捨てる神あれば

 バカなことをしたなぁと我ながら思う。
 ブラック、ホワイトで言うならば思いっきりブラックの会社に勤め、このままだと色々ヤバいと思った。だから逃げるように辞めた――までは良かった。いや、もうその時点で既に色んな限界値を吹っ飛ばしてしまっていたのかもしれない。
 何を思ったのか私は退職届を突きつけたその足で銀行に走り、全額を引き出し、今まで足を運んだこともないバーに向かっていた。きっと雁字搦めの日常から途端に解放され過ぎたのだ。急に手に入った“自由”を持て余し、履き違えてしまった。
 気が付けば私は無一文になっていた。「ちょっとの金額で良いから」と言われ始めたゲーム。まさかそのゲームで人生の大半をかけて稼いだお金を、早々に塵と化してしまうことになるだなんて思ってもみなかった。それから借用書を書かされたり、個人情報を盗られたりして気がついた時には“負債者”という籠に閉じ込められていた。

「死……?」

 全財産をなくしてしまった今、私に私を支える程の財力がない。それはつまり、当面の間何も飲み食いすら出来ないということ。このままいけば家賃だって光熱費だって払えない。頼れるような相手も居ないし、一生懸命バイトをしても負債を抱えていてはどうしようも出来ない。お金がないことでこれから起こり得る出来事を想像した時、脳内に浮かんだ“死”という結末。
 死にたくはない。ずっとその想いは考えずとも思考のベースにあった。だからこそブラック企業から逃げ出し自由を選んだ。その結果がこれだ。逃げた先にはどうしようもない展開が待っているだなんて。自業自得だってことは分っている。目先の自由に浮かれた結果がこれなんだとしたら、いっそのことソレもアリかもしれないと思ってしまった。思ってしまったらもう、折れるのは時間の問題な気さえした。

「オイ、みょうじなまえ。居るか?」

 家賃が払えなくなることは目に見えている。だから今私の部屋はがらんどうだ。持てるだけの荷物を持って家なしになって、あとは生きれるだけ生きてみようと思っていた矢先。滅多に鳴らされることのなかったインターフォンが鳴ると共に呼ばれた自身のフルネーム。勧誘やらの類ならばこのまま居留守を使おうと思ったけど、どうも私を呼ぶその声にそういう“誘い”の色が見られなかった。

「……はい」
「なんだ、居るじゃねぇかよ」

 勧誘されても「金がない」と事実を述べれば良いしなと居直りつつ、ドアを開いた先。そこに立っていたのは長身の男性だった。髪は金髪だし、雰囲気だってにこやかじゃない。この人はどう見ても勧誘員には思えない。とすれば一体なんの用だろうか。……あぁ、そうか。取り立てか。取り立てならば「お金がない」と事実を言っても見逃してはくれないだろう。

「……価値があるかは分からないんですが、体しか売るものがありません」
「はぁ? 何言ってんだお前」
「お金がないという意味です。せめてもう少しだけ待っていただけませんか」
「……おいおいおい。オレが人から金を無心するようなヤツに見えんのかよ?」

 別にそういうわけじゃない。ただ心当たりのない訪ね人だから、そう紐付けただけだ。そう思いはするけど口にする気力がない。言ったところでなんだというのだ。私の借金が消えるわけでもないだろう。

「コレ。お前の借用書だろ」
「……え?」
「これで借金はチャラだ。良かったな。オレが来たおかげだぞ」
「え、な、んで……」

 消えるわけじゃなく、消してくれた。目の前に居る男が。これは一体どういうことだ。まるで理解が追いつかない。あまりに唐突な展開に目を白黒させていると、対する男はその反応に慣れているかのように「お前が遊ばれた相手をオレっつーか……オレじゃねぇつーか……とにかく。オレらが遊んでやったんだよ。んで、アイツらが持ってた借用書やらなんやらを手にしたからお前らに返して回ってる」とここを訪れた理由を明かしてくれた。

「じゃ、じゃあ私……借金もう返さなくても良いんですか……?」
「まぁそういうことだ。オレ様に感謝しろよな」

 奪い返したのはアイツらだけど……とか、いやでもまぁこうやって返して回ってやってるのはオレだし? とか、よく聞き取れない言い訳のような独り言を呟く姿を眺めつつ、ゆっくりと自身に課せられた“借金”という重荷を下ろした瞬間。体から力が抜け落ちた。

「はっ!? ちょ、オイ!」
「お、お腹空いた……」
「……はぁ?」

 何もしていなくても、生きているだけで体は栄養を求める。そのシグナルを感受する余裕も、何かを口にする余裕もなかった。そのことに気付いた瞬間、とっくに限界を超えていたことを思い知らされた。崩れ落ちた体を起き上がらせることすら出来ない。私はどうやら何かから解き放たれると、うまく調整することが出来ない質らしい。

「お前、最後にメシ食ったのいつだ?」
「……いつだろ。お水なら昨日、」
「はぁ? なんでそんなことになってんだよ……オイお前まさか……」

 この人が行き着いた考えは私の近い未来だろう。別に自殺するつもりはないけれど、私のしていることは緩やかな自殺と言っても良いかもしれない。だから男性の声に何も答えずじっとしていると、面倒臭そうに溜息を吐かれた。

「もしかしてこの部屋も引き払うつもりなのか?」
「まぁ、はい」
「まじかよ……なんでこんなタイミングで来ちまったんだオレ」
「あの、お構いなく……。あとは自分でどうにかしますので」
「自分でどうにかしようとしたからそうなったんだろうが」

 ぐうの音も出ない。けど、そうだからといってこの人になんの関係があるんだろう。借用書やらを取り返してくれたことは本当にありがたいけど、それ以上のことは何も求めていない。だからもう放っておいて欲しい。私なんかもうどうなっても良いのだから。

「オイ村雨。仕事終わったらオレの家に来い。診てもらいてぇヤツが居る。いいか、ぜってぇ来いよ?」

 スマホを耳に当て、何度も念を押しながら言葉を吹き込んだ男性はもう1度私の方を向き手を差し出してきた。意味が分からずまじまじと見つめていると、今度は舌打ちを鳴らし、その手を私の膝裏へと這わせた。その行動に驚く間もなく、気が付けば私は男性に横抱きにされていた。

「え、は? ちょ、えっ?」
「お前まじでなんも食ってねぇんだな。これじゃトレーニングにもなんねぇぞ」
「待っ、やっちょっ、ちょっと」
「どうせ捨てる命だったんだろ。今更暴れんな」

 そう言われてふっと体から力が抜け落ちた。確かにそうだ。もう少しだけの人生なら、もう何が起こっても良い。そう思い名前も知らない人の腕の中で大人しく収まると、男性はもう1度深めの溜息を吐いた。



「なぁ、連れて来たのはオレだけどよ。もしオレがやべぇヤツだったらどうするつもりだったんだ?」

 車に乗せられ“獅子神”という表札が提げられた家に入り、「そこで待ってろ」という指示通りテーブルで大人しく待っていると見る見るうちにテーブルが彩られていった。その全てを準備し終えた男性――恐らく獅子神さんというのだろう。獅子神さんが最後に「お前はコレな」とおかゆを私の前に置きながら反対側に腰掛け、“もしも”の問いを向けて来た。

「そういうものかと受け入れるつもりでした」
「お前……」

 はぁ、と溜息を吐く獅子神さん。この人は出会ってから数時間のうち何度私に失望したのだろう。働いていた時みたいに怒声が飛んでこないだけまだマシだけど、こういう場合はとりあえず謝っておいた方が身の為だ。

「申し訳ありません」
「あ? あー……良いよ別に。オレが余計な世話焼いてる部分もあるし」
「えっ、」
「どした?」

 驚いた。謝った方がマシなだけで、謝ったら謝ったで怒りのボルテージは増すものだとばかり思っていたから。こんなにもスッと矛を収められたことが今まで1度もなくて、思わず口を開けた私に獅子神さんが心配そうな表情を浮かべてみせた。

「みょうじ?」
「あ、すみません……。たった1度の謝罪で許してもらえるとは思ってもいなくて」
「お前……だいぶヤベェ環境に居たんじゃね?」

 そう言ってもう1度溜息を吐く獅子神さん。もしかして、この溜息は私自身というより、私が陥っている状況に対してのものだったのだろうか。獅子神さんはずっと、私を憐れんで世話を焼こうとしてくれていたんだろうか。もしそうだとしたら色々と辻褄が合う。……そんな、初めて会った人間にどうしてここまで……。

「私……仕事も辞めちゃったし、見ての通り無一文なので、何も返せません。だから、何も頂けません」
「……まぁ確かに。ダタでやるっつぅのはオレとしても割に合わねぇと思う」

 自身の前に置いたサラダに手を付け、「でもよ、そういうものも借金と同じじゃねぇか?」と1度では噛み切れない言葉をサラダを飲み込む代わりに吐き出す獅子神さん。「せっかくオレが作ったんだし、おかゆくらいは何も考えず食べろ」と命令に近い口調で言われると自然と従ってしまう。獅子神さんは私が小さく手を合わせスプーンを持ったのを見届けた後、「今日のことに恩を感じるんなら、その恩は後から返せば良い」と言葉を続けてくる。

「どうやって返せば……」
「お前、ココで世話人として働けよ」
「ココで……ですか?」
「色々あってあと2人世話役が居るけどよ。もう1人くらい居たって構わねえ」
「そ、そんなに……?」

 この料理が出来上がるまでの間、獅子神さんは誰の手も必要としていなかった。それくらい1人でも要領良く物事をこなせる人が、世話役なんて本当に要るのだろうか。
 戸惑いや疑問が雰囲気に滲んでしまっていたらしい。私の表情を見て「ま、まあ……色々な。色々あって、どうしても雇うことになったんだよ」とあまり補足になっていない補足を付け足してきた。

「雇うからには金も出すし、オレへの恩返しにもなるだろ」
「でもお金を貰ってしまったら恩返しの意味が……」
「そこら辺は……まぁアレだ。オレなりの考えがあってのことだ」
「はぁ……、」
「とにかく! 捨てるつもりだった命、オレが拾ってやるって言ってんだよ」
「ありがたいお話ではあるんですけど……良いんですか? 本当に」
「いーよもう。ここまで突っ込んじまったし。最後まで面倒見てやるよ」
「……ありがとうございます」

 他人の優しさなんて。誰かの親切心だなんて。この世に本当に存在したんだ。その温かさに触れて思わず胸がきゅっとなる。それが瞳から零れ落ちそうになったのを感じ慌てて顔を伏せると、目の前の獅子神さんがふっと笑う気配がした。

「つーかアイツ全然来ねぇじゃねぇかよ! ……あ? マジかよ」
「どうかしたんですか?」
「知り合いに医者が居るんだけどよ。みょうじのこと診てもらおうと思ってたんだが、アイツ手術優先しやがった」

 そう言って前の前にかざされたスマホには“あなたより手術の方が大事だ”とぴしゃりとした文面が浮かんでいた。こんなぞんざいな返事だというのに、獅子神さんは本気で怒っている感じはしない。こういうやり取りが許される間柄ということなのだろう。少し羨ましい。私にはそういう関係性を誰かと築く余裕すらなかったから。

「仲良しなんですね」
「仲良かねーよ。向こうもオレのことダチだなんて思ってねぇって」
「そうなんですか?」
「そうだろ。じゃねぇとアイツの為に料理まで用意してやったオレのこと、放るわけがねぇ」
「でもそれだと、獅子神さんはムラサメ? さんの為に料理を用意してあげたってことになりますよね?」
「…………ちげーよ。これはオレの為だ」
「えぇ?」

 真逆のことを言う獅子神さんがおかしくて、つい吹きだすとその顔を見た獅子神さんもほんのちょっと口角を緩めてみせる。そうして互いに微笑んだ後、「食べきれなかった分は明日みょうじが食べて良いぞ」と獅子神さんが告げてくる。

「賄いだから金うんぬんは気にすんな」
「……はい。ありがとうございます」

 全てを手放したとしても。生きている限り、また新たな何かに出会うことが出来るらしい。

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