一緒に帰ろう

「みょうじせんぱ……あ。すみません」
「あはは。良いよ、無理に呼ぼうとしなくても。“みょうじ”も私の名前で間違ってはいないんだし」
「ありがとうございます。……澤村先輩。この書類の確認お願いしても良いですか?」
「うふふ。はい、了解です」

 この会社に入社して、約7年。それなりに任せられる仕事も増えたし、可愛い後輩もできた。仕事が楽しいだけじゃなくて、責任感も出て、やり甲斐をも感じるようになってきだした。そして、私の名前がみょうじなまえから澤村なまえに変わり、左の薬指に指輪が光るようになって3ヶ月が経とうとしている。
 時刻は16時25分。このペースだと今日は定時で上がれそうだと安堵し、後輩から渡された書類へと目線を落とした。



 大地との出会いは私がこの会社に入社して1年経った頃に初めて任された仕事を通じてだった。取引会社の担当として顔を合わせた大地は、社会に出て1年しか経っていない私に対しても決して驕ることなく、丁寧に接してくれた。しかも、仕事内容もこちらが口を出すようなことは1つもないと言って良いくらいに完璧で。
 私の初仕事が成功したのは大地のおかげだと言えた。何かお礼をせねば、と思った私が勇気を出して「ご飯食べに行きませんか?」と誘うと、大地は「喜んで」と笑って承諾してくれた。そして、「本当は俺から誘おうと思ってました」とも。

 仕事を抜きにして話す普段の大地も変わらずに良い人で、すごく楽しい時間を過ごすことが出来た。1回きりじゃ足りないと思った私が「また誘っても良いですか?」と聞くと、それにも大地は「もちろん」と笑ってくれた。そしてその言葉には「俺からも誘わせて下さい」と続いた。

 言葉通り誘い誘われ繰り返した2人きりの時間の中で、私は大地を好きになって、嬉しいことに大地も私を好きになってくれて。「付き合って下さい」と言われた言葉に今度は私が「もちろん、喜んで」と返す番だった。

 そうして歩んできた恋人という期間に終止符を打ったのは大地だった。付き合って5年の記念日に言われた「俺と結婚して下さい」という言葉によって。
 その言葉に「よろしくお願いします」という言葉を返し、2人で夫婦という関係性へと変化させた。

 同棲をスタートさせたは良いものの、互いに繁忙期を迎えておりゆっくりと過ごすことは出来ていない。だからこそ、今日はなんとか定時で帰りたくて、必死に仕事をこなしていた。今日こそ早く帰ってご飯を作って家で出迎えてあげたい。大地が美味しそうに食べてくれるあの顔を早く見たい。



「澤村さん、1番に青葉社から連絡です」
「あ……はい」

 青葉社からの電話が入ったのは後輩の書類の手直しを終えて帰り支度を始めた頃だった。このタイミング……と思いはするものの、まだ仕事中ではある。沈んだ気持ちを持ち直し、「はい、澤村です」と電話に応じたのが16時50分。



 時刻は20時15分。本当ならば今頃家に帰って来た大地を自宅で出迎えているはずだった。しかし、現実はうまくいかないもので。ようやく会社を出て大地へと連絡を取る。

「もしもし。ごめん、大地。今仕事終わった」
「おう、お疲れ。俺もさっき終わった所」
「大地もお疲れ様。ごめんね、今日もご飯作れそうにない……。スーパー寄って急いで帰るね。……あれ、大地?」

 大地の返事が聞こえなくなったのを不思議に思い、その名前を呼んだ時。「なまえ」と耳元の電子音ではなく、後ろから聞こえる肉声で返事があった。咄嗟に振り向くと、そこに本物の大地が居て目を見開いた。

「えっ!? 大地?」
「なまえからライン貰ってただろ? これくらいの時間になりそうだって。俺もちょうどそれくらいに終わる予定だったから、たまには一緒に帰ろうと思って。待ってた」
「えっ、嘘。ごめん、待たせたんじゃない?」
「そんなに待ってないから平気。それよりさ、今日はどっか食べに行かねぇか?」
「良いの? 大地明日も早いんじゃなかった?」
「平気。なんか急に初めて2人で食べ行ったお店に行きたくなってさ。なまえが良かったら、そこに行かないか」
「うん! 行きたい!」
「おし。じゃあ決まりだな」

 行くか、と差し出された手を握って2人で暗くなった街道を歩き出す。

「洗濯物、帰ったら俺がするから」
「じゃあ私は今干してる分を畳むね」
「良いのか?」
「勿論。洗い物しなくて済むんだし。早いところ家事終わらせて、2人でゆっくり過ごそう?」
「ああ、そうだな」
「あ、そういえば今日取引先の人がね――……」
「まじで? そんなことがあったのか――……」

 いつもは足早に歩くこの道を今日はゆっくりと歩く。1歩1歩踏みしめるように。隣に大地が居るのなら、このままずっと家に着けなくっても良いんじゃないかなって思える。だから、今日はゆっくりと歩いて帰ろう。

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