101回目の終止符

社会人設定


 終わった……いや、今日の所は切り上げと言った方が正しい。その区切りを付ける為の伸びを行い、流れ作業で時計に視線を這わす。……21時54分。あとは手早くご飯とお風呂を済ませて泥のように眠るという作業が家で私を待っている。そしてそれはまた明日もだ。

「風間さん……ご飯「行かん」……ですよねぇ」

 “ご飯行きませんか”と全てを言う前にバッサリと切られてしまったお誘い。これでもう何十回目だろうか。私ももうこの誘いに“NO”が返ってくると分かりきってすらいる。それでもこうして口癖のように訊いてしまうのは、もはや習慣――流れ作業に近い。はじめはいつも決まった作業しかしない日常に変化が欲しくて、“風間さんというお堅い上司とご飯を食べに行く”なんてイレギュラーを味わってみようと思ったのがキッカケだった。

「俺らはまた明日ここに来て働かねばならん。ならばさっさと帰って寝ろ」
「でもぉ、」
「体調管理するのも社会人の基本だろう」
「はぁい……」

 とはいえ。初めて誘った日にこうして断られてからというもの、風間さんの対応に変化が現れることはなかった。むしろ今では「行かん」の3文字に短縮されてしまう有様。変化を求めた行為ですら日常の流れ作業の1つになっているのが皮肉たらしい。全ては忙し過ぎるこの仕事が悪い。……また明日も同じように残業して、同じように疲れて、同じように1日を終えるんだろう。そして、それが私の人生となってゆくのだろう。



「分かった」
「……は?」

 思わず上司に向かってこんな言葉遣いになってしまうのも無理はない。あれから数回にわたって同じ3文字を突き付けられ続けたというのに。突然3文字が4文字に変わり、返事の意味すら180度変化を付けられたのだから。一体どうした。風間さんに何があった。

「……私に死相でも出てますか?」
「は?」
「いやほら……私があまりにも死にそうな顔してるから、憐れに思われたのかなって」
「縁起でもないことを言うな」

 赤い瞳を細められ、慌てて「すみません」と謝罪を入れると矛は収められた。一体どうして風間さんはご飯を食べに行こうと思ったのだろう。その理由は分からず仕舞いで、グルグルと疲れた頭を回転させていると「どこか行きたい場所はあるのか」と訊かれ思考が止まった。

「行きたい場所……ですか」
「これだけ何度も誘ってきたんだ。どこか行きたい場所でもあるんだろう」
「それは……」

 ない。そんな場所、どこもない。だってどうせ断られるんだろうって腹積もりでいたし。考えてもなかった。…………私、かなり失礼なのでは?

「すみません、今から調べます。本当にすみません、」
「別にないんだな」
「……すみません」
「何を謝る。希望がないなら俺の知ってる店でも良いか」
「は、はい! 全然……問題ありません。すみません、」

 二言目には謝罪を述べる私に、風間さんはふぅっと溜息を吐くけれど。こればかりは無理だ。残業を終えた上司にご飯まで付き合わさせるだけでなく、その店はまったく調べていないだなんて。社会人ならば最低限お店の候補くらいは調べておくべきだった。……私は、風間さんから何を教わっているんだろう。



「女性が好む店を知らなくて悪い」
「全然……っ! ありがとうございます」

 連れてきてもらったお店は学生も通いやすい価格に設定された居酒屋だった。そのことについても風間さんは謝ってきたけど、そんなことで腹を立てる立場ではないと自覚している。それどころか「昔ながらの仲間とよく来る場所なんだ」と聞いて嬉しさすら感じているくらいだ。風間さんの馴染みのお店に連れてきてもらえるだなんて。とても貴重なイレギュラーを経験させてもらえている。

「適当に頼んだが良かったか」
「はい。私の好きな物ばかりで……ありがとうございます」

 慣れた様子で注文を終え、メニュー表を片す風間さん。全ての動作が手慣れているので、本当によく来るお店らしい。にしても風間さんのことだから、もっと高級感溢れるバーとかに行ってるのだと思ってた。ちょっと意外で、だけどこうして反対側に腰掛ける姿はこの景色に馴染んでいて、なんだか不思議な気分だ。

「なんか、風間さんが若く見えます」
「若く見えるとはなんだ。普段の俺は老けて見えているのか」
「いえ。そういうわけじゃないんですけど」
「そういうわけに聞こえるがな」

 普段は滅多に無駄話をしない風間さんが、こうして雑談に付き合ってくれているせいかもしれない。キリっとした雰囲気を緩め、居酒屋という場所に馴染んでいる風間さんはなんだかすごく若々しい……いや、確かに風間さんはまだ若いんだけれども。年相応、ということか。

「普段が大人っぽ過ぎるんですよ」
「褒められているのか、それは」
「もちろん。風間さんのことはめちゃくちゃ尊敬してるんですよ」
「あまりそうは思えんがな」
「えっ、なんでですか。私風間さんにものすごく懐いてるんですけど」
「懐かれている自覚はある」
「ほぉ?」

 尊敬されている感覚はないけど、懐かれている自覚はある――一体どういうことだ? 風間さんの言葉がよく分からなくて、間抜けな声をあげる。そうすれば風間さんはゆるりと視線をあげ「懐かれていないと100回近くメシに誘われることもないだろう」と私の誘いを持ち出してきた。……100回はさすがに言い過ぎ……でもないな。

「しつこくてすみません……」
「構わん。嫌ではなかったしな」
「そうなんですか?」
「むしろ、」
「……?」

 むしろ、のあと。少し間をあけられ首を捻る。そうすれば風間さんはすぅっと息を吸い、「疲れた体を早く労わって欲しいと心配していた」と続きを吐き出した。
 心配していた。風間さんが。私のことを。言われた言葉の意味を理解するのにこちらも少し時間をかけてしまったけど、確かに風間さんははじめの頃よくそんなことを言っていた気もする。……そうか、風間さんはずっと私のこと心配してくれていたのか。

「ありがとうございます」
「ちょうど仕事の切りも良かっただろう」
「そうですね。来週からはちょっと余裕があるかもです」
「だから今日は今までの労いだ」
「風間さん……」

 届けられたビールを手渡され、「ありがとうございます」ともう1度礼を告げながらそのグラスを鳴らし合う。グビッと煽ったビールは家に帰って飲むものよりも何倍も美味しくて、私はすぐにグラスを空にしてしまった。

「お前……ペース配分には気を付けろよ」
「大丈夫です。家だったら既に1缶空けてます」
「ふっ、そうか」

 風間さんが笑ってくれたことが嬉しくて、私もつい「ふふふ。もう1杯頼んでも良いですか?」なんて言いながら笑みを零していた。



「風間さん……あの、お願いします。今日は私が誘ったんです」
「だからどうした。その誘いに乗ったのは俺だ」
「でも……っ! お願いですから私にも……」
「タクシーを呼ぶ。みょうじはそれに乗って帰れ」
「いやあの……! せめて半分だけでも出させて下さい……!」
「あの店は安くて美味い。それが魅力だ」
「それは充分味わいました。でもだからといって奢ってもらうのはちょっと……!」

 店先を出てから、私たちは似たようなやりとりで堂々巡りをしている。というか、風間さんがまったくもって相手にしてくれない。「安い店だ。みょうじに出してもらうまでもない」なんて言うけど。金額の大きさではないのだ。気持ちの問題だ。

「あの、本当に……奢ってもらいたくて誘ってたわけじゃないんです……!」
「知っている。ちゃんと分かっているから安心しろ」
「風間さん……!」

 懇願に近い声色になった時、ようやく風間さんが「では」と私に向き合ってくれた。私がほっとして財布からお金を取り出そうとすると「次は俺から誘う」という言葉がそれを止めさせ、私はポカンと口を開き風間さんの瞳を見つめた。次は俺から……? え、次?

「次があるんですか……」
「駄目か」
「……駄目じゃないです」
「では、次は俺から誘う。それなら良いだろう?」

 風間さんの言う“良い”が何を指してのものかはよく分からないけど。良く分からなくても、「喜んで」という二つ返事しか私にはない。

 多分この先、私から風間さんを誘うことはもうないだろう。

BACK
- ナノ -