幸せはお安い

 焼きそばパン目がけて伸ばそうと思った手をふと止める。伸ばすといってもそこまで大きな動作ではなかったので、周囲の人間に影浦が焼きそばパンを求めていたことは伝わっていないだろう。
 視線を他にめぼしいパンがないだろうかと這わせようとしたが、それもすぐに止めた。いつもより人に溢れる食堂は、その分影浦に刺さる感情も多い。そこでようやく影浦は今日がパン安売りデーであることに気が付き、誰にも聞こえないよう心の中で舌打ちをした。

 他に何かを食べる気にもなれず、影浦は人の隙間を縫って食堂をあとにする。その頭の隅でぼんやりとなまえの怒る姿が浮かぶが、気分じゃないものはしょうがないだろうと脳内の相手に言葉を返した。



「あ、居た居た」
「おう」

 ひと気が少なく、更には開放的な空間が広がる屋上は影浦の定位置だ。今しがた顔を覗かせたなまえからは「カゲの住処」とも言われたことがあるくらい、影浦はここに腰を下ろしている。人が居ないからこそ屋上を選んでいる影浦だが、なまえや北添など気心が知れた仲間が一緒に居ることは苦ではない。それを皆が知っているからこそ、こうして影浦を尋ねてよく屋上にやって来る。

「あれ? ご飯もう食べたの?」
「……あー。まぁ、な」
「ふぅん? 本当に?」
「あー、本当だ」

 なまえが影浦の嘘を素直に聞き入れないのは、影浦が「気分じゃない」と言ってご飯を食べないことが多々あるからだ。それを正直に伝えると、なまえはいつも「なんでも良いから口に入れなさい」と母親のような口調で怒ってくる。それを数回重ねると影浦自身も“嘘”というその場しのぎを身に付けるようになるが、それも度を超すといつかはバレるのだろう。目の前のなまえを見る限り、今のところはまだ大丈夫そうだと影浦は頭の中で推し量る。

「もうお腹いっぱい?」
「まぁまぁだな」
「そっか。じゃあコレ、食べてって言ったら貰ってくれる?」
「これ……」

 なまえから差し出されたのは、先ほど影浦が買いそびれてしまった焼きそばパン。すんでの所で攫われていったものがどうして再び目の前に――。奇妙な再会を果たしたパンとじっと見つめ合っていると、「今日パン安売りデーだったでしょ? それにテンションあがって買い過ぎちゃって」となまえが照れ臭そうに言葉を付け加える。パン安売りデーは月に1回とそれなりの頻度で開催される催しものだ。それにテンションをあげて食べきれないほどの量を買ってしまうなまえ。その皺寄せで焼きそばパンが買えなかった影浦自身。かと思えば自身のもとにまで運ばれて来る焼きそばパン……。脳内でルートを思い描き、影浦はつい「ふはっ」と吹きだしてしまった。

「え、どした?」
「なんでもねー。ん」
「お金は要らない。食べてくれるだけでもありがたいから」
「そういうわけにもいかねぇだろ。ほら」
「ありが……え、これ普段の金額だよ? 今日は安売りデーだよ?」
「配達料だ」
「えー……申し訳ない……」

 ごめんと眉を下げ「食べてくれてありがとう」と言いながら屋上から立ち去って行くなまえ。その姿を見送ったあと、影浦は焼きそばパンにかぶりついた。数回咀嚼し呑み込めば、求めていた味を味わうことが出来たおかげで胃が満たされてゆく。そのまま視線を空へと向け、ゆっくりと流される雲を眺めていると三門市の束の間の平和を実感する。
 影浦自身、ボーダーに入った理由はそんな大層なものではないが、こういう平和を継続させているのだと思うことに嫌な気分は感じない。むしろ、ちょっぴり誇らしくもある――なんて。焼きそばパンを食べて空を見上げるだけの行為で、ここまで思考を巡らせるとは。平和ボケも良い所だと己自身に失笑を浮かべている時。

「カゲ! さっきのお金でジュース買って来た!」

 再びなまえが現れ、その両手にパックジュースを2つ掲げ満面の笑みで近寄って来た。なまえは影浦の近くに座り「コレ、カゲがよく飲んでるやつでしょ!」と自慢げにそのうちの1つを手渡す。まったく律儀な人間だと思いつつ、影浦はそれを受け取りすぐさまストローを差し込み口に含む。

「このジュースもね、期間限定で安かったんだ!」
「へぇ、そうなのか」
「うん! なんか今日、めっちゃ良い日!」
「そうか?」
「だって、パン安売りデーだし、食べきれなくて持って帰ろうって思ってたパンを美味しいうちにカゲに食べてもらえたし、ジュース安売りしてたし! ラッキデー!」
「ふはっ。随分安上がりな幸せだな」
「いーの。これくらいの幸せで」
「へぇ……そういうもんか」

 ニコニコと微笑みながらパックジュースを飲むなまえ。その姿は今の言葉が決して嘘や大袈裟なものではないことを証明している。その姿を見つめた影浦は、“まぁ確かに”となまえの言葉に納得させられる。

「まぁ、そういうもんか」

 幸せとは、案外安上がりなものなのかもしれない。

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