その声でなぞってみせて

 時刻は19:20。10月末のこの時期は季節的には秋とはいえ、ほとんどの人が厚着をしており、視覚からも東北の寒さを実感させる。そんな中、牛島が他の人に比べていささか薄着の様に見えるのはロードワークをこなしているからであろう。薄着をしているにも関わらず、その額に薄っすらと汗が浮かんでいるのがその証拠であった。

 牛島を擁する白鳥沢学園は春高予選で烏野と対戦し、敗北を喫した。それによって、牛島の高校でのバレー生活は幕を下ろした。それでも牛島は今までと同じように決めた時間に決めたルートを走りこんでいた。何年と続けてきたロードワークは生活の習慣となっており、こなさないと気持ちが悪かったからだ。

 今日もペース通りに前半を走り終え、休憩ポイントとしている公園にさしかかり、水分補給をしている時だった。

「あら。牛島若利もロードワーク?」

 聞き慣れた声が牛島の名前を呼ぶ。

「……何故フルネームなんだ」

 その声の持ち主を見もせずに牛島はそのまま水で顔を濡らした。そして顔を拭こうとジャージのポケットにあるハンカチへと手を伸ばしていると「これ使って」と凛とした声が鼓膜を揺らす。

「すまん」
 
 侘びを入れて差し出されたタオルに顔をそっとつける。タオルから香る柔軟剤の匂いが目の前に居るであろう人物と同じ匂いで、くすぐったい気持ちになる。牛島は直ぐにタオルから顔を離す。そうして離したタオルを丁寧に折り畳み、ようやくその双眼で目の前に居るみょうじの姿を捕らえる。そんな牛島の事をみょうじの大きな瞳が包み込むように捕らえ返す。

「まさか牛島若利が春高を逃すなんて。思いもしなかった」
「……それだけ烏野が強かった、という事だ」
「カラスノ、ねぇ。聞いた事も無い。そんな無名の高校に牛島若利が負けるなんて」

 みょうじの放つ言葉は烏野と対戦する前まで自分自身が思っていた事であった。だからこそ、みょうじが言う言葉を制する事は牛島には出来ない。それでも、牛島はみょうじに伝えたいと思った。

「みょうじ」
「なに? 牛島若利」
「忠告しておく。どこの高校だろうと、それぞれが何かしらを抱えてコートに立っている。強い、弱い、なんていうのは自分自身の物差しでは決めれない事だ」
「……あんだけ自信家だった牛島若利が何を言い出すかと思ったら」
「みょうじが居る新山女子は強い。しかし、その強さが驕りを生む可能性をも秘めているという事を念頭に置いておけ」

 自分が何故みょうじにそんな事を言っているのか、牛島自身分からない。ただ、新山女子でも絶対的な存在感を放つみょうじは、自分自身がその事に誇りを持っている事を牛島は知っていた。それは何度も何度も試合会場で顔を合わせていれば分かる事だった。そして、その勝ち気な性格がどこか自分に似ているとも思っていた。だから、新山女子が、みょうじが、春高を決めたと知った時、自分自身が報われた気がしたのを牛島は覚えている。そして、みょうじにとっても高校最後の大会。だからこそ、自分の様に思ってもみない方向からブッスリ刺される、なんて事にはなって欲しくないのだ。

 そこまで考えて、ある1つの思考に辿り着く。

――そうか、俺はみょうじの背中を押したいと思っているのか。

「……なに? 私の事、そんなにジッと見つめて。何か付いてる?」

 伝えたいと思っていた気持ちの正体が分かった今、みょうじに伝える言葉はシンプルだ。

「応援している」

 見つめた視線はそのままに、自分の気持ちを真っ直ぐにみょうじへと届ける。数秒して、その言葉を理解したみょうじの瞳が軽く揺れる。

「牛島若利って人のこと応援しようとか思うのね」

 みょうじは牛島の事を珍しいものでも見るかの様な表情をしている。それでもその口角がほんの少しだけ上がったのを牛島の瞳は逃さなかった。

「俺にも人の背中を押したいと思うことはある」
「あら、意外」

 そんな風におどけた後、みょうじはそっと言葉を続けた。

「でも何故か力が湧く気がする。……ありがとう。さっき言ってくれた忠告も、なんだか凄く説得力があったし。牛島若利も変わったのね。良い方向に」
「……そうだと良いが」
「ふふ。私の目にはそう映ってる。てっぺん取ってくるから、応援してね。牛島若利」

 はにかむ笑顔はコートで点を獲った時のそれと変わらない。その笑顔が少しだけ眩しくて、自分の心が浮き立つのが分かる。そんな気持ちを誤魔化すように、1番初めに言った言葉をもう1度みょうじに向ける。

「みょうじは何故俺の事をフルネームで呼ぶんだ」
「だって、前に牛島若利が言ったんじゃない。“気安く呼ぶな”って」

 みょうじが窘める様に言う言葉は肝心な部分が端折られている。

「それはみょうじが俺の事を及川が呼ぶようなあだ名で呼んできたからだろう」
「えっ、そうだった? 私、“ウシワカ”なんて呼んだ事あった?」
「みょうじと初めて会ったのは及川を介してだった」
「あぁ、思い出した。それで、及川くんが牛島若利の事を“ウシワカ”って紹介して、私がそう呼んだんだった」
「だから俺はみょうじに“気安く呼ぶな”などと言った覚えはない」
「なんだ、そっか。じゃあ、私、今からアナタの事なんて呼ぼう?」
「“ウシワカ”意外ならなんでもいい」
「そう? じゃあ次に会う時までに考えとく」

 じゃあね、と手を振り、公園を出て行くみょうじを見送り、自分も後半のロードワークに向けたストレッチを始める。その頭の片隅で“牛島”と呼べば良いのでは? などと先ほどのみょうじの言葉に反応しながら。


 そして、出来る事ならば“若利”と呼んで欲しいと願う自分が居ることには、もう随分と前から気付いている。

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