police (off) man

「ウチは現金払いのみでして……」

 レジを挟んで向かい合うその向こうで、店員さんが申し訳なさそうに眉を落とす。その仕草を慌てて制し「近くのコンビニでおろして来ます」と次の手を打つと、それに対しても店員さんは申し訳なさそうな顔を浮かべてみせた。

「近場に銀行もコンビニもなくて……」
「エッ」

 クレジット決済が出来なくても、ATMさえ見つけられればどうにかなる。そしてそのATMは2022年という時世、公衆電話よりも見つけ易い機械だと思っていたのに。
 じわじわと割合を増す焦り。その焦りに気を取られつつ、どうにか次の手を考える脳が捻り出したのは「電子マネーとかも……?」という縋るような問いだった。

「ごめんなさいねぇ」
「ですよねぇ……」

 案の定、その質問には否を返される。クレジット決済不可、現金払いのみと言われている手前、電子マネーも勿論ダメだろうということは訊く前から分かりきっていた。苦し紛れに捻り出した質問は大した時間稼ぎにもならず、もはや私に残された手は何もなかった。「後日必ず支払います」と約束させてもらうことが出来るならば、絶対に支払いに来る。だけど私はこの居酒屋おすわりに初めて来た客で、常連客でもない。そんな人間が唐突に言う“ツケ”はさすがに信用されないだろう。しかも今の私は2,000円程度の現金を持ち合わせていない客だ。怪しさしかない。とはいえ、この地に異動して来たばかりで周りに頼れる友人も居ないし、他にもう支払いの方法が思いつかない。このままだと私は無銭飲食者になってしまう。

「あの、」

 私の「あの」という言葉に、同じ言葉が凛々しい声で重なった。その声の出どころを辿って後ろを振り向くと、そこには色白な肌に映えるような泣きボクロを浮かべる男性と、前髪を上げて爽やかな顔を全面に見せる黒髪短髪の男性が立っていた。2人を見てハッとする。私がもたついていたせいで自分たちの会計が出来ないのだろう。「すみません……! 先どうぞ」と頭を下げつつ横にズレると、黒髪短髪の男性が1歩前に出てくる。

「いくらですか?」
「え?」
「会計、俺らの分と一緒にしてください」
「え……?」

 1度目の「え」という声は店員さんからも漏れ出た。ただ、2回目の「え」は私の口からしか出なかった。そして「ま、待ってください」という言葉を言い終える頃には、既にレジに金額が表示されていた。その金額を告げられた男性は1万円札を出し、釣り銭を受け取りながら「今日もごちそうさまでした。また来ます」と店員さんに笑みを浮かべ会計を終える。私の「あの」という声に被さったのはこの声だ。その声の持ち主である男性に「あの、お金、」としどろもどろに言うと、「儲かったってことで」とやけに爽やかな笑顔で言葉を返された。……いや、無理だ。ここで簡単に「ラッキー」なんて言える神経は持ち合わせていない。見ず知らずの人に奢ってもらうのはさすがにいたたまれない。

「そういうわけには……支払います」
「大地ー。はやくー」
「分かった分かった」

 いつの間にか店の扉の向こう側に立っていた泣きボクロさんが黒髪短髪さんの名前を呼ぶ。その声に片手で応じ、自身も店の外へと歩き出す黒髪短髪さん――もとい、大地さん。その背中を追うように私も歩みを進め、1度その歩みを止める。そうして店員さんに「次は必ず現金を持って来ます。ごちそうさまでした」と礼を早口で告げてから大地さんの方へと視線を戻すと、彼はそんな私を見つめて緩やかに微笑んでいた。……この人のこと、私全然知らないけど、絶対良い人だ。



「本当にすみませんでした」
「いやいや。出過ぎた真似かと思いましたが」
「正直助かりました……このままだと私、無銭飲食で逮捕されるところでした」

 カバンの取っ手を両手でぎゅうと握り締め、その言葉の恐ろしさを噛み締めていると、泣きボクロさんが「警察官の目の前で堂々と無銭飲食するシーンは見てみたかった気もするけどなぁ」とおかしそうに笑う。その笑い声を嗜めるように「スガ」と短く声を発する大地さん。そのやり取りを不思議に思いつつ、意識を再び大地さんへと向ける。

「恥ずかしながら、現金の持ち合わせがなくて……。コンビニも近くにないみたいなのでATMにも行けず……」
「コンビニないの、不便ですよね」
「まぁ……。でも、土地勘もないくせにフラフラ出歩いた私が悪いので。ほんと、すみません」

 頭を下げて謝る私に「土地勘ないってことは、さすらいの旅人?」と泣きボクロさん――スガさんが尋ねてくる。その言葉に顔をあげると、その頬は思ったよりも赤く染まっていて、スガさんが正常ではないことを知る。どうやら酔っ払っているらしい。へらりとした笑みを浮かべるスガさんの腕を持ちながら「しっかりしろよ。明日が休みだからって飲み過ぎだぞ」と大地さんが窘めてみせても、スガさんには響いていない。その姿に溜息を吐きつつ、大地さんが私に向かって「すみません」と謝ってくるので、慌ててカバンの取っ手から手を離し、体の前でブンブンと振る。

「じゃあアレだ。何もかもが嫌になって行き先も分からない電車に飛び乗って、気が付いたらココに居た――的な」
「いえ、そんなドラマ的なエピソードはなくってですね……。ただ普通に会社の異動辞令で宮城支店で働くことになった社会人です」
「なぁんだ、そっかぁ」
「すみません」

 スガさんがあからさまにいじけたのを見て何度目かの謝罪をすると、お返しのように大地さんが「すみません」と同じ言葉を向けてくる。そうして2人同時に頭を下げて緩く笑ってみせたところで「ほらぁ大地、そろそろ帰んべ。お前は明日も早いんだろ〜?」とスガさんが目をふやかせながら言う。このままだとスガさん、寝てしまうんじゃないだろうか。スガさんの行き着く姿を大地さんも見越しているらしく「分かってるんだったら俺に介抱されないといけないくらい飲むなよ」と溜息を吐いている。きっと大地さんはこれからスガさんを家まで送り届けてあげるのだろう。ならばあまり時間はかけていられない。

「あの。大地、さん」
「はい」
「電子マネーで返金しても良いでしょうか?」
「いやいや。ほんと、お金は大丈夫です」
「そういうわけには……。電子マネーでしたらこの場で返せますし」
「実は俺、電子マネーの類いを使わなくって」
「なるほど……。な、るほど……」

 再び詰みである。使わないということは、アプリ自体をインストールしていないのだろう。そんな相手に“返金するから今からダウンロードしろ”とも言えない。さてどうしたものか。何かしらの一手を思い付こうと必死になっていると「俺もう寝て良い?」とトロンとした声が地面に零れ落ちた。パッと見た先には、目をシバシバさせているスガさんが居て、タイムオーバーを告げられたような気分になる。まずい、このまま終わるわけにはいかない。

「あの! 連絡先交換していただけませんか!」
「え?」
「というか私の連絡先をお伝えするので、後日お時間が取れる時に会ってもらえませんか?」
「ええと……それは……」
「その時には現金も準備出来るので、そこでお返しさせてください」
「いやほんと……そこまでしていただかなくても、」
「いやでも「大地ぃ〜抱っこ〜」……コレ、私の名刺です! 裏にラインのIDも書いたので、IDか携帯番号から連絡もらえると助かります」
「うわっスガ! おい! ……と、とりあず頂戴します」

 大地さんはスガさんにもたれ掛かられた状態でもきちんと名刺を両手で受け取ってくれた。そしてその名刺を丁寧にポケットに入れてから「スガ、頼むから自立歩行してくれ」とスガさんの肩を抱いて歩きだす。その背中に「手伝いましょうか?」と声をかけようとして、大人しく引き下がる。多分私が手伝ったところで邪魔になるだけだ。これ以上の迷惑はかけられない。2人の姿が見えなくなってからふぅっと溜息を吐く。……今度から現金ももう少し財布に入れておこう。



「こんにちは」
「こ、こんにちは!」

 “今週の土曜日会えますか?”というメッセージが届いたのは、あの日から数週間が経った頃だった。数日間は大地さんから連絡が来てないかと逐一スマホを確認したけれど、1週間が経った辺りで“このまま連絡をするつもりがないのかもしれない”という考えに至った。そして、あの時私の連絡先を押し付けるのではなく、大地さんの連絡先もちゃんと聞いておけば良かった――そういう後悔に繋げ、すぐさま“2,000円を返したいから連絡先を教えろ”と迫るのも強引なナンパと同じだろうと思い直した。
 結局は大地さんからの連絡を待つしかないのだと結論付けてから数週間後の連絡。ここまで来ると来ないものとばかり思っていた矢先だったので、連絡を受けた時は少し驚いた。とはいえ連絡をもらうに越したことはないとすぐに“大丈夫です”と返事を打ち、待ち合わせ場所と時間を決め迎えた当日。

 遅れてすみません、と約束の時間5分前に顔を見せた大地さんが謝罪する。その謝罪を立ち上がりながら制すると、大地さんがふっと笑みを浮かべてみせる。彼は夜見ても昼見ても爽やかだなぁなんてお門違いな感想をこっそり抱いていると「座られてください」と椅子に座るよう促された。

「失礼します」
「連絡、遅くなってしまってすみませんでした」
「いえ全然っ! こちらこそ何日にも亘ってご迷惑とお手間をおかけしてしまって……」
「仕事柄、週末に必ず休めるというわけでもなくて。平日はご迷惑だろうなと思っているうちにズルズル来てしまい……」
「そうだったんですね。このまま連絡が来なかったらどうしようって、ちょっと思ってました」
「はは、やっぱり。本当はそうすることも考えたんですけど。なまえさんの場合“儲かった”とは思わなさそうだなと思いまして」
「ですね」

 なまえ呼びなのはきっと、ラインの登録名が“なまえ”だからだろう。そう推測することは容易かったけれど、大地さんはハッとするなり「すみません。慣れ慣れしく下の名前で呼んでしまって……。ついラインの登録名で……」と律儀に詫びを入れてくる。その律義さを微笑ましく思いつつ「大丈夫です。私も勝手に“大地さん”と呼んじゃってましたし」と言葉を返す。大地さんのライン名はこれまた律儀に“澤村大地”とフルネームで登録してあったことを思い出しながら「澤村さんとお呼びした方が……?」と念の為尋ねる。そうすれば大地さんは「このままで大丈夫です」と笑う。なので私も「じゃあ私もこのままで」と笑うと、大地さんはホッとしたように「ありがとうございます」と礼を告げてきた。……お金を返してしまえば私たちのやり取りは終わるのに、という気付きは一旦スルーしておこう。

「お借りした相手が大地さんで良かったです。おかげでこうしてお返しすることも出来ました」
「こちらこそ。お力になれて良かったです」

 机の上に置いた茶封筒をスッと大地さんのもとへと近付け、それを大地さんが受け取る間に傍に置いていた袋を取り出し、それも机の上に置く。封筒をあの日と同じように丁寧な手つきで仕舞ったあと、その袋に視線を這わせ「これは……?」と私の顔に移動させる大地さん。

「お借りしていた間の利息です」
「そんな……これはさすがに貰い過ぎです」

 大地さんと会うと決まってから、ただお金を返すだけなのはどうも申し訳ないと思い、購入に至った菓子折り。あまりにも高価な物は却って気を遣わせるだろうと1,000円程度のものにした。これくらいのサイズなら帰りの道中の荷物にもならないだろうと思ったけれど、目の前の大地さんは「いただけません」と困ったように眉を落としている。どうやら出過ぎた行為だったようだ。

「すみません……。逆にご迷惑でしたね」
「いえその、なんというか……お気持ちは嬉しいんですが、」
「大丈夫です。私甘い物も好きなので、これは持ち帰って自分で食べます」
「甘い物は自分も嫌いではないんですが……」
「大地さん……?」

 どうも大地さんの様子がおかしい。目を閉じ何かと葛藤しているようにも見える大地さんを不思議に思い眺めていると、大地さんの目がカッと開かれた。その目の力強さを見る限り、何かしらの勝敗を決したようだ。

「実は俺、公務員でして」
「……あっ。そういえばスガさんが“警察官”って言ってましたよね?」
「はい。なので、こういうものを一般市民の方からいただくことは出来ないんです」
「なるほど……。そういうことなら、今回はお礼の言葉だけ添えさせてください」

 そう言って袋を引き下げようとした時。「ですが」という言葉で待ったをかけられた。袋の取っ手に手をかけたままの状態で固まる私に「今の俺は警察官ではありません」と言葉を続ける大地さん。……確かに。お金を借りた時も、返金する為に会っている今も、大地さんは私服姿で、警察官には見えない。

「なので、ありがたく頂戴しても良いでしょうか」
「も、もちろんです!」
「ありがとうございます」

 無事に受け取ってもらえたことに安堵すると、それを見ていた大地さんもホッとした顔つきを浮かべてみせる。大地さんってやっぱり絶対良い人だ。それに、警察官としての彼もきっと良い警察官なのだろう。

「あの、」
「はい」
「今度は俺からお願いしても良いですか?」

 大地さんが再び一瞬の葛藤を見せる。今度は何かと戦うというより、戸惑っているようにも見えた。その戸惑いも私の「もちろんです」という即答によって消え「良かったら俺と、友達になってもらえませんか」という言葉を引っ張り出してみせる。

「友達、ですか?」
「次は是非食事を奢らせてください」
「奢り……」
「なまえさんが良ければ……ですが」

 なるほど。友達という関係性ならば、奢られることもそうおかしい話ではないだろう。……だけど、友達というのならば。

「じゃあ、今度はそのお礼の品をお渡ししても良いですか? 友達として」
「……はい。ありがたく頂戴します」
「ふふっ。じゃあ、大地さんの好きな物、訊いてても良いですか?」
「えっ俺が先に訊きたいです」

 早い段階で大地さんのことを“大地さん”と呼ぶ許可を取っていて良かったなと思う。私はきっと、これから先の人生で何度も大地さんの名前を呼ぶことになる――そんな気が、今のうちからしているから。

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