肥前忠広による完食宣言

「おい。そろそろだろ」

 庭で行われている粟田口兄弟による独楽勝負。それを縁側で微笑ましく一期さんと共に眺めていると、頭上から咎めるような声色で声をかけられた。私がこの本丸を運営するようになってから1番聞き馴染みのあるその声。見上げるとそこにはやっぱり肥前が突っ立っていて、静かに私を見下ろしていた。

「あれ、もう?」
「あんたが言ったんだろうが」

 言葉の前に溜息を吐いたかと思えば、1段低くなった声で言葉を継がれた。肥前に愛想がないのはいつものことだけど、今回ばかりは私に非があるのでムッともならない。

「……あぁ。そっか。ごめんごめん」
「ったく」
「すぐ準備するから。ごめん肥前。先に玄関行ってて」
「早くしろ」
「はぁい」

 気怠そうに廊下を歩いていく肥前の姿を少しだけ見送り、独楽勝負の行方を気にしつつも立ち上がる為に膝に手を当てる。と同時、その一連の流れを見ていた一期さんが何か言いたそうな表情を浮かべているのに気が付いた。どうしたのと目線だけで問うと、一期さんはハッとしたように笑い、咳ばらいを1つ吐く。

「羨ましいなぁと思いまして」
「羨ましい?」
「お二人の関係を“つうかあの仲”と呼ぶのでしょうな」
「あー……あはは。まぁ、私にとっての初期刀だしね。色々経験してきたよ」

 ここに至るまで。それはもう色々と大変だった。私は元々政府職員で、審神者の方々と接するうちに“自分も審神者として歴史を守りたい”と思うようになって異動願いを出した。そしてそれを受理してもらうまでに約1年。その間に先輩の反対があったり、実際審神者としての適性があるのかの検査があったり。それらをパス出来たかと思えば初期刀が準備できない問題に直面したり。結果、特命調査に出向かなかった肥前が私の初期刀として選ばれたわけだけど、まぁ相手はあの肥前だ。衝突しないわけがない。

「そういえば、胸ぐら掴まれたこともあったっけ」
「む、胸ぐらを……ですか」
「そうそう。私が肥前をいつまでも戦場に出さないから、それに肥前が怒って。あの時が1番ぶつかったかなぁ。……懐かしい」

 今では笑い話になったこと。1度昔を思い出すとあれもこれもと浮かんできて、それらが私の口角を緩やかにあげる。どれか1つくらい一期さんに話したいけど、そろそろタイムオーバーだ。もうちょっとしたら肥前が鬼の形相で戻って来るだろう。それはつまり、行かねば殺されるということ。

「じゃあ私、政府の定例会議行かないとだから。ちょっと抜けるね」
「主様はいつも早めに行動なさいますな。私も見習うべきお姿です」
「私なんて全然。ほら、私って元政府職員じゃん? だから会議の準備とか色々頼まれるんだよね。だったらいっそのこと早めに行っておこうかなぁって。そっちのが印象良いだろうし。そういう魂胆だよ」
「なるほど。それでも、早めの行動に越したことはないです。引き留めてしまい申し訳ありません。道中お気をつけて」
「ありがとうございます。行ってきます」

 良かった。今の言い訳で一期さんは引き下がってくれた。穏やかな笑みを向けられ、ホッとするのと罪悪感を抱くのと。複雑な面持ちで玄関まで駆け足で向かうと、肥前はちゃんと待っていてくれた。壁にもたれ掛かり、腕組みした腕を忙しなく指でノックしている様子を見て、それにも罪悪感を抱く。

「ごめん肥前。お待たせ」
「……はぁ」

 わざとらしい溜息を吐かれたけど、これはまだセーフの方だ。肥前はガチギレの時ほど黙る傾向にあるので、溜息や舌打ちをされるだけまだ安堵の範囲だ。……限りなくアウトに近くはあるけれども。

「今日はこの間行けなかった甘味処行ってみよっか」
「……あんみつのとこか」
「そうそう。今日は前より早いし、席も空いてるんじゃない?」
「ふん」

 お。今の声は機嫌良い時の返事だ。中々聞けない機嫌良しな肥前の声が聞けたことが嬉しくて、肥前の顔を見上げてみる。肥前はすぐに私の視線に気が付いて、途端に眉根を寄せてしまった。主と視線が合うだけでそんな不機嫌になりますか。まぁ、肥前忠広とはそういう男士だ。



「はー! 美味しかった! 肥前はどうだった?」
「まぁ。悪かねぇ」
「そかそか。良かった。……あ、そうだ肥前。会議終わりにもう1回寄っても良い? みんなにもお土産買って帰りたい」

 予想通り、前回行けなかった甘味処に入ることが出来た。無事にお目当てのあんみつを食し、食後の余韻を味わっている最中。テーブルにあったメニュー表のお持ち帰り商品を指差しながら問うと、肥前はそれには答えず「1回、視てもらえよ」と言葉を返してきた。

「おれだけが知っててもどうも出来ねぇぞ。おれは血が出ねぇモンは斬れねぇ」
「別に斬らなくて良いよ。それに、私の勘違いかもだし」
「その妙な気配のせいでこんな早ぇ時間に出たんだろうが」
「ごめんね。肥前にまで付き合わせちゃって」
「別に……。おれは食える分文句はねぇ」

 じゃあどうして“視てもらえ”なんて助言をしてくれるのか。それは、肥前が私のことを心配してくれているからに他ならない。肥前はいつだって自分のことを“人斬りの刀”と言って血生臭い場所にその身を置こうとする。だけど、本当はそうじゃないって分かってるから。だから私は、肥前を戦いの場には向かわせない。それが原因で胸ぐらを掴まれるまでの衝突に至ったけど、その衝突があったからこそ、今の私たちの関係性がある。私の近侍はもう、目の前の肥前以外考えられない。こんなこと言ったら絶対舌打ち鳴らして鬱陶しがられるけど。

「とにかく。誰かに見られてる気がするって言っても、幽霊とかじゃないんだよ」

 執務室で仕事に勤しんでいると、時折誰かに見られているような気配を感じるようになったのは数ヶ月前から。はっきり“見られている”と視線を察知出来ればもっと話は単純だけど、そういうわけでもない。なんというか、書類に意識を向けるとどこからか纏わりつくような視線を感じるのだ。それが視線とも呼べない気配のようなものだからややこしい。どうせならもっと盛大に雰囲気を醸して欲しい。
 原因が掴めないから、大掛かりにはしたくない。他の男士はただでさえ出陣やら遠征やらで毎日を忙しく過ごしているわけだし、肥前にも私の憶測に付き合ってもらうのは申し訳ない。……とはいえ、執務室にあまり居たくないという気持ちから今日の会議も早めに出ちゃったし、それに付き合ってもらってもいるんだけれども。

「おれをメシに連れて行ったり。そのことに対して他の野郎どもに罪悪感抱いて毎回律儀に手土産持って帰ったり。あんた、相当下手くそな生き方してんな」
「本当にね。でも、全部したくてやってることだから。辛くはないよ」
「……そういうところは、ちげぇんだよな」

 誰と比べてるのかは、なんとなく分かる。だから少し寂しげに伏せられた瞳を追うことはしない。前の主の生き方を、実際傍で見ていない私が簡単に否定したり肯定したりしたくないから。

「そろそろ出よっか」
「おー」

 そして、下手くそな私のやり方を否定しないでいてくれる肥前の優しさも。私はちゃんと分かっている。



「はー……疲れた……」

 甘味処で出した感嘆の声とは真逆の溜息が口から零れ落ちた。一期さんに言った理由は隠れ蓑のようで真実だ。今回も会議の準備まで頼まれ、挙句片付けにまで駆り出された。審神者として活動し、更には職員の仕事まで行っているのだから、何かしらのボーナスくらいあっても良いと思う。ちょっとくらい鍛刀運向上してもらうとか。……ちょっとくらい、良いと思うんだけど。

「おい。下衆な顔してるぞ」
「先輩! お久しぶりです!」
「おう。元気に審神者やってるか?」
「なんとか、って感じですけど。なんとか」
「なんだそれ。こっちはお前が居なくなって人手不足だ。いつでも戻って来いよ」
「すみません。でも、私には私だけの本丸があるので」
「かぁ〜、言うねぇ。お前が“審神者になりたい”つった時は絶対無理だろって思ってたのに。いつの間にかこんな立派なこと言うようになりやがって」
「へへっ。男士たちのおかげです」

 職員時代、先輩として面倒を見てくれた人。私がまだ右も左も分からないひよっこだった頃から面倒を見てもらった人だから、誰よりも先に審神者になりたいと相談をした。そして、誰よりもそのことに反対した人。上が許可を出してくれても、先輩は中々許してくれなかった。それだけ私のことを想ってくれているって知ってたから、私も必死で先輩を説得した。最終的には先輩も折れるように許してくれたからこそ、私は自分の本丸を立派な本丸にしたいと奮起することが出来ている。ありがたい存在だ。

「というか先輩。私の本丸、なんか割り振られる仕事多くないですか?」
「そうか? まぁアレだろ。政府職員も振り易いんだろ。お前相手だと」
「そういうの、職権乱用ですよ」
「分かった分かった、今度メシでも奢ってやるから」
「言いましたからね? まったくもう。書類見る度嫌気さすんですから」
「嫌気って……。いけずだなぁ、お前。間違っても俺以外にはそんな態度とるなよ〜?」

 私の頭目がけて先輩の手が伸ばされた瞬間。先輩の姿が見えなくなり、代わりに布の切れ端が視界に入ってきた。まずい、会議終わりの片付けまで手伝わせた挙句、先輩との会話に時間を使いすぎたか。

「ごめん肥前。帰ろ「これはこれは。不良在庫だった肥前じゃねぇか」……先輩っ!」
「どうとでも言えよ」
「良かったなぁ。コイツが審神者になりてぇって名乗りを上げてくれて。危うく刀解されるところだったんだぞ、お前」
「なっ……ちょ、先輩! 言って良いことと悪いことがありますよ!!」

 ある時期、文久土佐の動きに怪しさが見られたことがあった。政府は有事に備えて、肥前忠広と南海太郎朝尊を顕現した。その顕現に不具合が生じ、特命調査に出向かなくて良い肥前忠広が一振り顕現されてしまった。その肥前が私の肥前だ。私の初期刀になるまで、肥前は政府の中で行く当てがなかった。そのことを陰でチクチク言う職員は何人か居て、そういう人が肥前のことを“不良在庫”と揶揄していたことは私も知っている。その言葉を耳にする度歯痒い思いをしていたけれど、そう呼ばれる刀剣男士は肥前忠広だ。言われっ放しで終わるはずもなく、肥前は何度も衝突を繰り返していた。だから政府内での肥前の印象はあまり良くない。だけど、言ってしまえば事の始まりは政府の不手際だ。それなのに肥前が“不良在庫”と呼ばれるのはあんまりだろう。

「大体、刀剣男士相手に失礼じゃないですか。肥前だって私たちの戦いに力を貸そうとして顕現してくれたのに。そんな相手に向かって“不良在庫”って……。確かに、肥前はこんな性格だから可愛いって手放しでは言えないですけど……でも! 肥前は肥前なりに不器用だけど優しいし、私の近侍として私以上に仕事してくれるし、私のことも分かりにくく支えてくれるし……とにかく! 私にとって肥前は、この世でたった1振りだけの大事な大事な私の肥前で「黙れっ! もう良いから……!」……あっ」

 肥前に腕を掴まれてようやくハッとする。肥前を押しのけて先輩の前に出ていた私に肥前は深い溜息を、対峙する先輩はニヤニヤとした笑いを向けていることに気付き、途端に赤く染まる自身の頬。どうやら私1人で熱くなっていたらしい。……でも、これは先輩が悪い。

「ごめんな、肥前。大事な後輩盗られた気がして、ちょっと意地悪言っちまった」
「……チッ」

 肥前が殴り掛からず舌打ちで済ませてくれたことに安堵しつつ、1発くらいカマせば良いのに……と物足りなさも抱く。まぁ、それをされたらされたで、主である私がどえらいことになるんだけれども。

「ごめんな? 悪い」
「次言ったら先輩といえど許しませんから」
「分かった分かった。……肥前のことはそんな大事にすんのに。俺のことはちっとも大事にしてくれねぇよな、お前」
「何言ってるんですか。普通は先輩が後輩を大事にするものでしょ」
「……おい。土産売り切れんぞ」
「あ、そうだね。ごめん」

 話の切り上げ所を見失うのが私の悪いクセだ。それを知っている肥前がこうして話を折ってくれたおかげで、今度は切り上げ時を逃さずに済んだ。ありがたく差し出された言葉を使って「じゃあそろそろ」と常套句を差し込むと、先輩が閃いた顔をしながら自身のポケットに手を突っ込んだ。

「あったあった。コレ、今回のお詫び」
「わっ。甘味処の優待券! 良いんですか?」
「おう。お前この店気になってるって言ってたろ? ちょうどこないだ貰ったからさ。やるよ」
「やった! 私大事にされてる〜!」
「ははっ。んじゃついでにコレも」
「コレは……?」

 立ち寄ろうとしていた甘味処の優待券を譲り受けてはしゃぐ私に、先輩がUSBを渡してきた。優待券の上に置かれたUSBを見てから先輩に視線を移すと、先輩の顔が下卑た表情へと変わる。……これはまさか。

「ここは1つ、俺のことも大事にしてくんねーかな」
「……うわぁ」

 嵌められた。これは新たな仕事を任せる為の餌だったのだ。何が“お詫び”だこの野郎。やっぱ肥前に1発入れてもらっとけば良かった。今からでも優待券ごと突き返してやるか? ……いや、やめておこう。優待券の金額はそれなりに良い額を印字している。とりあえず仕事内容だけでも聞いておこう。

「元政府職員だったお前にしか訊けない、審神者としての意見が訊きたいんだわ」
「なるほど。それは…………まぁ、はい。私が適任ですね」
「だろ? 悪いけどさ、ここに入ってる資料読んで返事くれね? 一応機密書類だから、中に入ってる資料は読んだら消して欲しい」
「分かりました。そういうお話ならきちんとお受けします」

 別に優待券とセットにしなくても引き受けたのに。というか優待券のせいで受け取った時嫌な気分になっちゃったじゃないか。下手くそだなぁ、やり方が。……ま、ひとまず。どっちも貰って帰るか。

「なるべく早めに返事もらえると助かる」
「分かりました」

 先輩の言葉に頷いてから肥前に声をかけると、肥前はじっと優待券とUSBを見据えていた。そのあまりの熱視線を不思議に思ったのは一瞬で、すぐに“優待券で何を買うか”を考えているのだろうと思い至った。肥前は本当に食いしん坊だなぁ――なんて、微笑ましい気持ちと、帰ったら仕事が待っていることに対してどんよりする気持ちを抱きながら、今度こそ先輩に見送られながら帰路に就くことにした。



「あれ……? なんで……?」

 カチカチと画面上のマウスを右往左往させても、ないものはない。USB自体はきちんと認識されているのに、先輩のいう資料がどこにもないのだ。早く仕事を終わらせたいのに……と焦燥感を抱きながら先輩に連絡をとると、電話先で先輩が申し訳なさそうに事情を説明してくれた。

「悪い。お前のパソコンでも見れるように保護解除するの忘れてた」
「も〜。先輩〜」
「遠隔で解除しておくからさ、悪いけどそのままUSB挿しておいてくれるか?」
「分かりました」
「明日には閲覧出来るようにしておくから」
「じゃあ頼まれた仕事は明日しますね」
「おう。それで頼む」

 先輩がこんなミスするなんて。意外と珍しい。先輩はああ見えて仕事はきちんとするタイプなのに。まぁ遠隔操作で対処してくれるらしいし、今回は優待券で無事みんなにお土産も買えたから良しとするか。今日の仕事が浮いたと思えばまぁ、ラッキーだ。

「おい」
「ん? 何、肥前」
「今日寝る時、コレ傍に置いておけ」
「えっ。な、なんで……?」

 先輩との通話を切ったら、ほぼ間髪を入れずに肥前がコレと言って肥前忠広を渡してきた。どうして本体を渡されるのかが分からず狼狽えていると、肥前はしびれを切らしたように刀を押し付けてきた。持たされるようにして刀を握っても未だ訳が分からず、刀と肥前の間で何度も視線を彷徨わせると肥前が短く舌打ちを鳴らす。

「おれなんかじゃ意味ねーかもだけどな」
「はい……?」

 首を傾げる私なんかまるで見えてないかのようにシカトされ、そのまま肥前は姿を消してしまい、理由は分からずじまいだった。そのままあれやこれと1日を過ごすうちに夜が来て、あとは寝るだけになってしまった。
 寝室で刀の肥前忠広と向き合う。なんかちょっと照れる。結局肥前の意図は分からないままだけど、理由もなく“置いておけ”なんて肥前が言うはずない。何度か置き場所を調整し、刀を枕の少し上の辺りに落ち着かせたところで布団の中に入る。……も、どうにも落ち着かない。なんか、肥前がすぐ傍に居る気がして変な感じだ。だけど、執務室で感じる嫌な感じとも違う。
 落ち着かないと思っていた存在に、居心地の良さを見いだすのにそう時間はかからなかった。肥前が傍に居る気がして眠れないと思っていたけれど、肥前はこの本丸に来てから誰よりも長い時間を共にした存在だ。居て当たり前、居ないと変な感じすらすると再認識する頃には、私の意識は夢の中に片足を突っ込んでいた。

「……んん、」

 意識を手放す頃に感じていた心地良さ。それを無理に剥ぎ取られるような感覚によって目を覚ますと、体が重たいことに気が付いた。“動かせない”ではなく、“動けない”。一体どういうことだと必死に脳を動かしていると、左頬にねっとりとした感覚が走って思わず思考が止まった。続けざまに聞こえる荒い息遣いによって、私の体に誰かがのしかかっているのだと理解する。

「……せ、んぱい……? なんで、」
「まだ寝てて良いぞ? 俺が全部やってやるから」
「やっ、な……」

 やだ。なんで――色んな気持ちが浮かぶけれど、混乱した脳だとどの言葉を発せば良いかが分からなくて言葉がもつれてしまう。拒否しようと体に力をこめても、私の体を這う先輩の手や舌を止めることは出来ない。まともな抵抗も出来ないでいると、先輩の舌が首筋を伝って下に降りてゆく。その動作から逃げるように顔を上に背けたら、執務室へと続く障子が開いているのが見えた。そしてその奥にあるパソコンの周辺に、時間遡行で使われる転送陣が展開しているのを見た瞬間、全て仕組まれたものだったのだと察知した。私が執務室で感じる嫌な視線は今、先輩から発せられている。恐らく肥前も先輩の態度や渡されたUSBから感じる邪気を気取ったのだろう。だから万が一に備えて刀を貸してくれたのだ。……肥前は、いつだって私を守ろうとしてくれる。

「肥前っ、」

 刀に触れようと体を捩ると、その上に先輩が覆いかぶさってきた。乱れた寝間着の襟首を掴まれ、胸が開ける。その隙間に先輩が手を入れようとするのを必死に阻みながら刀へと手を伸ばすと、先輩が苛ついた声を出しながら刀に手を伸ばした。その瞬間、私の中で抱えきれないほどの拒絶反応が湧き起こった。肥前だけは決して触れさせない。こんな汚い手で、肥前に触れて欲しくない――。

「嫌っ!!」

 決死の思いで先輩を跳ねのけ、刀をぎゅっと抱き締めた瞬間。廊下側の障子がけたたましい音を立てて吹き飛んだ。かと思ったら先輩の体が吹っ飛んでいき、腕の中にあった刀を誰かに奪い取られた。

「おれが不良在庫じゃねぇって、証明してやるよ」
「だ、駄目……! 肥前っ、」
「うるせぇ。黙ってろ」
「駄目ッ。お願い肥前……! 斬らないで……!」
「おれがこのゴミを斬りてぇんだ。それで良いだろうが」
「……駄目。やめて、肥前」

 肥前と視線がかち合う。そうして数秒見つめ合ったのち、私が折れることはないと悟った肥前が舌打ちを鳴らしながら刀を収めてくれた。けれど肥前はそこで止まらず、先輩に覆いかぶさって3発続けて頬を殴ってみせた。4発目を振りかぶって止めたのは、先輩が唸り声を上げながら意識を失ったから。その姿を冷たく見つめ、ゆらりと立ち上がった肥前が私の前にやって来る。自身が着ていたパーカーを私に嵌めるように上から押し付け、私が慌てて顔と腕を出した時には肥前は既に先輩の襟首を掴んでいて、まともな会話をすることもなく先輩をどこかへと連行していった。
 そこから先はあっという間で、再び肥前が寝室に現れた時は空が朝の予兆を告げる色をしていた。

「先輩は、」
「政府で処罰を受ける」
「そっか……」

 先輩から向けられる感情の危うさを見抜くことが出来なかった。自身が日々感じていた嫌悪感の原因が、すぐ傍にあったことに気付けなかった。私は、審神者としても政府職員としても至らなかった。助けてもらった礼を言おうと肥前を見つめると、肥前もじっと私のことを見つめ返す。

「肥前……あの、ありがとう」

 肥前は何も言わない。ついさっきまで物凄い剣幕で、相手が気絶するまで人を殴っていたのに。目の前の肥前から殺気を感じることは出来ない。こういう場合は、どういう出方をすれば良いだろうか。

「もうちょっとで取り返しのつかないことになるところだったね……へへっ」

 誤魔化すように笑ったら、あっという間に視界が変わっていた。肥前から胸ぐらを掴まれるのは2度目だ。前回と違うのは、肥前から怒声を浴びせられないこと。だけど、前回よりも深く怒っている。何も言われないのがその証拠。ならば私が言うべき言葉はお礼ではない。

「ごめんね、肥前」
「なんで助けを求めなかった」

 怒りの素が思っていたところと別の場所にあって、思わず言葉に詰まってしまった。私はてっきり、危機管理が出来ていなかったことに怒っているんだとばかり。

「おれには助けを求められねぇか。……おれが、まともに人を斬ったことがねぇ不良在庫だからか」

 今度は息を呑む。なんで。どうして。どうして肥前が“不良在庫”なんて言葉を自身に向けるんだ。その話は前衝突した時に膝を突き合わせてとことん話し合ったじゃないか。その言葉を使われたら、誰よりも私が1番怒るって知ってるはずなのに。それなのにどうして自分を卑下するのか――。カッとなった頭は、すぐに冷静さを取り戻す。私の肥前のことは、私が1番理解している。

「違う。私の肥前はちゃんと強い。だから、その強さをあんな人のせいで揺らがせたくなかった」
「おれは……あんなヤツにあんたを傷付けられたくなかった」

 胸ぐらは掴まれたままだけど、力が緩まった。それを感じ取り、私の体からも力が抜ける。肥前のおかげで、私は今恐怖心を抱かずに済んでいる。私のことを想って怒ってくれているのならば、私はそれだけで充分だ。

「そうなる前に肥前が助けてくれたじゃん」
「一歩違えばそうなってただろうが」
「でもなってないじゃん」
「うるせぇ。ああ言やこう言いやがって。おれがどんだけ……クソッ」

 可愛いなぁ――。抱いてしまった感情は、どうしようもなかった。多分、今すべきことはもっと他にあるはず。だけど、それよりも先にまず、どうしても肥前を抱きしめたくなってしまった。

「はっ!? ちょ、おい!」
「ありがとう、肥前。肥前が刀を貸してくれたから、気持ちが折れずに済んだ」
「おれとしてはソレ使って斬っちまえって意味だったんだがな」

 だから。何度も言ってるでしょ。肥前に人は斬らせないって。肥前の首にまわしていた腕を離し、もう1度畳に頭をつける。肥前はそのまま距離を取るかと思ったけど、意外にも私の上から退かずにいた。

「ああ言えばこう言うよね、肥前って」
「それはあんただろうが」
「違うって。肥前の方だよ」
「とりあえず、いっぺん黙れ」
「黙ってどうするの?」

 あ、黙った。どうするか考えてなかったんだ。

「ねぇ肥前?」

 一向に言葉を紡がないことに痺れをきらすと、何度目かの舌打ちを鳴らされた。どうやら怒りの度合いはだいぶ低くなったようだ。というか、肥前は一体いつまで私の上に居るつもりなんだろう。……でも、不思議だ。

「なんでだろ」
「あ?」
「私、肥前に押し倒されてるのに。全然嫌じゃない」
「……は? あんた、よくこんな状況でんなことが言えんな」

 言いながら自分の言葉にハッとしたのか、肥前がバッと退いた。きっとさっきのことがフラッシュバックしないようにと気を回してくれたのだろう。だけど、本当に肥前と先輩が同じ体勢をとっても全くもって被らないのだ。肥前が呆れる通り、よくさっきの今でこんな呑気なことが言えるな、私。

「危機感、ねぇのかよ」
「ほんとにね」
「……チッ。俺がアイツだったら、あんた今頃取り返しのつかねぇことになってるぞ」
「でも、肥前は先輩じゃないでしょ?」
「簡単に言いやがって。あんたがそんなんだったらおれだって……」
「おれだって?」

 おれだって……何? 続きが訊きたい。知りたい。肥前が私のことをどう思っているのか。私は、今こんな状況になっていても知りたい。

「ねぇ、教えて。肥前」
「〜っ、うるせぇ!」

 逃げる予感がしたので、すかさず肥前の腕を掴む。そうすれば肥前が込み上げてくる感情を押し殺すように体を硬直させるのが分かった。やっぱ可愛い。どうしよう。

「言うまで離さないから」
「だぁー!! クソッ!! だから!! 据え膳食わぬは男の恥だっつってんだよ!」

 なるほど、据え膳か。……なるほど。

「私、据え膳なんだ」
「や、ちがっ……おれはそういう意味であんたを見てるわけじゃ……」

 “ない”と、その2文字をいつまで経っても続けない肥前。その目が罪悪感で染まるのを見て、私には背徳感に近い感情が浮かぶ。
 「ねぇ肥前」その目が私に向くよう誘導し、導かれた視線がぶつかる寸前。肥前の胸ぐらを掴み、押し倒し返す。突然の出来事に息を呑む肥前を微笑ましく思いながら、肥前が反応するよりも早く、肥前の唇に私の唇を押し当てる。そしてすぐさま距離をとってもう1度瞳を見つめると、その目から罪悪感は消え去っていた。

「私、肥前の為なら据え膳になっても良いよ」
「……言っとくが。おれは骨の髄まで食いつくすからな」

 覚悟しろ――そう言って近付いてくる瞳は、今まで見た中で1番ギラついた輝きを放っていた。

BACK
- ナノ -