幸せの最高地点

「仕事終わり会えるか?」

 市長として私の職場を訪れていたその人は、私を待ち伏せていたのか、廊下でかち合うなり耳打ちしてきた。そしてすぐに他人同士の距離へと戻ってゆく顔を見上げ、「分かった」と頷きを返す。短い逢瀬だったにも関わらず私たちの顔が穏やかなのは、お楽しみが出来たからだ。じゃ、と片手を上げるアイスバーグさんにこちらは会釈を返してその場をあとにする。アイスバーグさんとゆっくり過ごすのなんて、一体いつぶりだろう。



「お疲れ様です」
「ンマー、もうこんな時間か」
「私が来ちゃったけど、良かった?」
「あァ。逆に悪ィな。来させちまって」
「ううん、平気」
「とりあえず入ってくれ」

 アイスバーグさんの自宅でもあるガレーラカンパニー仮設本社に足を運び、アイスバーグさんの部屋をノックする。すぐに顔を覗かせたアイスバーグさんは頭を掻きながら部屋へと招き入れてくれるので、「お邪魔します」と言いながら敷居を跨ぐ。前と比べてシンプルな作りとなった自宅に置かれた製図台。部屋の照明は落とされそこのランプだけが付いていて、彼が明かりを点けるのも忘れて図面をひいていたのだと知る。忙しい身でありながら、その時間を割いてでも熱中する図面。その中にはこのウォーターセブンの未来が詰まっていて、未完成である今の状態ですら眺めているとワクワクが止まらなくなる。アイスバーグさんらしい几帳面な字や線を見つめ「凄いなあ」と呟けば部屋の電気を点けながらアイスバーグさんがふっと笑うのが分かった。

「夢物語で終わらせちまったらダメだからな」
「アイスバーグさんならドンとやれるよ」
「ンマー!! 俄然やる気が出た」

 2人して笑い合っていると、アイスバーグさんの肩に乗っていたティラノサウルスが私の肩に飛び乗り鼻をヒクヒクと動かす。その動作で持参した袋の存在を思い出し「夜ご飯、もう食べました?」と尋ねる。その問いには予想通り首を振られたのでやっぱりと思いながら容器を取り出す。来る前に自宅で作ってきたのだと言えば、アイスバーグさんはすぐに製図台の上を片付け始めた。

「ティラちゃんはほうれん草ね」

 チューと鳴くティラノサウルスをゆっくり地面へとおろし、お皿の上に持ってきていたほうれん草を置けば、ティラノサウルスとほうれん草だけの世界へと誘われていった。その様子を見てからテーブルに容器を置いていると「ダイニングテーブルも作らねェとだな」と食器棚を漁りながらアイスバーグさんがぼやく。確かに、この部屋にある円卓は応接程度の簡素なものなので、食事をするにはいささか勝手が悪いかもしれない。座る場所もソファだから、アイスバーグさんは特に食べることに適した姿勢を取れないだろう。キッチンワゴンの上にはその場で食事を済ましたのか、昼食時に食べたと思われる空の食器が置かれている。自分のことはおざなりにするのは彼の悪い所だ。そうなる程にこの町を想っている所は誇らしいけれども。

「サンジさんにレシピ聞いておいて良かった」
「ん?」
「ココロさんのカレーと並ぶくらいの自信作、作って来たんです」
「ンマー! それは楽しみだ」
「食べましょう」

 2人してソファに向かい合って座り手を合わせる。アイスバーグさんは大きな口を開けて次から次へと箸を口に運び、あっという間に器を空にしてみせた。市長として働く時の彼は食事の場でもマナー良く食事をしている。だけど今みたいにバクバクと食べる姿も彼らしくて大好きだ。トップとしてみんなを引っ張るアイスバーグさんも、童心にかえっているアイスバーグさんも。どちらも愛おしい。そんな存在をニコニコと見つめていると、ぱちっと絡んだ視線をアイスバーグさんは気まずそうに逸らしてみせた。

「なまえには世話ばっかりかけて……すまねェなァ」
「んーん。甘えられるの、私嬉しいよ。だってアイスバーグさんが甘えるのは彼女である私だけでしょ?」
「ンマー、そうだな」
「私の特権だよ。嬉しい」
「おれには勿体ねェくらい良い女だな、なまえは」
「ふふっ。アイスバーグさんにしか似合わない女かもね」
「ンマー! そうかもな」

 食前と同じように2人で手を合わせ、器を流し台に運ぶ。2人で食器を洗い、ある程度のところで後は大丈夫だからと告げ「まだ製図残ってるんでしょ? やってて」と背中を押せば、アイスバーグさんは「なまえには敵わねェ」と頭を掻く。アイスバーグさんはいつも私を持ち上げてくれるけど、それは言葉を言い換えれば甘やかしてくれているんだと思う。だってアイスバーグさんと一緒に過ごしていたら、いつだって“幸せになって良いのだ”と思わせてくれるから。だからやっぱり、私はアイスバーグさんにしか似合わない。アイスバーグさんじゃないとこの幸せな日々を味わうことが出来ないのだから。

「アイスバーグさん」
「ん?」
「コーヒーが良い? 紅茶? それとも緑茶?」
「ンマーそうだな。コーヒーを貰おうか」
「言うと思った」

 なんとなくそうかなと思ったリクエスト。予想が当たったことに笑みを浮かべ既に用意していたサーバーにドリッパーを乗せる。その状態でケトルのお湯が沸くのを待っていると、後ろからふわりと抱き締められた。肩口に当たる髭の感触を擽ったく思いつつ顔を横に向ければ、今度は頬にその感触が走る。アイスバーグさんの髭、伸びるの早いよなあ。お手入れ大変そう。離れて行った顔に生える髭をぼんやり見つめていると、すぐにさっきの感触が戻ってきた。……いつもだったら1回で離れるのに。今日は既に2回キスしたのに、未だにお腹にまわされた腕が離れることはない。珍しいなと思っているとなんと3度目のキスまで落ちてきた。

「アイスバーグさん?」
「足りねェ」
「え?」
「会えなかった分、なまえが足りねェ」

 首に宛がわれた唇。どうやらかなりお疲れの様子だ。漏れ出た声に溜息のような苦笑いが零れる。私との触れ合いが疲労回復になると本気で思っていることを嬉しいと思うような、照れ臭いような。そもそも、これだけ忙しいタイミングで“会いたい”と言ってきた時点で結構限界だったんじゃないか。じゃないと職務の時間にああやって声をかけるなんてことをアイスバーグさんがするはずがないのだ。労いをこめてアイスバーグさんの腕に手を添わせたあと、そっと自身の体からその手を離す。私だってアイスバーグさんに触れていたいけど、今は火を使っている最中だ。アイスバーグさんも駄々を捏ねることなく離れてくれたので、ご褒美の意味を込めて頬にキスを返す。そのせいで火を消した途端に再び後ろから抱き着かれてコーヒーを淹れるのにちょっぴり苦労したのは、私のせいではないはず。

「んまァー」
「美味しい? 良かった」
「最高だ」

 “うまい”と自身の口癖を掛け合わせたような声を上げるアイスバーグさんとソファに今度は隣り合って座る。それから他愛もない会話をし、カップの中身と充実感を反比例させ、コーヒーの終わりが見えた頃。カップをテーブルに置いたアイスバーグさんが、足を折り曲げソファに寝そべった。頭は私の膝の上。いつも以上のスキンスップに驚いているとアイスバーグさんの手が頬に触れてくる。甘えたな恋人を新鮮に思いつつお返しに頭を撫でてあげると、アイスバーグさんは心地良さそうに目を閉じ深く息を吐く。この町のボスは今、1人の女に手懐けられている。

「アイスバーグさん、ティラちゃんとお揃いだね」
「ん?」
「ティラちゃんも気持ち良さそうに寝てるよ」
「ンマー。そうか」

 目を閉じた状態で会話を続けるアイスバーグさん。このまま寝てしまうならそれが良い。今日くらいはゆっくりして欲しい。そんな思いで頭を撫で続けていると、アイスバーグさんの体が半回転して私の体を向く。そのまま腕を腰にまわされ思わず頭から手を離してしまった。この年上彼氏、可愛くてしょうがない。ピッチリ整えられた髪型を崩すように触れても抵抗を見せない姿は、まるで動物が自身のお腹を見せているみたいだ。完全に心を開いてもらっているのが分かってつい頬が緩む。

「今日は泊ってくだろ」
「うん、そのつもり」
「なァ、なまえ」
「ん?」

 結婚してくれねェか。
 緩んでいた頬が一気に固まるのが分かった。再び止まった手の動きを感じ取ったのか、アイスバーグさんがむくりと起き上がる。そうして私の手を一回り大きな手で捕まえ、優しく撫でるアイスバーグさんはもう1度目を見て「結婚して欲しい」と告げてみせる。その選択を選ぶ時は、相手はアイスバーグさんじゃないと嫌だと思っているし、そうなると思ってはいた。だけど、それは彼がやろうとしていることが片付いたら訪れるのだろうと思っていた。まさかこんなに早くそれを口にされるとは思ってもみなくて、2度目のプロポーズにさえうまく言葉を返すことが出来ない。

「おれも一応身分がある立場だ。そんな相手の伴侶になることは、そう易々と決められることじゃねェってことも分かってる。だから返事は急がねェ。ゆっくり考えて欲しい」
「答えはね、もう決まってるの。……でも、良いの? 私は、アイスバーグさんの“やりたいこと”を応援したい。そのことに集中して欲しいとも思ってる」

 邪魔になりたくはない――。その気持ちを汲み取ったアイスバーグさんはふるふると首を振り、「優先順位を付けたいわけじゃねェが、おれにとってなまえはこの町と同じくらい大事な存在だ」と想いを口にしてみせる。烏滸がましいことかもしれないけれど、正直それはアイスバーグさんと接していたら本当にそうなんだろうなと実感することが出来る。だからこそ、私は素直に頷くことが出来ない。

「だからこそだよ。アイスバーグさんの気持ちは充分伝わってる。だから、私は順番にこだわらない」
「本当に優しいな、なまえは」
「アイスバーグさんには負けます」

 握られた手に力をこめ、アイスバーグさんの手を握り返す。そうすれば、アイスバーグさんの指は私の指を擦ってみせる。こういう行為1つからでもアイスバーグさんの想いを感じ取ることが出来て、今でも充分幸せだと思う。もちろん、アイスバーグさんからのプロポーズはものすごく嬉しいし、頷きたい気持ちで溢れかえっている。

「おれの知っているバカな男が、ようやく自分のやりてェことを始めたんだ」
「……良い船出でしたね」
「自分の夢の為に生きだしたアイツを見たら、おれもそう在りたくなった」

 その為の第一歩を、私と共に踏み出そうとしてくれている。そうしたいと願ってくれている。それがアイスバーグさんの夢なのだ。それが分かったらもう、私に首を振る理由なんてどこにも見当たらない。

「私の帰る家、ここにしても良いですか?」
「あァ。ただ、なまえが結婚してくれんのなら、すぐにでもこの町1番のデッケェ家を建てるつもりだ」
「掃除が大変そうだなあ」
「ンマー!! そんなの、一緒にやりゃァ良い」
「私と結婚したら、幸せになってくれますか?」
「この町、いや世界で1番幸せな男になるさ」
「じゃあ、世界で1番幸せな男女になりますね」

 私と結婚してください。
 そう言って笑ってみせれば、私たちは間違いなくその瞬間、世界で1番幸せな場所に居るのだと思えた。

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