幸せを頬張る

 新郎新婦の“新婦”の場所にみょうじなまえの文字が刻まれた招待状を目の当たりにした時、私は何かの間違いではないのかとひどく動揺した。そうだ、見間違えだと思い瞬きも忘れてじっとカードを見つめてみても、カードの文字が変化する様子はない。カードの発行元はトットランド。その証拠に、新郎側に書かれた人名には“シャーロット”という文字が付いている。その後に続く名前を見てみても、相手のは顔は全く思い浮かばない。片田舎でひっそりと暮らす私に海賊との接点があるはずもないのだ。それなのにどうしてこんな話が突然身に降りかかったのか。
 何かがおかしいと思いはするものの、悲しいことにこの結婚話を持ちかけて来たのはあのビック・マムだ。万が一この話を断ろうとしたならば、私は対価として自分の命を差し出さないといけなくなるだろう。ビック・マムにはそれが出来るのだと風の噂で聞いたことがある。そんな相手から持ちかけられたこの結婚話は、このカードが届いた時点で決定したも同然のもの。

「なまえ……。私らと一緒に逃げよう」
「無理だよお母さん。どこに行こうとビック・マムから逃げることなんて、絶対に出来ない」
「でもこんな話……こんなの……あんまりじゃないか」
「プテラノドンのお世話が出来なくなっちゃうのは、心残りだけど」

 道端で弱っている姿を見つけ保護したネズミのプテラノドン。この子を置いていかないといけないのが残念だけど、トットランドはお菓子の国だ。無理に連れて行って害獣と判断されでもしたら嫌だ。飼い主が自分を見つめる視線がいつもと違うことを察知したのか、プテラノドンがちゅう、と鳴きながら指に近付いてくる。その様子を微笑ましく思いながら「じゃあね」と別れを告げそっと指を離す。

「嫁ぐからには幸せになるよ」
「なまえ」
「今までお世話になりました」

 母親に向けた笑みが固いことなど、自分でも分かっている。だけどいつまでも私が“行きたくない”とここにしがみついても結果なんて変わりっこないし、被害者が“私だけ”から“私の家族まで”に増えるだけだ。それならば早く嫁いでしまった方が良い。そうどうにか割り切り、「今生の別れじゃないはずだから」と母親と自分自身に言い聞かせ、私はトットランドへと旅立った。



「はァ? 誰だコイツ」
「ママママ! どうやら間違えたようだねえ」

 出迎えた男性と“ビック・マム”という名に相応しい巨大な女性は、私を見るなりガッカリした表情を浮かべてみせた。届いた時に私自身も思ったけれど、やはりこの結婚は何かの間違いであったらしい。事実が判明し、心の中に一縷の希望が湧く。もしかしたらこのまま結婚話はなくなるかもしれない。私のようなただの人間なんてシャーロット家には要らないと、そう言われるかもしれない。そうなったら私はまたあの平穏な日々に戻れる――。そんな願いを、ビック・マムは退屈そうな表情で放った「じゃァ消えてもらおうか」という言葉で打ち砕いてみせた。

「そんな……私は手違いでここに来ただけで、」
「うるせー! 間違われる方が悪いんだよ!! 生意気だなァお前! えェ!?」

 これが海賊。これが四皇。
 理不尽な叱責を全身に浴び、体が言うことを聞かなくなってしまった。何をどう言えば良いか、どう反応すれば良いか。1つでも間違えれば次の瞬間に私の命はない。直感で感じ取った危機を前にギュッと引き結ばれる唇。唐突に立たされた細い命綱の上で、私はただ怯えることしか出来ない。小刻みに震える私を見つめたビック・マムは事もなげに「“slave”オア“life”!?」と問いかけてくる。奴隷か、寿命か――。どちらをとっても待っているものは“死”だ。トットランドに出向く前に“今生の別れじゃない”って言ったけど、どうやらあれは嘘になってしまうらしい。スレイブを選んだところで緩やかに死んでいくだけなら、いっそのこと今ここで死のう。それが置かれている状況の中で1番幸せな選択だ。

「ラ「スレイブだ」……え?」

 私の選択を掻き消すように響いた声。その出どころを辿るように顔を上げると、アイスティーを手にした大柄な男性がビック・マムと私の間に立ちはだかった。その男性は私ではなくビック・マムの方を向いたまま「この女をおれの島に置いて良いか」と問いかける。……何がどうなっているのか。そもそもこの人は一体誰だ? 口元を隠すようにファーが巻かれているせいで顔もよく見えない。というかこの状況でよくビック・マムの前に出てこれたな。私なんて自身が置かれている状況にただ固まることしか出来ないというのに。

「なんだいカタクリ。一体どういう風の吹き回しだよ」
「おれの島の住人が最近減っていてな。要は補充がしたい」
「ママハハハ! そうかい、補充かい。良いねェ。お前の好きにしな!」

 やはりここに私の人生はない。人のことを“補充”だなんて言ってのけるカタクリというこの男も、それを笑い面白いと受け入れてみせるビック・マムも。何もかもが私の感覚とは違い過ぎて眩暈がする。こんなことになるならあの時「ライフ」と言い切ってしまいたかった。どうして突然現れたカタクリという大男は私の運命を変えたのか。とても良い迷惑だ。

「おい! お前ら! 本当の花嫁を今すぐここにつれて来な!」
「……なまえと言ったな。おれについて来い」
「は、はい」

 恨みつらみは募るものの。それを簡単に出せる相手なんかじゃないことは私でも分かる。本来ここに招待されるはずだった花嫁探しにおおわらわになる会場で、カタクリが私を見下ろし告げてきた言葉。心の底では“余計なことを”と思いはするけれど、それを口にする勇気は見当たらない。……私は、やっぱりまだ死にたくなんてないのだ。私の身分は“奴隷”で、仕える相手がビック・マムからこの男になっただけの話だというのに。それでもこの男を刺激しないように注意を払おうとする自身の心の弱さが情けない。

「痛っ! ……わっ、ご、す、すみませんっ!!」

 顔を俯かせ歩いていると、体に柔らかい衝撃が走った。それが人の手のひらであると理解した瞬間、慌てて謝罪を口にし「お怪我はないでしょうか?」という伺いまで立てていた。無意識に出るご機嫌伺いの言葉に内心うんざりしていると、カタクリはそれには答えず大きな指で私を摘み上げ自身の肩に乗せてみせた。

「カタクリ、さん……?」
「なまえの歩みはまどろっこしい」
「すみません……歩くのが遅くて」
「いや。そもそもおれとなまえとでは体格が違う。歩幅が違うのは当然だ」

 驚いた。人のことを人とも思ってないような発言を放ったばかりの人間とは思えない。補充、そして奴隷。私のことをそんな風にしか思ってない人がどうして私を肩に乗せてくれるのだろうか。何故「今日のことは災難だったな」なんて言ってくるのだろうか。……この人は一体何者なんだろう。

「あのカタクリ、さん」
「なんだ」
「私のことを奴隷だ、補充要員だと思うのならば、なるべく早く殺してください」
「……理由は」
「その方が早く幸せになれるから」

 意を決して告げた願い。それを聞いたカタクリさんは、静かにふっと笑う。バカにされたのかと思いカッと体に帯びた熱は「やはりなまえは強い女だ」という言葉によって冷まされた。

「あの時は場を収める為にああ言ったが。おれはなまえを奴隷にするつもりはないし、補充要員だとも思っていない」
「……じゃあどうして私なんか」
「あの場で言おうとした“死”には、覚悟が宿っていた。あの一瞬でそれを決断出来る人間はそういない。そこが気に入った」
「気に入った……」
「だから安心しろ。おれはなまえを自身の島に歴とした住人として歓迎する」

 ということは、この人は私を救う為に行動を起こしてくれたのだ。そう理解した瞬間、自分の中に張り詰めていた緊張が抜け落ち力が抜けてゆく。思わずしがみついた相手はその行為に不快さを出すどころか、「見えた通りになったな」とおかしそうに微笑んでみせる。……トットランドに招かれこうなった以上、私が住んでいた場所に戻ることはもう出来ないと思う。だけど、“今生の別れ”はどうやらまだ先のことになったようだ。それは他でもない、今隣に居るカタクリさんのおかげ。

「ありがとうございます、カタクリさん」
「構わん。おれの島では過ごしたいように過ごすと良い」
「これから、よろしくお願いします」

 ファーに口元を押し当てたせいでなんと言ったかがよく分からなかったけれど、私の聞き間違いでなければカタクリさんは「こちらこそ」と返してくれたと思う。カタクリさんの右耳が赤くなっているのを見る限り、どうやら彼は照れているようだ。私の3倍はあろうかという大男なのに、カタクリさんは結構可愛い人なのかもしれない。……私の結婚相手、どうせならカタクリさんが良かったな。そんな考えが浮かび慌ててそれを打ち消す。助けてもらった上にこんなことを考えるなんて、我ながらどんだけ厚かましいんだ。

「どうした?」
「な、なんでもないです」



 ビック・マムはもはや私の存在など忘れているのか、コムギ島に来てからはなんの音沙汰もない。奴隷だの補充要員だのと言われていた私だったけれど、実際はカタクリさんの手配できちんとした住まいを与えられ以前と変わらぬ生活を送ることが出来ている。無事母親にも“元気にしている”という便りを送ることも出来たし、もう少し落ち着いたら里帰りだって出来るはずだ。その為にはカタクリさんの許可が必要らしいけど、カタクリさんならきっと許してくれるはず。

「プテラにも会いたいなあ」
「“プテラ”とは一体誰だ」
「わっカタクリさん!」

 プテラノドンは元気かなと物思いに耽っていると、窓の外からカタクリさんの顔が現れた。2階建ての家を与えられた時はビックリしたけど、こうして頻繁に顔を覗かせてくれるカタクリさんを見ているとその理由が分かる。カタクリさんの身長的に私と話すには2階建てがちょうど良いようだ。それにしても頻繁に会いに来てくれるので、なんだか申し訳ない気もするけれど。この島にカタクリさん以上に親しい人もまだ出来ていないので、正直話し相手になってくれるのはありがたい。今度茶菓子でも用意しておこうかな。カタクリさんはどうも甘党のようだから、ドーナツでも焼いてみようか。以前ファーにお菓子の食べカスが付いていると言ったら、耳をボッと赤くして「糖分こそ力の源だ」と宣言されたのを思い出す。お世話になっている相手だし、恩返しになると良いなあ。

「質問に答えろ。プテラとはどういう男だ」
「どういう……。んー、可愛いですね」
「かわいい…… なまえは可愛い男が好みなのか」
「まあそうですね。癒されます」
「5メートル超えの時点で可愛いとは無縁だな……」
「えっそうですか?」
「ん?」

 こてん、と首を傾げるとカタクリさんも同じように首を傾げてみせる。……ふふっ。やっぱり5メートル超えでも可愛いものは可愛い。それでいうとカタクリさんも“私の好み”になるのか……? いやいやいや。そんなことを考えるのなんて、烏滸がましいにも程がある。

「というかそもそもネズミと一緒にするなんて、失礼ですよね。すみません」
「ネズミ??」
「ふふっ。プテラは私が飼ってるペットのネズミの名前なんです。プテラノドン。可愛いんですよ」
「ペットのネズミに付ける名前が“プテラノドン”なのか」
「はい。どうせならおっきい名前を付けてあげようと思いまして」
「ふっ。そうか。やはりなまえの考え方は良いな」
「そ、そうですかね?」
「そろそろ持ち場に戻る。次は何か手土産でも持ってこよう」
「あ、ありがとうございます! お気を付けて!」

 カタクリさん、毎日忙しいはずなのに本当に私のことをこの島の住人として大切にしてくれている。カタクリさんの気遣いに触れて温かい気持ちになっていると、「ムキィ〜ッ!」という声が部屋の中に響いた。突然の叫び声に驚き室内に視線を這わせると、鏡の中から鷲鼻の女性がこちらを睨んでいた。

「ギャ〜ッ!?!?」
「ちょっと!! お黙り!! お兄ちゃんが戻って来ちゃうじゃない!」
「お、おにいちゃん?」

 鷲鼻の女性が鏡から飛び出してきたかと思ったら、口に手を当て叫び声を封じられた。そのあと窓の外の様子を窺い、カタクリさんが戻って来ないのを確認し「へェ、アンタがなまえって言うのかい。ムカつくくらい綺麗な顔してるね」と忌々しそうな言葉と共に私を見下ろす。お兄ちゃんとは、カタクリさんのことか。シャーロット家は大家族で、カタクリさんはその中で次男にあたる。それこそがカタクリさんの面倒見の良さたる由縁なのだろう。聞くところによるとカタクリファンクラブなるものも結成されているらしい。……私も入りたい。

「あ、あの」
「ふうん? アレだね、アンタ。普通の小娘だね」
「えっと……?」

 手を離し距離をとった相手は、私のことを下から上まで見つめどこか安心したように、ともすればがっかりしたような溜息を吐く。突然現れ品定めされガッカリされて。一体何事だと困惑し続ける私に「カタクリお兄ちゃんが騙されてるかと思ったけど、どうやら違うようだね」と言葉を続ける鷲鼻の女性。騙すも何も。騙せる程の魅力も能力も私にはない。それが確認出来たのか鷲鼻の女性はどかっとソファに腰掛け「じゃあなんで毎日毎日この女の家に顔を出すのかねェ」となおも独り言をぶつぶつと呟いている。……カタクリさんのこと、本当に大好きなんだなあ。もし叶うのならば、私はこの人と仲良くなりたい。

「あの、お茶でもどうですか?」
「あとドーナツもね」
「お好きなんですか? ドーナツ」
「あァ。大好きさ。私も、お兄ちゃんも」
「あっじゃあこの前付いてたのはドーナツかな」

 ブリュレと名乗った女性と共にキッチンで作業をしながら会話を弾ませる。いつの間にかカタクリさんの話題で盛り上がり、気が付けば私たちは“ブリュレさん”“ なまえ”と呼び合うようになっていた。完全なる意気投合である。初めは私が能力を使ってカタクリさんを騙し、ハクリキタウンに潜入したのではないかと怪しんでいたブリュレさんも、私にそんな能力も野心もないことを認め信じてくれた。トットランドで出来た2人目の友達。カタクリさんを友達と言って良いかはアレだけど。

「お兄ちゃんはね、本当にすごいんだよ。“超人”なんだ。生まれてこの方、1度も地面に背をつけたことがないんだからね」
「えっ? でもそれって……さすがに無理なんじゃ?」
「ウィッウィッ! “無理”なんてないのさ。お兄ちゃんはいつだって完璧。シャーロット家の最高傑作なんだから」
「……それは、すごいですね」

 ブリュレさんの言葉に圧倒されていると、ブリュレさんの表情がふと暗くなる。今まで誇らしげにカタクリさんの話をしていたのに一体どうしたのかと不思議に思うと「でも知ってるんだよ、私だって」と瞳を潤ませるブリュレさん。

「そうする為に想像も出来ないくらいの努力をしてるって。私はちゃんと知ってるのさ」
「ブリュレさん、」
「だけどお兄ちゃんがそうするのは私たちの為だってことも分かってるから。だから、私はお兄ちゃんの“超人”ぶりを信じるのさ」
「……素敵な関係ですね」

 ふふっと笑うと、ブリュレさんも耳を赤くしつつ緩やかに微笑む。照れた表情がカタクリさんに似ていて、2人は本当に家族なのだと思う。……相手は海賊だし、四皇ビック・マムを母に持つ人たちだけど。こういう関係性は羨ましいと思うし、ちょっとだけ私もその中に入ってみたいだなんて、そんなことを思ってしまった。



「なまえってアンタかい?」
「はい、そうですが……」
「アンタに恨みはないが、仕事なんでね」
「えっ? ――ッ!」






「なまえ……! その怪我、どうした……!?」
「あ、カタクリさん。おはようございます。昨日、ちょっと転んじゃって」
「何故切り傷が頬につく」
「えっと……ほ、包丁? 包丁を手に持ってたのでそれであの、こう頬にグサッと」
「……本当のことを言え」

 グッと噤む唇。……本当のこと言ったら、カタクリさんが悲しむ。そんなこと、絶対に嫌だ。幸い唐突に家を訪ねてきた相手は私の頬に切り傷をつけるだけであとは何もしてこなかったし、こんな傷が付いたところでなんてことはない。結婚を拒否されこの島に住むことになった時点で新しい出会いなんてこの先一生ないかもしれないし。別に傷が残ったところで。……別に。

「ブリュレ。そこに居るのか」
「お兄ちゃん……私、見たんだ」
「や、やめてブリュレさん! 言わないで!」
「私、なまえの気持ち分かるよ。だから黙ってようかとも思った。でもさ、私の友達が私と同じことされた今なら、お兄ちゃんの気持ちも分かるんだ」
「ブリュレさん……」

 鏡から姿を現したブリュレさんが私たちのもとへと歩み寄る。そうして私の頬にそっと手を当て「痛かっただろう?」と悲しそうな表情で問うてくる。「急に襲われて、怖かったねェ」と続けられ、思わず漏れ出る嗚咽を手で隠す。
 言いたくなかった。カタクリファンクラブの女性が金で人を雇って私を襲っただなんて。言ってしまったらカタクリさんは自身の行いを悔いるかもしれない。私の為を想ってしてくれた善意を責めるかもしれない。そんなことはして欲しくなかった。……何より。カタクリさんがもうここに来てくれなくなる可能性が怖かった。例え顔に傷を付けられたとしても、カタクリさんとの時間を手放したくなかった。

「ブリュレ、なまえを頼む」
「分かったわお兄ちゃん」
「カタクリさん……、」
「すぐに戻る」

 家で待っていろ――カタクリさんはそう言って巨体を揺らしどこかへと姿を消した。カタクリさんとすれ違う人が一様に意識を失ってゆく異常な光景に驚いていると「お兄ちゃんが怒るのも無理ないわ」とブリュレさんも息巻く。私のせいで騒ぎに巻き込んでしまったことを謝るとブリュレさんはむっとした表情で私の額を軽く小突く。

「お兄ちゃんは完璧な男だよ。だからなまえが心配することなんて何1つないのさ。だから、戻って来た時はちゃんと迎え入れてやるんだよ。良いね?」
「……ありがとうございます」

 ブリュレさんに傷の手当てをしてもらったら、張り詰めていたものが切れたのか気が付けば私は深い眠りに落ちていた。……この傷、残ったらカタクリさんが悲しむかな。傷が残ってしまうことよりもそっちの方が嫌だな。



「カタクリさん……?」
「起きたか。具合はどうだ」

 ブリュレさんが寝かせてくれたのか、私の体は2階の寝室にあるベッドに横たわっていた。ベッドから体を起こし意識を覚醒させたら、窓の外にカタクリさんが立っているのに気が付いた。空が真っ暗なのを見る限り、どうやらだいぶ寝こんでいたらしい。カタクリさんは一体いつからここに居るんだろうか。……もしかして見張りをしてくれてたのかな。

「あの、」
「ん?」
「ごめんなさ…………おかえりなさい」
「……あァ。ただいま」

 本当は謝りたい。だけど、その言葉を口にしたらカタクリさんはきっと悲しむと思うから。ぐっと堪えて代わりに出した言葉に、カタクリさんはどこか安心した様子で返事をしてくれた。私はこの人に、本当に大事にされているんだなあ。感謝だけじゃない色んな感情を乗せてカタクリさんを見つめたら、カタクリさんも同じように見つめ返してくれる。そしてその瞳を私の頬へと向け、そっと人差し指を当ててみせるカタクリさん。

「傷跡、残らねェと良いが」
「“奴隷”か“寿命”か選ばされるよりずっとマシです」
「……すまなかった」
「カタクリさんが謝らないでください。私、カタクリさんには感謝してるんです。……だから、あの……お願いがあります」
「なんだ?」
「カタクリさんはどうか、このままでいてくれませんか?」
「このまま、とは」
「明日からも私に会いに来てくれたら嬉しい、です」

 今日のことを悔いるのではなく、自分自身を責めることなく。明日からもカタクリさんと一緒に過ごしたい。本当に烏滸がましい願いだけど、私は、カタクリさんのことがどうしようもなく好きだから。どんなことがあってもカタクリさんと過ごす時間を失いたくはない。

「なまえ、こちらに来い」
「え? はい」

 差し出される手のひら。そこに乗るとカタクリさんは反対の手でモチを使った社を作成してみせる。そうして2人だけの空間を作り上げるなり、カタクリさんは地面に寝転がってみせた。突然の行為に驚いていると、カタクリさんはファーを外し自身の口元を明かしてみせる。そこには大きな口とギザギザとした歯が並んでいて、思わずじっと見入ってしまう。

「なまえは、おれの真の姿を見て幻滅するか?」
「どうしてですか?」
「地面に背を付けたことなどない完璧な男、おれはそう言われている。そして実際そう演じている……演じているだけなんだ」
「だったら、余計素敵だと思います」
「……何?」
「みんなの期待を裏切らないように本当の自分を隠して生活する。そんなのを何十年と続けてきたんですよね? 私は、そういうカタクリさんのことを素敵だと思います」
「ではこの口のことはどう思う」
「大きな口だな、と」
「……それだけか?」
「……ドーナツたくさん頬張れそうで羨ましいな、とかですかね?」
「ふっ。やはりなまえは強い女だ。おれなど到底敵わん」

 カタクリさんが笑った顔、初めてちゃんと見たな。いつもみたいに窓越しじゃない分、より近くに居られるのも嬉しい。……それにしても、カタクリさんはどうして私に今の姿を見せてくれたんだろう? 不思議に思っている私に「なまえ」とカタクリさんが声をかける。そうして見つめ合った先で、カタクリさんは寝転がったまま「おれと結婚してくれないか」と告げてきた。

「これがおれの真の姿だ。この状態でおれはなまえに求婚している。それだけ、本気だ」

 じっと見つめる視線。それを数秒絡ませたのち、私もカタクリさんと同じように寝転がって「私なんてなんの特徴もないただの人間ですが、それでも良いんですか?」と問う。その言葉には少しムッとした表情で「なまえのどこが“ただの人間”なんだ」と言葉を返された。……今の顔、ブリュレさんに似てるな。

「カタクリさん」
「……なまえが尋ねようとしている質問は、良い質問だな」
「ふふっ。“life”オア“marriage”?」
「どちらも選ぼう。なんせおれは、好きなものは心ゆくまで頬張りたい質だからな」
「良いですよ。じゃあ、どっちもあげます」

 だから私も、カタクリさんと味わう幸せを大口を開けて頬張っても良いですか。

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