疼く心も、愛おしいと思う感情も。無理矢理押し込んだ所でより強い想いとなって心に残る。それが苦しかった。

 なまえが見ている先は俺とよく似た顔立ちの人間。同じ遺伝子を継いで、同じような環境で生きてきた片割れ。他の人ならばまだいい。よりにもよってどうしてアイツを。
 己の抱く感情が醜いものであると知る度に心を痛ませながら蓋をした。そうして過ごす日々は、ひどく苦しくて、得難い幸せだった。

 なまえが酔っ払ってサムに電話をかけてきた時、サムは困りながらも迎えに行こうとした。起業したばかりで色々と忙しいクセに、なまえからの頼み事は応えようとする片割れを見ていると焦燥感が湧いた。

「俺が行く」
「は? ツムかて遠征終わりで疲れとうやろ」
「もうメシも食ったからええ」
「でも……、」
「サムはまだせんとあかんことあるやろ」

 上がり込んでいたサムの家には散らかったように広がる無数の書類。それらに目線を這わすと「すまん、」としおらしく詫びを入れられた。……本当に詫びを入れなければいけないのは俺の方だ。俺が介入しなければ、お前となまえは普通の恋愛が出来たのに。

 俺は、お前らの関係を崩そうとしている邪魔者。サムに謝られる資格なんてない。



 なまえの姿を見た瞬間、頭に血が上るのが分かった。なまえに対してではない。なまえを酔わせ、手を出そうとしているクソどもにだ。なまえをそこら辺の女と同じ方法で抱こうとするな。なまえは、お前らなんかが触っていい人間ではない。

 ――他の人ならばまだいい? とんだ勘違いだ。アイツでも、他の誰でもよくない。誰にもなまえを触らせたくはない。……それならばいっそ。後に戻らぬ覚悟を決めた時、心の底にストンとなにかが落ちて居座った。

「サムに抱かれるみたいなモンやん」
「違うっ、侑っ、」
「俺となまえがヤったって知ったらサム、どんな顔するんやろなぁ?」
「〜っ、」

 ホテルで組み敷くなまえは今まで見たこともないくらい悲しそうな顔をしていて。その真っ赤に染まった頬も、涙に濡れる黒い睫毛も、なにもかも。俺の劣情を掻き立てるだけのものでしかない。もう俺は、戻らない。

 それからことあるごとになまえを抱き続け、身体に快感を覚えさせてはなまえを引きずり込んだ。それに必死に抵抗するなまえも、抗えずに達してしまうなまえも。なにもかも。愛おしくて苦しくて、何度もその姿を見たいと縋った。

「侑っ、」

 苦しそうに名前を呼ばれると、真っ黒くなった心がズキズキと痛かった。俺ではない、サムに抱かれていると思えばいい――そう押し付けたのは自分自身だというのに。結局それは、俺自身がそう思うことで罪悪感から逃れようとしているだけなのだと分かっている。だから、なまえから名前を呼ばれると、罪を突き付けられている気分になって堪らなく嫌だった。

「侑、」
「……なまえっ」
「今までごめんなさい」
「……はっ、なに急に?」
「侑、ごめん」
「……謝られた所でやめへんよ」

 なまえから初めて治の役割を命ぜられた時、なまえが初めて俺を見つめてくれた。今までもなまえは治と俺を重ねることなどせず、ずっと俺を見ていたことは知っている。ただ、その日はワケが違った。
 初めてまっすぐ俺を見てくれた。ごめんと謝られたことが辛く、そして幸福に思えた。それが嬉しくて、泣いているなまえを無視して行為を進めた。

 なまえが苦しんでいるこの行為で、俺は幸せを感じている。決して通じ合うことのない気持ちは俺らの関係を表していて、らしいなと思った。だけど、なまえを解放してやりたいと思うのもまた本心で。
 なまえに想いを告げて、その想いが死んでしまうことに怯え逃げた。自身に留めた想いを歪なものに変貌させ、それをなまえに押し付けた。そこになまえが罪悪感を持つ必要なんてない。だから、俺との関係に苦しむなまえを見ているのは辛い。そんなまともな感情が俺の中にまだ残っていたことに少し驚きもした。

「なぁ。いっそのことデキ婚でもせえへん?」
「っ、なっ……、」
「そしたらみんな幸せになると思う」

 だけどやっぱり。もしも救いの道があるというのなら、なまえ1人が救われるのではなく、俺も一緒に救って欲しい。そうじゃないと駄目だ。俺だけを置いて行くのは許さない。

「……嫌や」
「……そうよな。だってなまえが好きなんは、治やもんな」
「っ、」

 正しい心は、いつだって歪んだ心には勝てない。

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