君が野球を辞めると言った日

 一也が久しぶりに帰ってくる。その事を母親を経由して聞いた私はいつもの様におじさんの元へと向かう事にした。

「おじさん、一也帰ってくるんだって?」

 昔ほどの騒がしさは無くなってしまった御幸スチールの工場へと足を踏み入れて1人黙々と作業をしている白髪交じりの眼鏡をかけた男性に声をかける。その男性は私をちらりと見やって「……あぁ」と簡潔に答えると直ぐに目の前の作業へと戻って行く。

 その横顔を見ていると一也を思い出させるから、やっぱり親子なんだなぁなんて当たり前の事をしみじみと思う。

「そっか。年始に帰ってきたっきりだから……もう9ヶ月もこっちに帰って来てないのか」

 そうやって考えると年始に会った時のあの肌寒さまで思い返されて来て腕を少し摩って気を紛らわす。

「ねぇ、おじさん。一也って本当にプロ入りしないの?」

 一也の通う青道高校は野球の名門校で一也はそこでキャッチャーで4番、そしてキャプテンを任される程の高校野球の世界では結構名の通った選手だ。

「みたいだな」
「ふぅん…、」

 一也たちはずっと夏の甲子園出場を目指して来る日も来る日も白球を追いかけていた。甲子園が近づくと名門だから、それなりに取材も来てたしあの顔立ちだからイケメンキャッチャーなんて特集も組まれてたっけ。

 あの時のよそ行き用の営業スマイルは何とも言えない顔で、テレビを見て爆笑したなぁ。テレビの写真撮ってラインしたら怒られもしたんだった。
 でも、特集を組まれていたのはイケメンだからってだけじゃなくて、一也ほどの選手が今後プロでどう活躍していくのか、そういった期待が大きいからだ。私も、一也はこのままプロに入って、輝かしい人生を歩んでいくんだろうとテレビの前でほんの少しの寂しさをも感じていたのに。

 青道が甲子園出場を成宮くん率いる稲実に阻まれた後、高校野球を引退した一也のプロ入り表明を誰もが確実なものとしていた時。

 一也は「自分は今後野球から手を引こうと思っています」なんて事を言い出した。社会人野球に進むのでもなく、日本でプロ野球選手として活躍するのでもなく、引退。

 世間は怪我や故障を疑ったけど、一也はそれも否定した。理由を聞かれても「やりきったと思うからです」と曖昧に笑うだけ。

 絶対に嘘だと思った。一也ほどの実力のある選手が甲子園に行かないまま満足するなんて、考えにくかった。それ以上に一也が野球からを手を引くと言った事の方が信じられなかった。
 野球をしてる時が1番楽しそうな顔するクセに。普段見せない様な顔して笑うクセに。やりきったなんて、絶対に嘘だ。

 そう思うからこそ、一也に直接理由を聞きたくて、今日こっちに帰ってくるって事を聞いた時、一也の実家に足を運ぶことにした。

「おじさん。一也が帰ってくるまで待っておきたいから2階の台所借りていい? お母さんから煮物預かってきてるんだ。一也帰ってきたら一緒に食べよう?」
「ありがとな。好きに使って貰って構わない」
「ありがと! じゃあ私2階に居るね!」

 おじさんに断りを入れてカンカン、と階段を上がっていく。

 昔はこの階段で良く一也と2人で階段遊びしたなぁ。小さい時はもっと足をあげて必死に上ってたっけ。……塗装もこんなに剥がれてなかったなぁ。

 そんな事を思い出しながら2階に上がって台所で仕度を始め、お味噌汁も一緒に作っておくか、と鍋を火にかけた時だった。ガチャリとドアが開く音がしたので反射的にそちらを向くと前に見た時よりもちょっぴり逞しくなった一也の姿があった。

「……おかえり」
「おう、ただいま。来てたんだ」

 へらりと笑うその顔に何故だかムッとしてしまうけど、顔には出さずにそのままお味噌汁の下準備を始める。

「えっ、もしかして味噌汁作ってる? うわ、俺材料買ってきたわ」
「えっ、まじで? お母さんから煮物預かってるから一緒にと思って」
「いやそれにしてもピンポイントで味噌汁被らせるなよ〜」
「はぁ? 被せてきたのはそっちでしょ? もう作り始めてるし、一也はさっさと着替えな」

 一也は「ハーイ」なんて間延びのした返事を寄越し、袋から材料を取り出して、冷蔵庫に入れてから居間へと移動して行く。

 暫くは特に会話もないまま包丁の音と、鍋から聞こえるグツグツという音しか響かない空間が続いていたけど、服を着替えてテーブルの上を片付けだした一也に聞きたかった事を尋ねてみる。

「……ねぇ」
「ん〜?」
「何でプロ入りしないの」
「やりきったからだよ」

 テレビの中の一也と同じ答えが返ってきた。その返事に今度は隠さずにムスッとした表情を浮かべる。

「うっわ、なんだよその顔」
「うるさい、昔からこんな顔なんです。あんたと違って」
「なに怒ってんだよ〜」

 にしし、と笑いかけてくる一也をじっと睨む様に見つめ返しても一也は少し困った顔をするだけでにこやかな顔は崩さない。

「野球、好きじゃん。辞めるなんて有り得ないじゃん。あんたから野球を取ったら眼鏡しか残らないじゃん」
「おいそれ暴言な」
「じゃあ一也、野球嫌いになったの?」
「いいや、好きだよ」
「じゃあその大好きな野球を辞めて何するの」
「んー何だろうな。とりあえずはこっち戻って来てここ手伝いながら野球以外の事に目を向けるのもアリかなって思ってさ」

 そう言って目を伏せて食器を並べる一也の顔からは何も読み取れない。

「野球以外の事ねぇ……。それなら大学進学とかでも良かったんじゃないの?」
「いやだって俺もう勉強したくねーし」
「なにそれ」
「良いじゃん、俺が居た方がなまえも嬉しいだろ?」
「はっ、嬉しくないし!」
「あっ、それはやりのツンデレってやつだろ? 最近知った!」
「おそっ!!」
「まじで??」

 意味の無い会話を繰り広げつつ食卓に2人でご飯を並べていると階段からカンカン、という音が聞こえて来た。

「おじさん丁度仕事終わったみたい。食べよっか」
「そうだな……。やべー俺超腹減った! おばさんの煮物久々! 楽しみ!!」
「私が作った味噌汁にも触れなさいよ」
「……うぅ〜ん」
「何よその返事は」

 そんな会話をしながらおじさんを迎え入れて3人で食卓を囲む。なんだかその雰囲気が凄く懐かしくて、暖かくて、一也が野球を辞めるって言い出した事が引っ掛かってはいるんだけど、それでもこの久々の雰囲気に私の頬は人知れず緩んでいった。



「ご馳走様! やっぱおばさんの煮物最高! なまえも味噌汁の腕は上げたな〜」
「味噌汁の腕はって何よ、他の料理はまだまだって言いたい訳?」
「おっ、察しも良くなってんな」
「ムカツク! 他の料理食べてから言いなさいよね!」

 流し台でお皿を洗いながら食卓でお茶を啜る一也とおじさんと会話を交わしているとそれまで殆ど言葉を発しなかったおじさんが「一也」と静かに一也の名前を呼ぶ。

「ん、何?」
「お前、本当は野球続けたいんだろう」
「……いや、そんな事ないよ」

 一也の返事が少し詰まるのが分かった。

「プロの世界で自分を試したいんじゃないか」
「いや、だから、ほんと。皆にも言ってるけど、もういんだって。俺さ、野球以外の事も知っておきたいと思ったんだよ。だから、高校卒業したら暫くはこっちに戻って来て親父の仕事手伝わせてくれよ」
「お前がプロへ行かないと言い出したのはここが心配だからなんじゃないか?」
「……っ、」

 一也は今度こそ黙ってしまう。おじさんの言葉は私の頭にも浮かんだ事だった。だけど、一也はそんな素振りもそんな事を匂わす事もしないから、触れたくても中々触れられなかった。

「家庭環境上、お前には家事を手伝って貰う事もあったし、友達と遊びたくても遊べないなんて事も沢山あっただろう。我慢させる事もあっただろうし、辛い思いをさせた事もあっただろう。それでも、お前は野球をしている時はいつも楽しそうに笑っていた。俺はそんなお前の姿を見ていつも救われていたんだ。お前が楽しそうに笑って野球の話をしているのを見てると自分の息子が立派に成長していくのが伝わってきてな。俺は野球に詳しくないから、アドバイスなんて事はしてやれなかったけどそれでもお前の話を聞くのが、俺の楽しみでもあったんだ」

 おじさんが自分の気持ちをこうやって口に出す事なんて滅多に無い事だ。その事に私は驚きつつも、食器を洗う手は止めずに、振り返る事もせず、ただじっとおじさんの言葉に耳を傾けた。

「お前が青道に行きたいと言った時、俺は凄く嬉しかったんだ。息子が大好きな野球に打ち込める環境で過ごす事が出来るというんだ。親としてこれ以上に嬉しい事は無いだろう。一也。親というものは子供の幸せを1番に願う生き物なんだ。だから、ここの事を気にして野球から離れるというのなら、俺はここに戻って来る事を許さない。たった1度しかない人生で、もっと高みを目指す事の出来るチャンスが目の前にあるんだ。やりたい事をとことんやりなさい。それが俺の幸せでもあり、願いでもある」

 おじさんの言葉に目の前の食器たちが滲んでいくのが分かった。自分の頬を暖かい雫が伝い落ちていくのが分かった。そしてその言葉は私がずっと一也に伝えたかった気持ちでもあった。

「……でも、俺が後継がねぇとここ、潰れちまうだろ?」
「いいんだ。いずれその時が来るという事はもうだいぶ前から覚悟している」
「でも、それじゃ……、」
「だから、そうやって心配するな。覚悟をしているという事はそれだけ蓄えも自分で出来ているという事だ。暫くはどうにか出来る」
「……俺が青道に行った事で親父に随分迷惑をかけたんだ……。だから、少しでも恩返しがしたいって……」
「迷惑をかけられた覚えも無いし、恩返しなんて必要ない位にお前は小さい時から助けて貰っていたよ」
「でも親父だっていい年だろ? ゆくゆくの事を考えても俺がこっちに戻って来た方が良いに決まってる」

 一也もそれなりに考えて、悩んで決めた事だ。おじさんにそう言われても踏ん切りが付かないんだろうな……。

 ならば、その背中を私が押してあげたい。私だって野球をしている一也が好きだから。

「一也、おじさんの事なら私に任せてよ。これからも料理作りに来るし、なんなら仕事だって事務的な事は手伝えるんだから。私にとっておじさんはもう一人のお父さんみたいな存在なんだから」
「……っ、」
「皆、分かってるんだよ。一也が野球が大好きでもっともっと続けたいって思ってる事も、本当はプロの世界で自分がどこまで通用するか試してみたいって思ってる事も。伝わって来るんだもん。テレビを見てたって画面越しから伝わるんだから。あんたどんだけ楽しそうに野球すんのって何回も思ったんだから。……私もさ、一也が野球を楽しそうにする姿、まだ沢山見続けたいんだよ。だから、行ってきなよ。ここから皆で見届けてあげるから。自分がどこまで行けるのか。試してきなよ」

 一也は顔を伏せていて、眼鏡の奥にある瞳は見えない。だけど、その頬に一筋の涙が伝うのが見えた。

「……いいのかな。……俺、野球やってる時、本当に楽しくて。こんな楽しい場所、誰にも譲りたくねぇって思って。青道に居た3年間は毎日が楽しくて。決勝で稲実に負けた時、本当は……、本当はもっと続けたいって思った。でも、俺、こんなに我が儘言っていいのかって思って……。だって、俺、幸せ過ぎて……。迷ったよ。迷って悩んで、野球は辞めるって決めたのに。……それなのに、親父もお前も何なんだよ……続けていいなんて……俺を甘やかし過ぎだろ」

 段々と一也の声が搾り出すようなか細い震える声に変わっていって、その震える声が私の涙腺を刺激する。

「……頑張ってきなよ、一也。応援してるから。活躍しだしたら、ちゃんとインタビューで言うんだよ? 素敵な幼馴染のおかげでここまで来る事が出来ましたって」

 涙を拭いて笑って見せると吹き出しながら顔を上げて一也も笑う。

「なんだそれ、絶対言わねぇ」
「はぁ? あんたそこは“おう”とか素直に言いなさいよね!」
「思ってない事は言えませんから? 皆さんの前で嘘は吐けませんから?」
「泣いて損した……」
「えっ、泣いてくれたの? 俺の為に? 可愛い所あるんだ」
「おじさん、コイツ締め出していい?」
「ここ俺の家なんだけど?」
「構わない」
「えっ、お、親父っ?」
「ほらー、早く青道に帰れば?」
「嘘だろ、俺帰ってきたばっかなんだけど」
「もう感動の再会済んだでしょ、もう充分なんだけど。早く帰ってプロの道に進みますって言って来な」
「いやせめて1日位はゆっくりさせてくれよ。何で唐突に辛辣になんだよ」

 口をすぼめて拗ねる一也にひとしきり笑って、またそれに一也が拗ねて、また笑って、笑い合って。

 逞しくなったと感じていた一也がまた昔みたいに可愛く笑う一也に戻ったみたいで、なんだかとても嬉しかった。

「俺、もうちょっと頑張ってみるわ」
「うん! あ、それと! こっち帰ってくる時はちゃんと教えてね。今日みたいに親伝いなんて嫌だから」
「いやだって1人に連絡したらまわるかなって……」
「そういう所は面倒臭がっちゃ駄目! メールでささっと送るだけでしょ!?」
「……はい」
「分かればよろしい」
「お前に逆らったら殺されるしな」
「まーたそういう事言う!! もぉ〜!! あんたって本当変わらないんだから!」

 どうしてもしんみりと終わる事が出来ない私達だけど、この雰囲気が私は大好きだから、これで良い。

「……頑張ってね、一也。ずっと応援し続けるから」
「おう!……2人共、ありがとう」

 一也がずっとずっと野球を続けれる様に、私も応援するからね。頑張れ、一也。

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