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「ごめんなさい……ごめんなさい」

 頬にいくつもの涙を流し、縋るように。その審神者は最後まで泣いていた。こんな風に泣くくらいなら、この選択を選ばなければ良かったのに。私は頭の隅でぼんやりとそんなことを考えていた。



「これより、時の政府の命に基づきこの本丸の解体処理にとりかかります」

 気乗りしない命を受け向かった先は、あの審神者が居た本丸。そして目の前で私をじっと見つめている男士は刀帳ナンバー118……自身が付けている仮面にいちいち男士の情報が表示され、それを鬱陶しく思いつつ「へし切長谷部ですね。この本丸で近侍をしていたと聞いています」と目の前の男士の名を呼ぶ。

「今回の解体処理の補佐もアナタにお願いしたいのですが」
「……それが主命であれば」

 悔しそうに、そして悲しそうに唇を噛み締めながらこちらの要求を受け入れる様子は、見ていて少し痛々しい。この本丸を解体するということは、主であった審神者がどういう選択をしたということか。それを分かっているのだろう。

「アナタも大変な目に遭ってしまいましたね」
「主が選ばれたこと。そこに異を唱えることなど俺には出来ない」
「そうですか」

 へし切長谷部という男士はどの本丸においても忠誠心の高い男士だ。そしてそれはこの本丸も違いない。これだけの信頼関係を築けていたのに、どうして審神者はこの本丸を手放すなどという選択をしたのだろうか。



「こちらです」
「では私は各資材の残数を確認しますので。また終わったら声をかけます」
「俺は執務室で待機しています」

 執務室での処理を終え、次に向かった場所は鍛刀や手入れに必要な資材を保管している資材部屋。そこに案内してくれたへし切長谷部に礼を告げ、ひんやりとした空間に足を踏み入れるとすぐそこで数振りの男士が相対するように待ち構えていた。
 男士の姿を捉えるなり瞬時に情報を示す仮面に構わず、目の前で仁王立ちしている粟田口の短刀たちに声をかける。

「そこ、退いてください。作業が出来ません」
「ご、ごめんなさい。でも……ど、退きません」
「五虎退」
「うっ……うぅ……ごめんなさいぃ……」
「そこまでにしてやってくれよ。コイツ泣いちまう」
「薬研藤四郎。アナタは粟田口の刀を纏める役割を請け負うことが多いと聞いています。アナタが五虎退を説得してください」
「おいおい。俺っち、確かにコイツらの面倒見ることも多いけどよ。この本丸には俺っちよりも面倒見の良い兄が居るんだぜ。……知ってるだろ?」

 確かに、この本丸には一期一振という太刀が顕現されている。その名を出した上でここに居るということは、宥める為でなく、自身も他の藤四郎と同じ意志を持っているからだと言いたいのだろう。

「ねぇ、本当にこうしなきゃダメなの?」
「こう、とは」
「だから、ボクたち。本当にこの本丸を去らなきゃダメなの?」
「……それがこの本丸の主だった者の選択ですから」
「主さん、どうして?」

 刀帳ナンバー45、乱藤四郎。基本的に明るい男士なはずなのに、今目の前に居る乱藤四郎はその表情にどこか暗い影を落としている。五虎退や薬研藤四郎、そして乱藤四郎や他の粟田口が手合わせや畑仕事などを放りここに集結している。それでもここに一期一振が居ないということは、一期一振も同じ意志であるということだろう。
 解体されるというのに。審神者がこの本丸を放棄したというのに。どうしてここに居る男士は皆今でも主のことを想い続けているのだろう。そのことにチクリと胸が痛む気配を覚えつつ、「ここでどう足掻かれても結果は同じです。私がこうしてここに派遣されている以上、事は進めるしかないのですから」と強い口調で言葉を放つ。そうすればようやく短刀たちはその場を退き、奥へと進む私の背中をじっと見つめていた。



「おや。これはこれは。あまり見かけぬ身なりをしているな」
「三日月宗近。ここで何を」
「何を、と訊かれればそうだな。“日光浴”とでも答えようか」

 変わらぬ様子で微睡む姿に、思わず力が抜け笑みが零れそうになった。それを仮面の下に押し留め、「もうすぐこの本丸はなくなるのです。三日月宗近、アナタも作業に当たってください」と窘める。

「ふむ。作業とやらは一体何をすれば良いのだろうな」
「時の政府より通達が来たでしょう。“刀解”か“他の本丸へ行くか”どちらかを選べと」
「はっはっ。そうだったそうだった」
「どちらを選ぶにしても、身辺整理が必要でしょう。いつまでもサボってないで、早く作業を行うように」
「主のようなことを言うのだな」
「なっ、」

 驚いた。政府遣いの者でしかない私に、こんなことを言うだなんて。しかもやけに嬉しそうな顔色でおかしそうに言うものだから、こちらが言葉を詰まらせてしまう。というか、ここに居る男士は皆審神者の顔も覚えていないはずなのに。どうしてこんなことを言うのだろうか。

「主がこの本丸を手放すと決断したことで、俺ら刀剣男士の中から主に関する記憶は全て消された」
「そのように聞いています」
「骨喰はさぞ悲しかっただろうな」
「……私に言われても困ります」
「はっはっ。そうだな。これはただのじじいの戯言と思ってくれ」
「他の作業がありますので。私はこれで」
「もう行ってしまうのか」
「アナタも早く作業に当たってください」
「そうだな。俺はもうしばらくこの場に居るとしよう」
「三日月宗近、」
「そうでないと居場所がなくなってしまうだろう?」
「……え?」
「主がまたいつか、この場所に戻って来たいと思えた時。俺はその居場所とならねばならんからな」

 どうやら三日月宗近はその場から動くつもりがないらしい。それを理解し溜息に似た息を吐きその場から離れる。どうしてここに居る男士は皆こうなのだろうか。誰も刀解の選択も、別の本丸に行く選択もせず、いつも通りの生活を営み続けている。もうこの本丸は主の居ない本丸だというのに。いつまでもいつまでも居ない主を想い続けている。あの主が涙を流し別れを惜しんだように、男士たちも主の帰りを待ち望んでいる。

「帰れるわけもないというのに」

 何度も何度も泣いていた審神者。その選択を選ぶまでに幾度も悩み苦しんだのだろう。だからこそ、簡単に戻れぬよう本丸の解体を時の政府に依頼したのだ。それでも、こうしていつまでも本丸を保とうとしている男士たちを見ていると、どこかやるせない気持ちになってしまう。……あの審神者は今、どんな気持ちなのだろうか。



「終わりました」

 一通りの作業を終え、へし切長谷部が待機している執務室に顔を覗かせる。するとへし切長谷部は襖のすぐ傍に座していて、近い距離でその顔を見下ろすことになった。その顔はとても嬉しそうな表情からすぐさま移ろい、ふっと視線を逸らされる。へし切長谷部は主が部屋に戻って来るなりいつもこうして出迎えていたのだろう。クセ付いてしまった習慣に虚しさを覚えていることが分かり、少し罪悪感を抱く。それでもその罪悪感に囚われないように「残りの作業はまた後日行います」と今後の予定を口にするとへし切長谷部がすっと立ち上がり、初めて顔を合わせた時のような表情で私を見つめてきた。

「では最後に、茶でも用意いたしましょう」
「いえ。長居するつもりはありませんので」
「そう言わず。厨に居る燭台切と歌仙にも話は通しています」
「……はぁ」

 きっと今頃たいそうなご馳走が用意されているのだろう。それを無下にするのも憚られ、戸惑いながらも首を縦に振る。政府からは泊まり込みになっても構わないと言われているし、夕食をご馳走になっても良いだろう。ただ、それを食べたらすぐにこの本丸から立ち去る。それだけは固く決意しながらへし切長谷部と共に広間へと足を向けるとそこにはこの本丸中の男士が集まっていて、思わず息を呑んだ。

「な、何……」
「驚いたかい?」
「鶴丸国永」

 刀帳ナンバー130、鶴丸国永。鶴という名にふさわしく、白を基調とした衣服と、さらさらとした髪の毛も白に染める男士は私の様子を見ておかしそうに笑う。彼は驚きが何よりも好きな男士だ。この集まりも鶴丸国永によって集められたのだろうか。だとしても、たかが政府遣いの者を驚かすだけの為だけにどうしてここまで。……私に何を言っても無駄だというのに。

「もし、アナタ方が政府の行いに異を唱える為にここに集まったのだとしたら。それは無駄なことです」
「おんし。そがなこと、本気で言いゆうがかえ」
「陸奥守、吉行」

 仮面に表示されるナンバーよりも早く、その男士の名を呼ぶ。もはや反射に近かった声に慌てて取り繕いの声を追わせどうにか体裁を保とうとしても、彼の瞳が揺らぐことはない。さすがこの本丸に長く居る男士なだけあるなと、脈打つ心臓をひた隠しにしながら「これは政府の決定ではないのです。ここに居た審神者の、意志です」と言葉を紡ぐ。

「……そがにおじんでくれ」
「怖がってなど、」

 目の前に居る男士たちを怖がってなどいない。ただこれだけの男士が顔も思い出せないであろう審神者を想い慕っていることに愕然としているだけだ。全員今も主の帰りを待っているという事実に、どうしようもなく打ちのめされてしまったのだ。……どうしてあの審神者は、これだけの信頼関係を築き上げた男士たちを手放すという選択をしたのだろうか。きっと今頃後悔しているに違いない。

「……何度も言いますが、私にはどうすることも出来ません」
「おじったらいかんぜよ」
「だから、」
「わしらぁの意志と、おんしゃの意志。それが一致しとる。それだけでえいやないか」
「……え」

 私の意志。今、彼は確かにそう言った。その言葉がにわかには信じられず、思わず目線に動揺を浮かべてしまった。彼はこう見えて聡い男士だ。それだけで自身の考えに確信を得たらしく、少しだけ泣きそうな顔になりながら「戻って来とうせ」と声を震わせてみせる。

「なんで……どうして」
「俺らが我が主のことを忘れられると思うか?」

 我が主よ――三日月宗近……三日月さんから静かに放たれる確信。それを受けた私は、ただただ茫然と立ち尽くすことしか出来ないでいた。ここに居る男士たちと決別すると決めたあの日、確かに男士たちの記憶から私という存在は消えたはずなのに。今もこうして顔も見えないように仮面を付けているというのに。どうして彼らは記憶に存在しない主を探し当てることが出来たのか。その答えは私たちが過ごして来たこの本丸での日々に在る。

「私は……弱い人間なのに」
「主、強い人間の中にも弱さは在ります。その弱さばかりに目を向けるのはおやめください」
「長谷部……でも、」
「主が懸命に職務を全うされていたことは、傍で仕えていたこの長谷部が誰よりも知っています」

 “自本丸の解体作業は己の手で責任を持って行うように”なんて、政府もひどい命を下したものだ。懸命に鍛錬して、敵を倒して強くなっていく男士たちの主を私なんかが務めて良いのだろうかなんて不安からこの本丸を投げ出した私に、再びこうして本丸に足を向けろだなんて。それでも、私という存在を忘れた男士たちを見たら、私も吹っ切ることが出来るかもしれないなんて甘い考えを抱いてここに来たというのに。誰も本丸を手放した主に怒ることも、絶望することもなく、主を信じて日々を過ごしている様子を見た時、私はどうしようもなくなった。そしてこうして皆と顔を合わせ、男士の想いを聞いて自分が選んだ選択のとんでもなさに打ちひしがれている。……やっぱり、来るんじゃなかった。こんな後悔を抱いたところでもうどうすることも出来ないというのに。

「ごめんなさい……ごめんなさい」

 頬にいくつもの涙を流し、縋るように。あの時の私がそうしていたように。その場にへたり込んだ拍子に外れた仮面にポタポタと涙を落としながら、何度も何度も謝罪を口にする。こんな風に泣くくらいなら、この選択を選ばなければ良かったのに。頭の中を後悔でいっぱいしながら男士の前で泣き声を上げ続ける。

「おじったらいかんぜよ、主」
「陸奥守さん……」
「こん本丸は、まだなんも変わっちょらん」
「でも、」
「主の気持ちも、変わっちょらんがやろ?」
「でも私は……とんでもないことを、」
「主よ、主が戻りたいと願う本丸は俺らが守っているぞ」
「三日月さん……。良いのでしょうか……。私なんかが主に戻ろうだなんて」
「何、この本丸の主はこの世に1人しかおらんだろう」

 私という存在を消されても。この本丸に残る私との思い出を頼りに私という存在を繋ぎ留め、忘れようとはしないでいてくれた男士たち。その存在を、私の中から消し去るだなんて到底無理な話。……もし許されるのならば。もう1度、みんなと一緒にこの本丸で日常を過ごしたい。今度こそ、間違った選択はしたくない。

「こんなダメで弱い主ですが……許してくれますか?」

 涙を浮かべ窺うように見上げた先で、彼らはそんな私が良いのだと笑ってくれた。私はこの先一生この光景を忘れることはないし、手放すこともしない。そう思えたこと、思わせてくれたこと。それらすべてにもう1度「ごめんなさい……ごめんなさい」と言葉を繰り返し、最後に出た「ありがとうございます」という言葉に、後悔は抱かなかった。

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