この恋はもう温まっている

 色恋のない審神者生活。けれどそんな毎日が私は嫌いではない。むしろ神様たちの力を借りて歴史を守る日々は、私みたいな人間でも少なからず誰かの役に立てているのだと誇らしくもある。とにかく。私は今の生活が嫌いじゃない。けど、心に刺激は欲しい。

「主さ〜ん。今日の夜、お手入れだよね?」
「乱ちゃん。よろしくお願いします」
「うんっ! 爪もお願いした?」
「うん。加州おすすめの色持ってきてくれるって」

 ボクも塗ってもらおうかな〜とニコニコ笑って執務室を去って行く乱ちゃん。いつだって可愛い男士だ。乱ちゃんに加州。ウチの本丸のツートップオシャレ男士。なんとも心強い。

「手入れ? どっか悪ぃのか?」
「ううん。手入れっていうのは、スキンケアのことだよ」
「すきんけあ?」

 小首を傾げて「手入れはすきんけあとも言うのか?」と不思議そうにしているのは今月の近侍である豊前江。豊前はそういうことには無頓着そうだもんなと笑いつつ「肌の手入れとか、そういう自分の体に対する手入れのことをスキンケアって言うんだよ」と答える。あ、でもメンテナンスとも言うか。そっちだったら豊前にも馴染みあったかな。

「なるほどな。すきんけあ、大事だな!」
「うん! なんせ明日は待ちに待ったデートの日だからね。気合い入れないと!」
「……は?」

 ニカッと眩しく笑っていた豊前の頬が固まる。いやそんな固まんなくても。何、この干物主から“デート”なんて言葉が出るとは思ってもなかった? 残念。私にだって刺激的なイベントはあるんです。……1年に1回だけど。

「あ、肥前のことも捕まえておかないと」
「おい、でぇとって……アレのことか?」
「そうだよ、逢い引きのこと」
「……主が?」
「そうだってば。1年に1回しか会えないから、とびきり可愛くしていかないと」

 せっかくだからと万屋通販で取り寄せた服。あとで肥前に見せて感想をもらおう。その為には燭台切さんに交渉して、おにぎりを3つくらいは用意しておかねば。肥前のことだから感想らしい感想はくれないだろうけど、反応で判断出来るはず。
 脳内に浮かぶやることリスト。デートの前日はいつだって大忙しだ。早く今日の仕事を終わらせないとだし、明日は1日こっちに来れないからその分の引き継ぎもしないといけない。あ、そのこと豊前にも言っておかないとだ。

「豊前。私明日帰らないから、今日のうちに引き継ぎしてても良い?」
「ダメだ」
「え?」

 私の聞き間違いでなければ、豊前は今「ダメ」と言わなかったか? でもあの豊前だ。いつだって食い気味で「良いぜ!」と言ってなんでも受け入れてくれるあの豊前だ。なんならこちらの言葉を聞く前にOKを返すこともあるくらいの男士。そんな豊前が今私にNOを突きつけなかったか?

「ぶ、豊前?」
「自分の仕事だろ」
「そうだけど……。ある程度は今日のうちにやるし、豊前に丸投げってわけじゃないよ?」
「とにかく、ダメだ」
「ダメって……」

 聞き間違いじゃなかった。豊前ははっきりダメと言っているし、なんならめちゃくちゃ不機嫌になっている。……そんなにダメなのか。たまの刺激を求めることは。男士たちにもきちんと休暇は与えているし、私だってたまには審神者であることを忘れて普通の人間としての生活を楽しみたい。

「でももう明日は約束しちゃってるし」
「だけん! ダメっち言いよろーがちゃ!」

 ブチギレである。眉根を思い切り寄せて声を荒げる豊前。その姿に一瞬驚いた。でも、すぐに私の中にある糸もブツっと切れた。なんでそこまで豊前に怒られないといけないの。私は毎日頑張ってる。なのにたった1日休もうとするだけでこんなにも言われる筋合いはない。私だって休みたい。刺激が欲しい。

「うるさい! 行くったら行くの!」
「ダメっちゃ!」
「豊前のバーーーーカ! もう近侍なんかお願いしない!」

 立ち上がって捨て台詞を吐く。私の言葉を受けた豊前は、自身の怒りを忘れたかのように目を見開いて固まった。その顔を見て私も一瞬我に帰ったけど、もう立ち上がった勢いは止まらない。そのまま執務室を出て厨へと足を向ける。
 ここまで来たら全部計画通りに進めてやる! 仕事だって絶対今日中に終わらせるし、明日のことだって完璧に引き継いでみせる! でも今は一旦中止!

「……豊前、なんであんな怒ったんだろ」

 荒い足音を立てて歩く廊下。執務室からだいぶ離れたあたりでふと冷静になってみたら、今度は疑問が浮かんできた。豊前があんな風に声を荒げるなんて、今まで1度もなかった。その理由はちゃんと訊くべきだったかもしれない。審神者としても、人としても。……ちょっと、いやかなり大人気なかったかな。





「僕はどっちも大人気ないと思うなぁ」
「うぅん……」

 とりあえず厨に行って賄賂握りの依頼をしようと思っていると、畑仕事をしていた桑名に出くわした。江の刀なら豊前の考えが分かるかもしれないと事情を説明しても、桑名の興味はあまり引けなかった。今も桑名の視線は一緒に作業をしている蜻蛉切と野菜にしか向いていない。

「私がどれだけ楽しみにしてるか、蜻蛉切は知ってるよね!?」
「主の唯一と心得ております」
「そう! 唯一のトキメキなわけ。それなのにそれをダメって言うんだよ? やっぱひどいのは豊前だよね!?」
「蜻蛉切様、見てくださいこのトマト! すっごく美味しそう。蜻蛉切様に食べてもらいたいって、このトマトも言ってますよぉ」
「ちょっと桑名お黙り。今蜻蛉切と話してるのは私なんだから」
「なんだよぉ。僕の方が朝から蜻蛉切様と畑仕事する約束してたのに」
「それはごめん」

 桑名の隠れた目は吊り上がっているのか、もしくは下がっているのか。どちらにしてもあまり良い表情ではないのだろう。楽しみにしている時間を妨げるなんて、それこそ私が豊前に対して怒っていることをしているようなものだ。素直に謝り片手間でやっていた雑草抜きに打ち込む。うん、やっぱり良い気しないよなぁ。思えば豊前に対してこんな風にマイナスな感情を抱いたのはこれが初めてだ。なんで豊前はあんなに拒否したんだろう。

「あまりお一人で抱え込むのはよろしくないかと」
「だよね。1人だと変に考えこんじゃう。……後でもっかい話してみようかな」
「蜻蛉切様、そんなことよりもこのお野菜。すごく美味しそうに実ってますよ」
「おい桑名。桑名おい。そんなこととはなんだ。私主、さすがに主」
「ごめんごめん。でも喧嘩の相手が豊前なら大丈夫かなって」
「こら。主に失礼だぞ」
「申し訳ありません! 蜻蛉切様」
「謝る相手そっちかーい」

 最後の雑草を抜きながらツッコミを入れると、桑名から去り際に「まぁ全ては森羅万象の1つに過ぎないから」とでっかい切り口で助言をされた。それはどう捉えれば良いのだろうと頭にハテナを浮かべつつもお礼を述べ、厨に足を運び直す。

「燭台切さん」
「ん、どうしたんだい? 味見かな?」
「味見もしたいんですが……」
「あ、そっか。明日か」
「はい」
「OK。3つくらいで良いかな?」
「さすが燭台切さん!」

 賄賂握りの予約も無事に出来たし、そろそろ執務室に帰ろうかな。互いに冷静になる為の時間は充分取れただろうと思っていると、歌仙から待ったがかかった。その目が“働かざる者、頼むべからず”と言っていたので大人しく夕食の手伝いに入ることにする。ここで無視すると後が怖い。まじで。
 猫の手も借りたいと嘆く歌仙の切実さを体感しつつ、微力ながらもお手伝いをこなし、ようやく準備が終わる頃にはもう夕食の時間だった。……豊前と話出来てないままだし、仕事も思ったより進められなかったな。




「あ、ぶぜ……」

 あらかじめ豊前に話し合いたいと言っておこうと思い、広間に集まってきた男士の中から豊前を見つけ声をかけようとしたのに。豊前はふいっと顔を逸らしてそのまま一心不乱にご飯を掻き込みはじめた。再びぷつっと切れる音が自身の中で響く。なーーにあれ。そりゃ気まずいよ。気まずいけどさ、こっちだってその気持ち抑えて声かけたんだよ。気恥ずかしいの我慢して声かけたのに。何あれ。何アレ!

「あ? なんでこっち来んだよ。あんたの席はあっちだろうが」
「良いじゃん肥前くぅん。そんな固いこと言わずに。ほら、私のおかずあげるから」
「……ふん」

 私の本来の定位置はみんなを見渡せる席。だけどその隣には近侍が座ることになってるから、今日は嫌だ。大人気ない? もう知らない。だって私はちゃんと歩み寄ろうとしたし。豊前が悪い。

「なんじゃあ主。今日はやけに子供っぽいのう」
「むっちゃん、今日肥前のこと借りるね」
「おうおう、好きなだけ堪能しとーせ」
「おい、勝手に決めんじゃねぇ」

 肥前の隣に座っていたむっちゃんがスペースをあけてくれたので、礼を言ってそのスペースに腰を据える。その動作の中でさりげなく視線を向こう側へと這わす。その先に居るのは豊前。私からあからさまに避けられてちょっとはショックを受ければ良い……ってもう居ない。嘘、ご飯食べるの早過ぎない?

「気になることでもあるのかい?」
「あ、いや、なんでもないです」
「おや。あまりにも熱視線を送っていたから気になったんだけれど。僕の勘違いだったかな」
「あはは、そうですよきっと。うん、南海先生の勘違いですよ。うんう……ん!? えっと、肥前くん?」
「あ?」
「おかず、こんなに食べたの?」
「くれるんじゃねーのかよ」
「あげますあげます! どうぞどうぞ! 頬いっぱいに頬張って良いよ!」

 こっちはこっちで早いな。遠慮もないな。でもそこが肥前の良いところ。たくさん食べてすくすく育ってね。……って私より随分歳上の刀剣男士に願って良いものなんだろうか。そこらへんよく分かんないけど、肥前が可愛いからそれで良し!
 肥前の食事姿にニヤニヤしていると、隣に座っていたむっちゃんが苦笑気味に「主も食べんと腹持たんぜよ」とむっちゃんのおかずを分けてくれた。この本丸の男士はみんな優しいね。なのになんだ豊前は。なんであんな風に避けられないといけないんだ。

「ふふ。やっぱり僕の勘違いなのかな?」
「か、勘違いです!」

 ムカつくしもう知らないって突き放したいけど。でもずっとこのままで明日になるのはちょっと嫌だな。もう1回話しかけてみる? いやでも、何回も声かけるのはちょっと違う気がする。だって私別に悪くないし。……でもそれじゃダメだよな。

「よし! 風呂!」
「おーおー。元気えいのう」
「ごちそうさまでした! むっちゃんもお裾分けありがとうね。肥前はまた夜に!」
「……ふんっ」

 こうなればお風呂でリフレッシュだ。そのあと乱ちゃんたちにスキンケア手伝ってもらって、そっから執務室に行ってみよう。それだけ時間あけたら豊前の態度も違ってるかもしれない。




「ふぅ……終わったぁ」

 お風呂に入って乱ちゃんと加州に手入れをしてもらい、流れで私の愚痴トークに付き合ってもらった。2振りなら「それは向こうが悪い」って言ってくれると思ってたのに。2振りとも私の話を聞いて「あー」なんて曖昧な感想を返してきた。もっとチクチク言って共感して欲しかったと不満をぶつけても「まぁ……ね」なんて言葉でぼかすだけ。負けじと追求しようとしたところで痺れをきらした肥前が「やらねーんならおれは寝るぞ!」と牙を剥いてきた。その言葉で会話は打ち切られ次の“コーデを肥前に見てもらう”フェーズへと移行し、会話自体は不完全燃焼で終わってしまった。とはいえ、これで明日に向けた準備は全部終わり……じゃなかった。

「1番大事なやつ残ってた」

 そういえば。執務室に戻って来たけど豊前が居ない。机に伏せていた顔を起き上がらせ近侍の不在を認識する。でももう時間が時間だし、切り上げて自室に戻っててもおかしくはない。豊前が言ってたように、審神者の仕事は私の仕事だ。責任持って私がやりきらないと。それに明日の引継ぎもちゃんとしておかないと、豊前に迷惑をかけてしまう。

「……あれ?」

 ふぅっと気合いの溜息を吐いて書類を取り出すと、そこにはお世辞にも綺麗とは言えない字が走っていた。2枚目3枚目と捲ってみても、どれも一生懸命書いたことは伝わってくる字で埋まっている。……これ、もしかして豊前が?
 広間でご飯を掻き込んですぐに居なくなった豊前を思い出す。もしかして豊前、私が部屋を出てからもずっと仕事やってくれてた? 豊前の頑張りを目の当たりにしてじわっと湧き上がる罪悪感。それは1番最後の紙に書かれた「ごめん。俺が悪かった」という言葉で表されていた。

「ごめんなのは私だよ……」

 こんな時間まで自分のことにかまけてた。私が文句を言っている間も、拗ねている間も豊前はちゃんと仕事をこなしてた。豊前が悪いとか色々言ったけど悪いのは私だ。……謝らないと。豊前にちゃんと謝っておかないと、明日のデートには行けない。






「豊前見なかった!?」
「なんだいイキナリだねぇ。ここには来てないよ」
「居ない……! 豊前どこ……!」

 江の部屋に行っても居ないし、鍛錬所にも居なかったし、もう1回執務室戻ってみたけど居なかった。疾過ぎて見えないのか? なんてバカげたことを思いながら、一縷の望みをかけて酒飲み男士が集まる場所に足を向けてみた。のに、酒会の亭主である次郎太刀から不在を告げられ思わず膝から崩れ落ちてしまう。もしかしてコレ、避けられてる……? だとしたらものすごくショック。私おんなじことを豊前にしたの? とんでもねぇ主だな。

「なーんかでも、“頭冷やしてくる”って走りに行ってたのは見たわよ」
「えっ!」
「どうせ痴話喧嘩でもしたんでしょー? そういう時は酒よ酒!」
「いやでも……」

 帰って来るの待っていたい。その気持ちをボソボソと呟いても、相手は既に酒を入れた男士たちだ。なんとなくこうなる予感はしていた。まずい方向に舵が切られたことに冷や汗が流れる。どうにかうまく逃げられないかと機会を窺ってみたけど、相手は付喪神。人間が敵うわけもない。結局「待ちながら飲めば良いじゃない」という言葉で丸め込まれ、どんちゃん騒ぎの酒の波に飲み込まれたところで私の記憶は途切れている。




「んはっ!」

 ガバっと体を起こし周囲を見渡す。そして自分が寝ていた場所は間違いなく自分の部屋であることを知り、次に自分の体を見つめる。……なるほど、今回は薬研か。多分もうちょっとしたら薬を届けてくれるだろうから、お礼を言わないと。

「大将、起きてるか?」
「うん。起きてるよ」

 少し痛む頭を押さえて薬研に入室の許可を出す。私がどれだけ深酒をしても毎日決まった時間に起きるのを知っている薬研は、いつもこうして朝方に薬を持って来てくれる。そしてそれを知っている私は、酔っ払うと「薬研〜!」と頼るのだ。もしくは「肥前くぅん」と気持ち悪い笑みを浮かべながら肥前を呼ぶこともあるらしい。そういう時、次の日私の体は布団の上に無造作に転がされている。……部屋に運んでくれるだけありがたい。

「だいぶ捕まってたみてぇだな」
「それもあるけど、昨日は私自身結構落ち込んでて」
「お? それはまた珍しいな。当日の前日なんて有頂天だってのに」
「実は昨日、豊前と喧嘩しちゃって。話し合いも謝ることも出来ず仕舞いで……」

 手渡された薬を受け取りながら事情を説明すると、薬研が「なるほど。だからか」と何かに納得してみせる。何がだからなのだろう。白湯を飲みつつ視線で疑問を投げかけたら、薬研は耳を疑う言葉を返してきた。

「大将、昨日はずっと“豊前”って叫んでたんだぜ」
「ごふっげほっ! や、薬研でも肥前でもなく?」
「豊前」
「豊前……」

 全然記憶がない。元々酒残りはあまりしない体質だけど、そういう大事な記憶まで抜けないで欲しい。薬研や肥前のことを呼ぶのはよくあることだから良い。だけど豊前は今回の喧嘩のせいだ。そう思うと自分の醜態がものすごく恥ずかしいものに思える。うわぁ……これ、下手したらしばらく酒宴の肴にされるな。

「豊前が主抱えて俺の部屋に来た時は何事かと思ったけど、そういうことなら大丈夫そうだな」
「えっ? 豊前が? 私を?」
「おう。血相変えて“助けてくれ!”なんて言うもんだからビックリしたぜ」

 私は今ビックリしている。どうして豊前が私を? という疑問は、私がしつこいくらいに豊前のことを呼んでいたからだろうと自己解決出来る。気になるのはどうして私を介抱してくれたのかということだ。あれだけ大人気ない態度をとったにも関わらず、どうして豊前はそこまで優しくしてくれるのだろう。豊前に申し訳が立たない。

「現世行く前に話してみたらどうだ?」
「……うん、そうする」

 薬研の言葉に頷き、湯飲みと共に礼を告げる。薬研の話なら私をこの部屋に運んでくれたのは豊前だ。今日の仕事だって豊前が粗方やってくれてたし、ここまで来たら私の方が100パーセント悪い。ちゃんと謝らないと。




「おう」
「豊前……」

 早めに準備を終えて執務室に顔を覗かせると、そこに豊前は居た。あれだけ探し回った男士の姿に、思わず涙腺が緩んでしまう。でもせっかく次郎太刀が綺麗に化粧してくれたんだし、話し合いの場で泣きたくはない。きゅっと唇を内側で噛み締め「あの」と震える声を出すと、豊前がそれを遮るように腰をあげる。

「行くんだろ、現世」
「あ、う、うん」
「乗ってけよ」
「い、良いの?」

 豊前の言葉にパッと顔をあげたら、豊前はいつも通りの眩しい笑顔で食い気味に「おう!」と答えてくれた。そのことに再び涙腺が緩みそうになったけど、それ以上に零れるのは安堵の笑み。私の顔を見た豊前もどこかホッとした顔つきになって「体調はどうだ?」と尋ねてくるので、私は昨日のことを思い出す。

「私、迷惑かけちゃったみたいで……」
「良いって。その……悪かった」
「わ、私っ! 私の方こそ! いやてか私が悪かったです!」

 ごめんなさいっ! と膝と額がぶつかるくらいの勢いで腰を折る。結局まともに仕事してないし、謝るのだって豊前に先越されてしまった。とことんダメな人間だ。こんな人間が今日のデートを楽しんで良いのだろうか。

「顔上げてくれよ。俺が悪いんだから」
「いやそんなっ!」
「てめぇの身勝手な感情を押しつけちまって、ほんとすまねぇ」
「そんなことっ……それは私の方、」
「ははっ! 俺らいつまで謝りよんかちゃ」
「……ふふっ」

 あぁ、泣きそうだ。ちょっとくらいなら泣いても良いだろうか。いやもう泣いてる。豊前の笑った顔、もう見れないかと思ってた。デート行く前に和解出来て良かった。これで心置きなく今日のデート楽しめる。

「ん。泣き止んだな? んじゃ、トばしてくぜ!」
「よろしくお願いします」

 私の頭をポンポンと軽く撫でて前を歩き出す豊前。今豊前、私の髪の毛が乱れないように優しく触ってくれた? ……胸が……痛い……かも。嘘、コレって刺激なのでは? いや待て落ち着け。豊前はこういう感じの男士だ。決して私だけに見せる優しさってわけじゃない。違う、違うんだ。

「置いてくぞー」
「今行く!」

 豊前の吹かす音よりも私の体の中の方がうるさい気がするのは、きっと気のせいだ。あぁでもどうしよう。やっと見れるようになったはずなのに、また豊前の顔がうまく見れなくなっちゃった。






「ありがとう。助かりました」
「おう! ……行っ、ちまうんだよ、な」
「……豊前?」

 現世への転送ゲートまで送ってくれた豊前の態度がおかしい。気を付けて、とはにかんで元気良く送り出してくれそうなのに。どこか煮え切らない態度を不思議に思っていると、ふぅーっと豊前が深く息を吐いた。唐突な深呼吸に固まる私に「気ぃ付けてな!」といつも通りの表情を向ける豊前。なんだろう、なんかちょっと変だ。

「う、うん」
「……迎え、来てもいーか?」
「迎えまでお願いして良いの?」

 明日の戻り予定を告げて現世への転送手続きを始めると、豊前の表情が再び曇った。具合でも悪いのだろうかと不安になって顔を覗き込んだ瞬間、ガバっと力強い腕で抱き締められた。

「ぶ、豊前っ!?」
「悪ぃ……俺、やっぱ行かせたくねぇ」
「え?」
「俺じゃねぇ別のヤツと逢い引きなんかすんじゃねぇよ」
「……えっ」

 尚も強まる豊前の腕。ちょっと苦しいくらいの腕の中に、誰よりも苦しそうな豊前の声が落ちてくる。豊前の気持ちが知りたい。昨日みたいに自分の考えを押し付けるんじゃなく、ちゃんと豊前の気持ちも訊きたい。豊前の服を掴み、ほんの少し空間を作る。そうして豊前の顔を見つめると、豊前の瞳も私を見つめていた。……こっちの方が良い。まともな話し合いも出来なかった昨日より、何倍も。だけど、心臓の痛みはこっちの方が何十倍も激しい。

「なんでこんなにも行かせたくねーんだって、ずっと考えてた」
「うん」
「俺、ちゃんと言葉にすんの苦手だからよ。考えまくって頭痛くなっちまった」
「ふふっ……うん」
「そんで、気晴らしにトばしてみたらやっと分かったんだ」

 ゆっくり離され、肩に置かれていた手が私の髪に触れる。そうして乱れた髪の毛を丁寧に梳かし「大事にしてーんだ、あんたのこと。好きだから」と言われた瞬間、私の心臓は過去イチ跳びはねた。目的地は1つだと言いたげに血液を顔に集結させ、顔が吹き出しそうなくらい熱を帯びる。つまり豊前は嫉妬していたということだろうか。私のデート相手に。そして私に対して独占欲を抱いていると、そういう解釈で良いのだろうか。

「あのね豊前」
「わーってる。逢い引きする相手が居るっつーのに、こんなこと言っちまって悪かったな」

 豊前の体が2歩後ずさり、そこから再び笑顔を送ってくる。「どうしても言いたくて。勝手で悪い」と告げる時は少し泣きそうな顔をしていた。……ほんとだよ、なんで今言うのかな。私これからデートなのに。今言われたらせっかくのデートの間ずっと豊前のこと考えちゃうじゃん。

「豊前のバカ」
「……悪い」

 豊前が後ずさった分、私が豊前に近付く。豊前が2歩なら私は3歩だ。そうして豊前に抱き着き「大好きな弟とのデートなのに。こんなこと言われたら豊前のことばっか考えちゃうじゃん」と文句をぶつけると、豊前の体が硬直するのが分かった。けれどそれも一瞬のことで、すぐさま動かされた腕によって体を剥ぎ取られる。

「相手、弟なん?」
「うん。あれ? 言ってなかったっけ? 肥前激似の弟が居るって」
「弟が居るってことは知ってっけどよ。いっつも楽しそうに話してるし」
「その弟と1年に1回だけ渋々デートしてもらってるんだ。……あ、去年は受験でお預けだったけど」
「は……ンだ……マジか……なんだよ」

 ずるずると崩れ落ちてゆく豊前。「まじか……っ!」と絞り出た声の後に深くて重たい溜息が溢され思わず吹き出してしまう。弟相手に焦ってたんだって思うと、申し訳ないけど可愛くてしょうがない。私の為にここまで必死になってくれたこと、そしてちゃんと想いを告げてくれたこと。どっちもものすごく嬉しい。

「ねぇ豊前」
「ん」

 豊前と同じようにしゃがんでもう1度豊前の顔を覗き込む。ちょっぴり拗ねた表情を見せる豊前に「帰ってきてからも近侍、お願いしても良い?」と問う。それには食い気味に「たりめーだよ」と返され思わず漏れ出る笑い声。良かった、いつもの豊前だ。

「それともう1つ」
「おう」
「デートが終わったら、迎えに来てくれる? 彼氏として」

 ちゃんと目を見て。自分の気持ちを押し付けるんじゃなく、相手の気持ちも聞くように。喧嘩で得た学びを実践してみたけど、豊前がなんて返すのかは、聞く前からもう分かっている。

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