八百長

「ねぇ唐沢さん。いい加減異動願い、聞き入れてくださいよ」
「んー? うーん」

 唐沢さんの秘書になってもう少しで4年。上司と部下という関係性に“恋人”が加わってからは3年程が経つ。つまり私はこの異動願いを約3年言い続けていることになる。それなのに目の前に居る彼はあまり深くは受け止めてはくれない。

「別にボーダー自体を辞めたいって言ってるわけじゃないんですよ?」
「そうだね。それは分かるよ」

 それが分かっているのならば、一体何を分かっていないのか。むぅと膨れる頬をそっと撫でてくる指の腹は、いつもと変わらぬ温度を宿している。少しかさついた、大人の手。その手が私は堪らなく好きで、いつも意図も容易く手懐けられてしまう。今日もこの熱に気持ちを委ねてしまいそうになるけれど、その気持ちに慌ててストップをかけキュッと瞳に力をこめて唐沢さんを見据える。

「でも、私もう唐沢さんの秘書を続ける自信がないです」

 理由こそ恥ずかしくて口には出来ないけれど、きっと唐沢さんは見抜いている。私の中にある理由は、本当に幼稚なものだ。“彼氏でもある上司の働く姿が格好良過ぎて見てられない”なんていう思春期の女の子みたいな理由、きっと聞く人が聞いたら呆れるだろう。なんなら鼻で笑われるかもしれない。だけど、1度自身に置き換えてみて欲しい。あれだけの仕事量を抱え、それに対して一切の不満や愚痴を溢さず、そして迅速に完璧にこなしてみせる唐沢克己という男が自分の彼氏で、その彼氏の格好良い所を間近で見つめながら仕事をしないといけないのだ。……無理だ。
 その隣に居る自分のぽんこつさが浮き彫りになって、唐沢さんに嫌われる可能性だって近い将来にあるかもしれない。そうやって唐沢さんとの恋人関係すら終わってしまうかもしれないのなら、せめて仕事中くらいは距離を置いておきたい。それが私の望みだというのに。

「……うぅん。今回は流されてくれないか」
「撫でられるだけじゃそう何度も流されませんよ」
「そう? じゃあ撫でる以上のことをすれば良いのかな?」
「そ、そういう意味じゃなくて、」
「どちらにせよ、俺は今なまえちゃんの上司じゃない。君の彼氏だ。仕事の話はナシで頼むよ」
「でも……プライペードな時間じゃないとこんな話する時間ないじゃないですか」

 唐沢さんの家に置かれた高級なソファー。大人1人が横たわってもなお、幾分のスペースを擁する程のソファーの一ヵ所に密着して座る私と唐沢さん。頬に這わせていた手を髪の毛へと移し、丁寧な手つきで梳かれるとつい唐沢さんの言い分を聞いてしまいそうになる。確かに、この距離感は仕事中では味わうことが出来ないし、私だってプライベートな時間に仕事の話はしたくない。だけどこればかりはしょうがない。
 
「だから……んっ、」

 もう一押しの言葉を吐こうとした瞬間、髪を撫でていた手が後頭部にまわされそのまま固定されてしまった。そうして私の逃げ道を塞いだあと、止めと言わんばかりのキスをされてしまえばもう私の言葉たちは意味を成さない。あぁ、もう。今日もダメだった。せっかくここまで喰い下がれたのに。

「あ、そうだ。明日商談入ってたよね?」
「……あ、はい。明日は三門商事と11時ですね」

 何度かくっ付いては離れを繰り返したあと。ふっと唐沢さんが顔を離し言葉を漏らす。その言葉にサッと返事をすれば唐沢さんは再び仕事モードの顔つきで言葉を返してくる。

「あそこの社長甘い物が好きだったっけ」
「はい。鯛餡吉日の鯛焼きが大好物だと伺ってます」
「じゃあ明日は先に鯛焼き買ってから行こうか」
「そうですね。既に鯛餡吉日には予約の電話を入れてるので、時間に行けば出来立てを受け取れる手筈になってます」
「さっすがなまえちゃん。やっぱり俺の秘書はなまえちゃんだけだよ」
「…………あっ。仕事の話」
「うん。これで終わり」
「え、ちょ、まだ私の話……っ」

 自分の話したいことだけ話して。その会話で“私は立派な秘書だ”って言ってくれて。更には手放すつもりもなければ聞き入れるつもりもないという意思さえも示してみせて。……やっぱり唐沢さんは出来る男だ。出来過ぎて太刀打ちが出来ない。そう分かっていても、私はこれからも同じ要求をし続けるのだろう。その先で本当に求めているものがなんなのか、唐沢さんは気付いてくれるし、こうしてそれを差し出してくれるのだから。

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