夜に出会った太陽

 積み重ねてきた毎日が、時々鉛のように感じて辛くなる。そういうメンタルの時はちょっとした棘すら受け流すことが出来なくて、余計にしんどくなる。取引先との商談がスムーズに行かなかったとか、不機嫌な人との会話とか。普段なら“そういうこともあるよね”で流せることさえ私の心に鉛としてのしかかる。今日は、そういう日だった。

「あの〜……」

 頭上から降ってくる声。ナンパだろうか。だとしたらまた1つ鉛が加わってしまう。……いや、暗がりの公園でベンチに座って頭を抱えている女にわざわざナンパなんてしないだろう。顔を上げたらきっと紺色の制服に身を包んだ人が居るに違いない。

「大丈夫、ですか?」
「……あ」

 その人は制服ではなく、ジャージ姿だった。制帽も被っていない頭は、夜だというのに太陽を思わせる髪の毛を冷気が混じった夜風に靡かせている。見た感じ爽やかな雰囲気を持つその男性は、心底心配している顔色で私の方を見ている。これはナンパではない。直感で悟りすぐさま「すみません」と謝罪を口にする。これは“心配をかけてすみません”という意味だ。

「あっえ、えっと俺日向って言います! ナンパじゃないです!」
「あ、はい。大丈夫です。分かってます」

 けれど目の前男性――日向さんは拒絶による謝罪だと思ったらしい。今度は焦りを浮かべた顔の前で両手をブンブンと振ってみせる。その様子に少しだけ表情を緩め、「警察かと思ってたら違ったので、少しビックリしてしまって」と言葉を補足する。そうすれば日向さんも納得したのか、髪色に負けないくらいの眩しい笑顔を見せてくれた。

「おまわりさんだったらめちゃくちゃ頼りになる人知ってるんですけど、宮城に居るから……俺ですみません」
「いやいや。私の方こそすみません、こんな暗い時間にこんな道端で」
「……何かあったんですか?」

 そっと尋ねてくる日向さん。踏み込んでしまっているのではないかという気遣いをしてくれているらしい。それでも声を掛けられずにいたということは、日向さんはめちゃくちゃ良い人なのだろう。そういう誰かの優しさというのも、実はこういうメンタルの時には効きすぎてしまう劇薬になることもある。今の私に、日向さんのような存在はテキメンだ。

「うぅ〜……すみません、」
「わっ、え、えーっと……タオル! これ! 替え用だったんでまだ使ってないです! 旭さんおすすめの柔軟剤使ってるんで臭いも大丈夫です!」
「ありがとうございます……」

 滲み出るように瞳から溢れた涙。それをぎゅっと手のひらで押さえていると、手の甲にふわりとした感触が当てられた。日向さんから渡されたタオルに涙を吸いとらせれば、確かに気分が落ち着く良い匂いが鼻腔を通して体を包む。本当ならすぐに返すべきなんだろうけど、どうにも手放し難くて顔をタオルに押し当てたまま動くことが出来ない。

「こっち来て半年以上経つのに、中々打ち解けられる人もできなくて」
「地元こっちじゃない、ですよね。関西弁じゃないし」
「異動で来たんです」
「なるほど」

 少しだけ間を開けてベンチに腰を下ろした日向さんは、唐突に始めた身の上話にまで付き合ってくれるらしい。どこまでも優しい日向さんにまたちょっと泣きそうになって鼻を啜る。と同時にタオルから顔を離して「良い匂いでした」と感想を言えば「良かったです」と笑う日向さん。彼の笑顔は元気いっぱいだなあ。

「多分、そういうちょっとした心細さみたいなのが重なっちゃったんです」
「分かります……って簡単に言って良い言葉じゃないですよね」

 すみませんと頭を下げる日向さんを手で制し、「日向さんも大阪出身じゃないんですね?」と問う。彼の口調にも訛りが見えないので、きっと日向さんも就職か異動でこっちに来たのだろう。替えのタオル持ってるくらいだし、外回りばっかの営業さんとか。……だとしたら成績ダントツだろうな。

「出身は宮城です」
「宮城。東北だ」
「です」
「日向さんも異動とかですか?」
「異動、みたいなものかな……」
「ん?」
「俺、ちょっと前まで2年間ブラジル行ってたんです」
「ブラジル!」
「いろんな人の手助けがあったからブラジルに行けたけど、やっぱそれでも行ったばっかの時はヘコみかけたことあるし。だから心細いっていう気持ち、俺ちょっと分かります」

 心細いの規模が日向さんと私とで違う気もするけど。だけど、日向さんにこう言ってもらえたおかげでなんか少し心強くなった。“みんな同じ悩みを抱えてる”って自分自身を諭したこともあったけど、日向さんの言葉は“独りじゃない”と受け止めてもらえたような気がする。都合良く捉えすぎかもしれないけど。

「ありがとうございます。ちょっと気が楽になりました」
「ほんとですか! だったら俺、声かけて良かったです!」
「ふふっ。日向さんは元気ですね」
「あざっス!! 今日も心地良く眠れそうです」
「あはは。良かったです」

 ついさっきまで泣いていたのに。今度は笑っている。日向さんのおかげだ。鉛のように感じていた日々をまた明日からも頑張ろうとすら思ているので、日向さんの元気の良さは本物だと思う。だけど、私が泣いていたのも事実。そしてその事実は私の手に握られているタオルによって証明されている。

「日向さんはまた明日もこれくらいの時間にここ通りますか?」
「そうっスね。練習あるんで、またこれくらいになると思います」
「じゃあ、明日このタオル返しても良いですか? 洗って返したいので」
「気にしなくて大丈夫ですよ。俺が押し付けたみたいなとこあるし」
「いえいえ。汚しちゃったので、こればかりは」
「じゃあ……すみません」
「こちらこそ。すみませんだし、ありがとうございましたです」
「いえいえ」

 すくっと立ち上がって向かい合う。そこでようやく私自身の名前を言っていなかったことに思い至って「みょうじなまえです」と名乗る。最後の最後になってやっと身分証明した私に、日向さんは嫌な顔1つせず「日向翔陽です」ともう1度自己紹介を返してくれた。

「家どこですか? ……って、すみませんっ! 決してフラチな考えなどではなくっ!」
「ふふっ。すぐそこのマンションなんで大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「ハイッイエッ」
「じゃあ日向さん。また明日」
「はい! おやみすなさい!!」

 ガバっと頭を下げた後、ニカっと笑ってから走り出す日向さん。その背中を見送っていると日向さんも途中で1度振り返り「みょうじさんも気を付けて!」と大手を振りながら言葉を発する。その姿に笑みを返し自身の足も自宅へと向け踏み出す。その足取りに、不思議と重みを感じることはなかった。



「お待たせしてすみません!」

 昨日より30分早い時間に顔を見せた日向さん。その顔にはまだほんのり汗が滲んでいて、急がせてしまったと少し罪悪感を抱く。今日はなるべく早く解散しよう。何せ相手はただの好青年ではないのだから。

「私も今来たとこです。コレ、ありがとうございました。日向さんの使われてる柔軟剤には及ばないですけど、私のお気に入りを使ってみました」
「わっ! こっちもめっちゃ良い匂いです! あざっス!」
「こちらこそ。昨日はとんだ醜態をお見せしてすみませんでした」
「いやいや。楽しくお喋り出来て良かったです」

 ニカっとはにかまれると思わず目を瞑りそうになる。日向さんの言葉は、お世辞じゃなく本心から言ってるってことが伝わるから素直に嬉しくなってしまう。今日も出来ることなら他愛もないことを喋りたいけど、日向さんの時間をとるのはやっぱりダメだろう。

「今日は何か良いこととかありました?」
「良いことっていうか――……ハッ」
「ん?」
「ダメです。日向さんの時間をとるわけには」
「俺の時間?」
「今日だって、練習切り上げたんじゃないですか?」

 そう言うと、日向さんは一瞬分かり易く息を呑んだ。この人は何もかもが分かり易いな。私の指摘に日向さんは頭を掻いて気まずそうに笑う。やっぱり図星だ。だったら今日はこれ以上私に付き合わせるわけにはいかない。

「プロのバレー選手なんですね、日向さんは」
「はい。今年トライアウトを受けて」
「すみません。私、バレーに疎くて……。お借りしたタオルに“MSBY BLACK JACKAL”ってあったからなんだろうって調べたら」
「俺が居ました、と」
「はい。……すみません、気安く日向さんなんて呼んで」
「謝らないでください。なんなら“翔陽”って呼んでもらえた方がなんかしっくりきます。みんなからそう呼ばれてるので」
「翔陽、選手」

 名前の後に選手と付けると「選手もなくても良いです」と頬を掻く翔陽……くん。歳はやっぱり私の3つ下だった。ニュース記事には宮城で行われたデビュー戦で大活躍だったと書いてあったし、翔陽くんの今がどれだけ大事な時期かくらいはバレーに疎くても分かる。

「すみません、結局長々と。私そろそろ」
「この後予定アリですか?」
「そういうわけじゃないんですけど、翔陽、くんの時間が」
「みょうじさんの言う通り、俺30分早めに練習切り上げました」
「うっ、すみません」
「でも俺はそうしたくてそうしたし、するって決めてたから。だから前もって調整はしてます」
「なるほど……」
「もしみょうじさんが良かったら、30分付き合ってくれませんか」
「い、良いんですか?」
「はい! なんか、昨日みょうじさんと喋った時すっげー楽しかったんで。また喋りたいなぁ〜って思いました」

 太陽だ。夜なのに、ここに太陽がいる。
 思わずぎゅっと目を瞑った私に、翔陽くんがオロオロする気配がする。また心配そうに声をかけられる前に目を開き「今日、会社の資料で名前が載ってる一覧表があったんですけど」と口を開く。

「飯野さん、森さん、森田さんが上から順に並んでたんです」
「ほう」
「頭文字とったら“メシモリモリ”だなぁ〜とか思ってたらお腹空いちゃって、今日の昼ご飯大盛りにしちゃいました」

 口にしてみたらめちゃくちゃ仕様もなかった。あの時は思わず笑ったし“日向さんに話そう”って思ったのに。……冷静になってみたらこんな小さなことで興奮してるのどうかしてたな。

「メシモリモリ……超縁起良いっスね!」
「ブフッ縁起が良いんですか」
「はいっ! メシがモリモリはすげぇっス」
「あははっ! そっか、縁起が良いのか。それは、良いですね」

 だけど。翔陽くんの手にかかるとこんなことでさえ良いことになってしまうらしい。すごいなぁ、翔陽くんは。これから先で起こること感じたこと、全部翔陽くんに話せたら私のメンタルはとても明るいものになりそうだ。

「あの」
「はい」
「翔陽くんって、ブラジル行ってたんですよね?」
「はい! ビーチバレーやってました」
「ビーチ?」
「インドアで強くなる為にいろんなバレーをやりたくて」
「じゃあバレーの為に海外に」
「です。バレー超超超楽しいんで! みょうじさんにも体験してもらいたいなぁ」

 体験はさすがに無理と思う。プレーした日、いや厳密には次の日が地獄になることはこの運動不足の体を以って確信している。その思いが表情から溢れ落ちていたらしく、翔陽くんが笑いながら「プレーが無理なら観戦はどうですか」と言葉を変えてみせた。

「観戦、ですか」
「はい。ちょうど今週末この体育館で試合があるんです。チケットは準備するんで、もし予定が合えばどうですか」
「良いんですか? 私ルールもあんまり、」
「大丈夫です! 絶対楽しいです!」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
「やった! 俺、試合頑張ります! あっ、でも、出られるかどうかなんですけど……俺が出てなくても試合はめちゃくちゃ楽しいんで、大丈夫です!」

 ガバッと立ち上がって両手でガッツポーズをしたかと思ったら、「俺が居なくても楽しいってフクザツだな……」としょんぼりする翔陽くん。一連の流れに思わず吹き出しつつも「楽しみにしてます」と答えれば、翔陽くんももう1度しっかりと笑ってみせた。



「翔陽くん!」
「良かった! やっぱり居た」

 月曜日の夜。約束してたわけじゃないけど、そこに私たちの姿はあった。今日もこの時間帯にここに来たら会えるだろうと思っていたら、翔陽くんも同じ考えだったらしく、私の顔を見るなりパァっと顔を輝かせ駆け寄って来た。

「土曜日の試合、すごかった! チケットもありがとうございました」
「いえいえっ! 俺、どうでしたか!」
「なんかうまいこと言えないんですけど、“見えなかった”です」
「見えなかった?」
「今とかは翔陽くんが現れたらすぐ分かるのに、コートの中だと翔陽くんが一瞬どこに居るか分かんなくなることが多くて。かと思ったらパッと現れたり、現れたかと思ったらグッと引きつけられたり。なんか……すごく、すごかったです!」
「楽しかったですか?」
「めちゃくちゃ。めっっちゃくちゃ楽しかったです」
「良かった!!」

 バレーは楽しいと答えたら、翔陽くんの笑みは弾けんばかりのものになった。翔陽くんはいつだって明るいなぁ。見てるだけで元気になる。まるで日光浴してるみたいだ。

「それで、コレ」
「わっ! 俺のユニフォームじゃないですか! 買ってくれたんですか!?」
「ふふふ。ファンになっちゃいました」
「うわ〜……あざっす」

 あ、今度は照れた。反応がイチイチ分かり易くて可愛らしい。だけど、コートの上に立つ翔陽くんはめちゃくちゃ格好良かった。そう言ったら翔陽くんはもっと照れるのだろうか。

「良かったらこのユニにサインくれませんか?」
「お安いご用でっ……すが。俺も代わりに1つお願いしても良いですか?」
「もちろん」

 今の今まで私ばかりが貰っている。翔陽くんの願い事を叶えるくらい、それこそお安いご用だ。その思いで翔陽くんの言葉を待つと、翔陽くんの唇がそっと開く。

「これからも試合、観に来てください」
「エッ。それは願い事にならないです。私、そのつもりなので」
「マッ、ほ、ほんとですか! やった」
「他に何かありますか? 私チケットも貰ったし、翔陽くんに何かお礼したいです」
「じゃあ……」

 じゃあ、から少しだけ間が開く。金銭とかじゃない限りはある程度のことは応えられるはずだ。その思いで待っていると「連絡先、交換してください」と耳を赤くしながら次の願い事が届けられた。

「連絡先、ですか」
「良かったら、昼間もお喋り出来たらなぁ……なんて。あっ電話とかじゃなくってメッセージとかで全然! で、電話もしたいですけど!」
「こないだみたいなメシモリモリとかでも良いんですか?」
「とかが良いです」
「じゃぁ、喜んで」
「えっ! 良いんですか!?」

 良いも何も。これは願ったり叶ったりだ。私も、翔陽くんと夜だけじゃなく、いつでもお喋りしたいと思っていたから。スマホを取り出し連絡先を交換すると、翔陽くんは目をキラキラと輝かせていた。翔陽くんの毎日は、いつでも楽しそうだ。

「今度、休みが合う時……って言ってもシーズン終わりになるかもだけど……良かったら、どこかに出掛けませんか?」
「是非。……私からも誘って良いですか?」
「モチロンッ!! いつでも待ってます!! 夜中でも朝でも!!」
「ふふっ。ありがとうございます」

 夜だけじゃなく、朝も昼も。これからはいつでも翔陽くんに会えるらしい。これからの私の毎日は、どうやらキラキラするみたいだ。

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