chrysalis

 クソ。何もかも。クソ。

 絶望って具体的じゃない。
 もちろん、“これが決定打”っていう大きな出来事もあるけど、小さな出来事の積み重ねが絶望を知らしめるんだと思う。例えば理不尽なクレームに当たってしまったとか、新発売のスイーツを買いに行ったら売り切れてたとか、恋人と別れたとか。そういう、誰にでも起こり得る不幸が私の気持ちを落としこみ暗くする。

「あー、クソだな」

 何の用もないけど、ずっと家に居るともっと嫌になりそうで出掛けた街中。だけど用がないからどこにも行けなくて、目についたカフェに入って一休み。やっぱり何の気分転換にもならない。私の人生クソだな。

「はぁ……」
「あの」

 溜息を溜め込んだコーヒーカップを持ち上げた時、隣に座っていた男性から声をかけられた。一体何事だ? もしかしてナンパか? とも思ったけれど、サングラスの向こう側の瞳がそんな穏やかなものじゃないことは見えなくても分かった。じゃあ何の用だろうと訝しがりながら「はい?」と応えれば「暴言はご自宅でお願い出来ませんか」というクレームを付けられた。

「……あ、すみません。ご迷惑でしたよね」
「いえ。……ただ、食事の場でそう何度も“クソ”を連呼されるのは」
「うそっ、そんなにクソって言ってました!?」
「今ので10回ほど」
「うっわ、まじですか……本当にすみません」

 そんなに口に出したつもりはなかったけれど、この男性が言うのであればそうなのだろう。実際、その回数以上脳内ではその言葉を口にしているのだし。
 指摘された途端、コーヒーカップの中身にもっと暗い言霊が宿っているような気がして手を止める。男性の言う通り、家に帰って大人しくしていよう。外に出ると誰かの気持ちも引っ張ってしまうってことが分かったし。

「あの」
「はい」

 ちらりと男性のテーブルに視線を這わし、コーヒーだけなことを確認して「私、もう帰るので良かったらあなたのお会計も持たせてください」と申し出る。テーブルの上がもっと豪勢だったらお詫びだけで帰るつもりだったけど、コーヒー1杯くらいなら私の懐で賄えそうだ。

「いえ、結構です」
「……そうですか。それじゃ、お邪魔してしまってすみませんでした」

 結局お詫びの1つで済んでしまったけれど、もう1度頭を下げて腰を上げた時。「あの」と男性側から声をかけられ動作を止める。さっきから呼び止め合ってばかりだなと思いつつ「はい」と応じれば「確かにこの世の中はクソです。クソの吹き溜まりです」と耳を疑う言葉を吐き出された。

「え、食事の場……」
「ですが、“生きる”という行為はクソではありません。愚痴をこぼしながらも必死に生きようとする行為は、素晴らしいものだと思います」
「は、はぁ……」

 何を伝えたいかが分からず、もう1度腰を落とし眉根を寄せる私に「……頑張ってください」という言葉で話を結び席を立つ男性。……どうやら、私のことを慰めようとしてくれたらしいということが分かった時には男性は私の伝票を持って「出過ぎた真似をしたお詫びです」と立ち去っていく途中だった。

「……あ、ありがとうございます!」

 男性の優しさを理解し、慌てて告げた言葉は男性に届いているか分からなかったけれど。もう1度口をつけたコーヒーの味は決してクソなんかじゃなかった。

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