はじまりの予感に騒がしい

 風間さんと付き合い始めてそれなりの時間が過ぎ。ようやく自分の彼氏は風間さんなのだとということが馴染んできた。そんな折、私が足早に向かう場所はいつもの居酒屋。タイミングが合えば必ずといっていい頻度で開催される飲み会に“ボーダー飲み会”という名前が付いたのはつい最近のこと。“ボーダー飲み会”など大袈裟な名前が付けられているけれど、実際は諏訪さんが主体となった太刀川と私と風間さんが集まるだけの飲み会だ。

 付き合い始めたばかりの頃は風間さんと2人で顔を出すだけでまるでパレードが始まったかのような出迎えを受けていたけれど、それももう昔の話。……というか諏訪さんと太刀川が飽きるのが早いんだと思う。いや、それ以上に風間さんが動じなさ過ぎて面白みがないと判断されたのか。
 冷やかされるのも付き合っているのが当たり前という反応をされるのも、当時の私からしてみればどっちも恥ずかしくて堪らなかったけれど。それにもどうにかこうにか慣れ、最近ようやく“お前らどこまで進展してんの?”などという下世話な質問もなくなってきだした。

 諏訪さんと太刀川のことを躱せるようになったのもあるけれど、仲間との飲み会は楽しいものなので、私にとってもこの飲み会は週末の楽しみになっている。
 そして今日はその飲み会に授業の兼ね合いで私1人が遅れてしまい、大学を出る頃には集合時間を大幅にオーバーしてしまっていた。

 スマホを取り出し時間を確認しようとしてみれば、諏訪さんから“早く来い”というメッセージが届けられていた。そこに感じるほんのりとした嫌な予感。いっそのことこのまま不参加を決め込むのもアリだとも思ったけれど、その考えはすぐさま取り消された。……やっぱり、風間さんには会いたい。

 そんな思いで踏み出す足は、先ほどよりも力強い歩みとなった。



「遅れました」
「おー。みょうじ、遅かったな」
「すみません、特別講義が長引いちゃって」

 個室に顔を覗かせると、入り口付近に諏訪さんが座っていて1番に目が合った。ちょうどその隣が空いていたのでそのまま座れば「おい。みょうじ」と反対側に腰掛ける風間さんが声をかけてきた。

「……もしかしてアレ、」
「どんぐりの背比べだよ」

 呼ばれた声の先で、いつものように鋭い眼光を宿してはいるのに、どこか焦点の合っていない目線が待ち構えていた。そしてその隣に座っている太刀川も何がおかしいのかグラスを眺めながら微笑んでいる。これはもしや……2人とも既に出来上がっていらっしゃる……?

「みょうじ」
「あ、ハイ」

 諏訪さんに目線で確かめているともう1度風間さんが私を呼び、視線を定めてきた。その真意が分からなくてじぃっと見つめ返せば、風間さんの視線が自分の横へと動かされた。そうしてもう1度視線を合わせられれば、そこでようやく“隣に来い”と言われているのだということを理解する。

「彼氏様がお呼びだぜ」
「なんかあっち側行きたくないなぁ、」

 そう言いつつも従う素振りを見せれば風間さんは隣に居る太刀川の肩を押しその隙間を作る。そうして間に座れば“それで良し”という表情を浮かべる風間さん。一体私が来るまでの間に何があったんだ。

「別になんもねぇよ? どっちが酒が強いか〜、みたいなしょうもねぇ勝負が始まっただけ」
「うっわ、ほんとにどんぐりの背比べじゃん」
「そんで俺はそれを煽っただけの傍観者」
「それで手に負えなくなってこの有様ってわけですか」

 ほら、予感的中。後から参加したらこういう面倒事に巻き込まれるんだ。この時点でこんだけ出来上がってたらもう飲み会所じゃない。ようやく諏訪さんのメッセージの真意が分かった。“早く(風間さんを回収に)来い”ということか。……まったく、諏訪キューブめ。

「俺は太刀川引き受けっから、みょうじは風間な」
「えっ私1人じゃさすがに無理ですよ」
「風間1人くらい換装体になりゃ首根っこ掴んで連行出来んだろ」
「まぁ……そうですけど、」
「それに風間はお前の彼氏、だろ?」
「まぁ……そう、ですけど」

 んじゃ決まり! と台を叩き立ち上がる諏訪さん。座敷に突っ伏すような状態で半分眠っている太刀川に「おい! 可愛くねぇんだよ。さっさと起きろ!」と暴言を吐きながら起き上がらせ、「んじゃ。今日は解散っつーことで!」と逃げるように立ち去ってゆく。来たばかりなのに、という文句も言いたくなったけれど、その手には勘定も握られていたのできっとこの場の支払いは任せろということなのだろう。
 そういうちょっとした男気を感じたので、それは勘弁してあげることにした。……問題はこの男だ。さて、どう送り届けようか。



「風間さーん、起きて下さい」
「起きている」
「目が閉じかかってますって!」

 おーい、と呼びかければ「ん、」とか「んん」とか何かしらの反応はするけれども。これじゃまともな会話にならない。というか風間さん家どこだ?

「家、どこ?」

 そう口にした時、どこか懐かしい気分が漂った。……そうだ、初めて会った時だ。風間さんのことてっきり年下だと思い込んでバカにして、「君、誰?」なんて言ったんだっけ。懐かしいなぁ。それに風間さんのことなんて呼んだらいいんだろう? って本気で悩んだ時もあったっけ。
 風間さんとの出会いが思い起こされて思わず緩む頬。だけどその思い出は肩に圧し掛かる重みが押し退け今へと引き戻す。……そうだ、私は風間さんを無事に送り届けなければ。

―風間の住所、ココな

「さっすが諏訪さん。……いや違う、普通はここまで酔わせないでしょ」

 送られて来た住所に感謝をしてみたり、ふと冷静になって諏訪さんのせいだと思い直してみたり。そうして最後は苦笑に変え、スマホを頼りに歩き出す夜道。風間さん、このまま寝ちゃったらどうしよう。今なら叩き起こしてもバレないだろうか?






「風間さん。家の鍵、あります?」
「ん……? なんだ、みょうじ。俺の家に用か」
「用っていうか……まぁ用があるっちゃあるというか」

 風間さんを送り届けるという用があるんです、という言葉を含ませていると「仕方ない。特別だ」とかなんとか言いながら鍵を取り出し授けられた。……開けろってことかい。

「お邪魔します」
「このままずっと居てもいいぞ」
「いやそれはさすがに……ていうか風間さん、お酒は程ほどにしといてくださいね?」
「あぁ。俺は自制が出来る男だからな」
「はいはい。それじゃ、私は帰りますね。鍵はポストに入れときますので」

 初めて入った風間さんの家は、やっぱり綺麗に片付けられている。これならいつでも人を呼べる……というか私、初めて風間さんの――彼氏の家に上がり込んでしまっているのでは? それを自覚した瞬間、とんでもなく居心地が悪くなってしまって心臓が早鐘を打ち始めた。……違う、今日はそういうので来たんじゃない。変な緊張するな自分。

「そ、それじゃ……お邪魔しました、ぁ!?」
「……もっとゆっくりしていけと言っただろう?」

 語尾がずり上がるのと、風間さんの手が私の腕を掴みベッドに押し倒すのはほぼ同時だった。……やばい、目が据わってる。
 
「か、風間さん……あのですね、私はただ、」

 ただ送り届けたかっただけ――その言葉を最後まで紡げなかったのは、風間さんの手が私の頭に触れ、髪を梳き耳に掛けたから。ふぅ、と吐き出される吐息と共に両眼で見つめられれば、“静かにしろ”と言われているのが嫌でも分かる。それでも予測していなかった展開に脳はその命令を無視してどうにか間を繋ごうと必死になってしまう。

「か、ざまさん、あの、」
「まずはその呼び方を改めろ」
「……っ、」
「俺もなまえと呼ぶ。それで公平性は保たれる」
「公平とかどうとかじゃなく、」
「……なまえ」

 ……だめだ、話にならない。こうなってしまえばもう私が折れるしかない。というか名前を呼ぶ恥ずかしさよりもこの体勢の方が何倍も恥ずかしい。

「……蒼也、さん」
「……良し、では次だ」
「つ、次!?」

 次!? 次って何!? 風間さんの名前、風間蒼也で終わりじゃないの!? なんてわけの分からないパニックを見せる脳と、その傍らでどこかその次を察している脳と。風間さん……蒼也さんの顔がゆっくりと近付いて来た時、その形勢は一気に後者へと傾いた。

 “お前らどこまで進展してんの?”という問いに答えるのならば、“まだ何も”が答えだ。いや手は繋いだ、さすがに。でもその先――つまりキスはまだだ。何度かその雰囲気はあった。ただ、相手が私だ。無理だった。その度に風間さんは怒るでも不機嫌になるでもなく待ってくれた。それが我慢させていることになっていることは、分かっていた。その我慢が今、酒という魔法によって解放されてしまったのだ。

「待っ、」
「……すまない。無理だ」
「〜っ、」

 心底申し訳なさそうに言われてしまえば、私の方が何倍も申し訳ない気持ちになる。今でさえ風間さんは無理矢理キスを迫ることはしないでいてくれている。さすがにこれ以上は待たせ過ぎなんじゃないかと自分でも思う。……逆に、今このタイミングの方が良いんじゃないか? そう思った瞬間、その思考を悟ったように風間さんの顔がより近付いた。

「ひぅ、」
「……ふっ。顔が赤いぞ、酔っているのか?」
「そ、それはかざっ、そ、蒼也さんの方っ」
「俺では嫌か」
「……え?」
「キスをしたいんだが。俺ではだめか」
「なっ、」

 さすがにその問いはずるくないか。“俺ではだめか”とか訊かれて、首を振るわけないじゃないか。だめだったら付き合ってすらいない。というか――

「……蒼也さんじゃないとだめ、です」
「……それは、覚悟を決めたということで良いか?」

 その問いに今度こそ首を縦に振る。そうしてきゅっと結んだ口と目。その先で蒼也さんの雰囲気が柔らかく緩む気配がする。……あ、これ、キスだけじゃ終わらないかもだ。……でも、それでもいい。蒼也さんとなら、踏み込める。

「……?」

 覚悟を決めてから数秒。いつまで経っても触れることのない体温を不思議に思いそっと目を開けば、黒い物体が降りる――いや、落ちて来た。

「へっ? そ、蒼也さん……?」
「なまえ……」

 首筋に当たる吐息。その速度が一定なものであることを確認した瞬間、私の身体を覆っていた緊張が消え去るのが分かった。……寝落ちパターンって、そんな。

「ふはっ。なんなの、もう」

 寝落ちされてしまえば、一気にこの状況がおかしくなる。無事にベッドに運べたことだしと変身を解き生身に戻る。そうすれば押し寄せる疲労感に、眠気が顔を覗かせるから。私はそのまま睡魔へと身体を預けることにした。



 ぱちり、と寝起きにしては珍しく両目が開いた。そうしてゆるりと視線を動かし、ここが蒼也さんの家であることを認識する。蒼也さんの許可を得てはないけれど、私を帰してくれなかったのは蒼也さんなんだし、それくらいは許してくれますよね? と隣で眠る蒼也さんに心の中で問う。いつもは鋭く光る瞳も、今はその光を潜めている。穏やかに眠る姿に愛らしささえ感じていれば、その瞼が微かに揺らめきやがて赤い瞳を覗かせる。

「おはようございます」
「…………はっ?」

 数回瞬いた後、カっと見開かれる目。その割には間抜けな声を出すその様子がおかしくて、ついクスクスと笑ってしまえば対する蒼也さんは「笑いごとじゃない。お前、なんで……もしかして、」と顔面が蒼白してゆく。

「すまない。責任はとる」
「あはは! 蒼也さん、落ち着いてください」
「そっ……、待て。昨夜は何があった」
「風間さんのことを蒼也さんと呼ぶようになって、蒼也さんは私のことをなまえって呼ぶようになりました」
「……すまない」
「なんで謝るんですか?」

 ベッドから体を起こし、私と向き合う体勢をとる蒼也さん。そうしてつむじが見えるくらいに頭を下げてくるから、その様子がおかしくておかしくて。昨日のゴリ押しがまるで嘘みたいだ。

「私も蒼也さんって呼べるようになって嬉しいです」
「……そうなのか」
「それに、なまえって呼んでもらえるのも嬉しいです」
「そうか……」

 ちょっとだけ蒼也さんの表情が緩みを見せる。風間さんの誤解がひとまず解けたことに安堵し、その後にちょっとした悪戯心が顔を覗かせる。……思えば私は、それなりの覚悟を昨日させられたんだ。ちょっとくらいは良いだろう。


「……でも。次襲う時はシラフの時にして下さいね」
「俺はやはりみょうじ……なまえ、のことを、」
「せっかく襲われる覚悟したのに。蒼也さんそれをふいにしたんですからね」
「……そうか」

 もうちょっと驚くかと思っていたのに。意外にも蒼也さんは冷静さを見せ「シャワーを浴びてくる」と言ってベッドから抜け出す。そうして「なまえもその後に浴びるように」と言われれば「あ、ハイ」といつも通りのやり取りが戻って来る。……もうちょっと意地悪したかったなぁ。

「その後でも遅くはないだろう?」
「…………はい?」
「その間にもう1度覚悟しておけ」
「えっ……。えっ?」
「今度はふいになどさせん」

 一瞬の間を置いてぼぼぼっと染まる頬。蒼也さんがその顔を見て「まるで酔っ払いだな」なんて悪戯に笑うから。仕返された! と思った時にはもう蒼也さんの姿は浴室へと消えていた。……いやてか待って。夜より朝の方が緊張するんですけど!?

 
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