オロナインの使者

花巻が軽い男です


「ねぇ、やっぱ別れよ」

 その女は甘ったるい匂いだけをその場に残し、やけにスッキリとした顔をして俺の前から立ち去っていく。やっぱりとは、アイツはずっと俺と別れたいと思っていたという事か。いや、恐らく違うだろう。何となく俺の事を気に入って、俺に告白して、3ヶ月もすれば俺に飽きて、別れたくなった。どうせそんな所だろうと思った。俺自身も、告白をされた時に顔もまぁまぁ可愛いし、胸でけぇし。とりあえず付き合うか。くらいの軽い気持ちで返事をした。だから、急に何の前触れもなく別れを告げられた所で、そこまでの打撃は受けていない。ヤる事ヤったし。そんなもんだろう。アイツも俺も、また適当に誰かと付き合うんだろう。

 ついさっきまで俺の恋人だった女の残り香を嗅ぎながら、そんな事をぼんやりと思う。教室に帰る為に、踵を返して歩きだした俺の鼻から匂いは未だに離れてくれない。鼻を啜ってみても、意味は無い。この匂いはもう暫く嗅ぎたくない。俺は香水の匂い自体があまり好きじゃない。バレーをしていると、汗の匂いばかりを嗅ぐ。それも男の。そんな鼻に香水のあの独特の強い匂いはイマイチ馴染んでくれない。アイツからはいつもフローラルの匂いがぷんぷんしてきて、鼻に皺が寄りそうになっていた。だから、あの匂いから解放されるのだと思うと、正直清々している自分も居る。



「はい、俺もめでたくフリーになりました」
「まじで? 今回早かったくね?」
「そうか? 前に1ヶ月持たなかった事あるぞ」
「いつ」
「2人、いや3こ前か。他校の」
「あぁー」

 教室に戻り、待ち構えていた友人に今しがた起こった出来事を報告しておく。振られた男がする事といえば、この話をネタに友人と笑い話にする事くらいだ。

「次誰行くつもりなんだ?」
「んー、別に狙ってるヤツは居ねぇけど。出来れば可愛くて、スタイル良くて、あと胸がでけぇヤツが良いかな」
「うっわ強欲」
「ヤるなら可愛い方が良いでしょうが」
「まぁな」

 男とはそういう生き物だ。ヤるなら可愛い相手の方が良い。さて、次はどんな女と付き合おうか。俺の思考は既に次の候補を決める為に動いていた。



 悲しくもフリーになった俺は以前より時間が増えた。する事も無いし、及川や岩泉の自主練に付き合う事も増えた。

 そうすると、どうしても手が荒れる。ボールに油を取られてしまうのだ。こればかりは仕方が無い。冬場になるとここに乾燥も重なるから堪ったもんじゃない。まぁ今更それだけの理由でバレーを止めようとは思わないのだけれど。付き合う相手にもそれくらい一途になれたら良いのに、と自嘲的な笑みが湧き上がる。その笑みを隠すように、机の横に掛けてある鞄を覗く。
 確か鞄の中にハンドクリームがあった筈。ふたり前に付き合っていた彼女に借りて、そのままになったヤツ。ピンクっぽい紫のパッケージの。ジャスミンの匂いだか、そんなの。その匂いもあまり好きではなかったけれど、手が保湿出来るのならこの際そこは飲み込もう。しかし、いくら探せどそのハンドクリームは見つからない。そんなに俺の鞄汚くねぇぞ。何で見当たらないんだ? そこまで考えて、つい最近別れた彼女とのやり取りを思い出す。

「貴大ってこういう匂いが好きなんだ?」
「あ? あー。うん、まあ」
「ふうん? あっそ」

 学校終わりに俺の家に来て、暫くだらけて、そういう雰囲気になって。押し倒して、いざ、という時にゴムを取ろうと鞄に手を伸ばした時に一緒に出てきたのが今俺が探しているハンドクリームで。それを見た彼女がそんな事を尋ねてきた。
 俺はその時既にヤる事で頭一杯だったから、適当に流したけど。良く考えればあの後から鞄を漁る度にチラついていた紫色を見かけなくなっていたかもしれない。あの時、アイツは元カノの物だと勘付いていたのだろう。恐らく、事が終わった後、俺の目を盗んで捨てたらしい。
 別にその行為自体を今更咎める気も無い。ただ、今だけは少しだけその行為を責めたくなった。物に罪はねぇだろ。あれがあれば俺の手は潤ったのに。まったく……。

 小さく舌打ちをして、鞄から手を放す。本当だったら、嫉妬が起因のその行動に、申し訳なさや、彼女に対する愛おしさを感じるべきなのかもしれないが。生憎俺はアイツの事をそこまで思いやれる程好きでは無かった。……次付き合う女はいっその事無臭のヤツが良い。あと胸のデカさは譲れねぇ。どこまでいっても下世話な方向に行く思考を脳内で自由に泳がせていると、目線の端で何かが落ちる。ちらりとその方向に目を向けると、隣の席で本を読んでいた女が栞を落としたみたいだった。

「これ。落ちたぞ」
「あっ、ごめん。ありがとう、花巻くん」
「いーえ」

 栞を拾って差し出すと、その女子生徒はお礼を言うと直ぐに本の世界に戻って行き、俺は既に用済みの人物として扱われた。それを良い事に不躾な視線を向けてみる。名前は確かみょうじなまえだっけ。栞を受け取る手の爪は短く、テカテカと奇抜な色を発していなかった。顔もマツエクもしていないし、ほぼスッピンに等しいと思う。髪も黒髪で、巻きもしていない。

 “質素”みょうじにはこの言葉が似合う。正直言って、俺のタイプでは無い。まぁタイプだったら既に声かけてアプローチはしているだろう。クラスメイトにしては関わりが薄いのは、お互いがお互いを別次元の人物として捉えていたからだろう。この先歳を重ねて社会に出たところで、みょうじの事を思う事なんてもう無いのかもしれない。そう思うと、何故かみょうじから目線を外す事が惜しく感じて、中々みょうじから視線を逸らす事が出来なかった。

……最近発散してねぇから、欲求不満か? さすがにヤベェな。手当たり次第に発情してたら節操無しみたいでみっともねぇ。これは早い所誰か紹介して貰わねぇと。自分の欲求の深さに、頭を掻いて、視線をみょうじから外そうとした時。
 タイミングを合わせるようにページを捲っていたみょうじの手が止まる。……俺の視線に気が付いたか? そう察した段階で、目線を逸らせばいいのに、俺はそうしなかった。
 目線がかち合ったとき、みょうじはどんな反応をするのか、見てみたくなった。……そんな事を考える時点でむくむくと不純な気持ちが湧き上がってきているのをハッキリと自覚する。

 良く見るとみょうじは化粧っ気は無くても、目鼻立ちはしっかりとしているし、睫毛も長い。伏し目がちになっていると良く分かる。指も細くて綺麗だし、色白で、頬はうっすらとピンク色の血色が内から滲み出て彩りを持たせている。……一気に脳内でみょうじの乱れた姿を想像してしまう。あの細い指をからめ取って、目に涙を浮かばせて、組み敷いた俺の下で俺の名前を呼ばせてみる。……駄目だ。ヤりてぇ。

「なぁ、」

 不純な思惑を抱え、みょうじに声をかけようとしたがその声は途中で途切れる。ページを捲るのを止めたみょうじの手が鞄へと伸び、小瓶を取り出したから。なんだ。みょうじも香水とかそういう女子らしい物を持っていたのか。一気に妄想が萎んでいく。お前も甘い匂いをさせるタイプの女か。勝手に欲情して勝手に萎えて、苛立ちを向けて。俺は一体何がしたいのか。荒れているのは手だけではないようだ。それで、みょうじ。お前は一体どんな匂いをさせるんだ。

「……は?」

 手のひらから出てきたのは小瓶は小瓶でも茶色と白色の小さな瓶で。おい、それって……。

「オロナイン……」

 思わず口から飛び出していった言葉にみょうじが「えっ?」と驚きの声をあげる。視線がかち合う。直ぐにやってしまったと思ったが、覆水は盆に返らない。言ったからにはこの会話を続ける必要が俺にはある。

「いや、てっきり香水とか、ハンドクリームとかそういうの出すのかと思って」
「あぁ。香水の匂い苦手だから持ってないんだ。それに、ハンドクリームも、不必要な匂いが付いてるのばっかりで。その点オロナインは良いんだよ。ケア力抜群だし、手だってちゃんと潤してくれるんだもん」

 納得したみょうじは嬉々とした表情でオロナインの凄さを語る。その力説の具合を見ていると、みょうじの中身はおばあちゃんなんじゃないかと疑いたくなる程だ。

「はは、みょうじさんオロナインのステマみてぇ」
「そ、そんなつもりじゃ……」

 あぁ良かった。慌てる姿は十分可愛らしい年ごろのソレだ。

「冗談。でもそんなに良いんなら今度俺も試してみるわ。バレーしてると手が良く荒れるし」
「あ、ほんとだ。結構カサついてる。花巻くん。手、貸して」

 言われるがままに手を差し出す。その手をみょうじの細っこい指が包み込んでいく。

「これでオロナインの良さを体感してみてよ。侮れないんだから。それにコスパ良し! だからさ」

 へへ、と笑うみょうじからはふわりとオロナインの匂いがする。普段香ることの無いその質素な匂いは、俺の鼻腔を新鮮な香りとして駆け巡っていく。チラリとみょうじの胸元を覗いてみる。……胸はまぁ、この際良い。無臭の女という点も、まぁ良い。オロナインの匂いは意外と嫌いじゃない。でも、さっき俺に触れたみょうじの手はもう一度握ってみたいと思った。今度は俺から。ただ、みょうじは今までの女とは一味違いそうだ。なんせオロナインを力説するくらいの女子高生。これは長期戦になるかもしれない。……まぁでも良い。抱き締めた時にオロナインの匂いがする彼女なんて、最高じゃねぇか。

「花巻くん? どうしたの、ニヤニヤして」
「なんでも無い。俺も買ってみっかな。オロナイン」

 うん! 是非是非! なんて無垢な笑みを浮かべるみょうじは、俺が次の候補をみょうじと決めた事になんて気が付いてはいないようだった。

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