サイン

――会えないか

 約3年ぶりの連絡。メールの差出人には“影山”の名前が宛がわれていて、影山があの時からメールアドレスを変えていないことを示していた。というか影山は携帯を持ってから1度もアドレスを変えていない。
 何も変わらない彼が、こうして3年の時を経て関係性に変化をつけようとしてきた。私が知らない3年間。烏野で過ごしたバレー人生。そこで過ごした時間はきっと、私が知っている時間よりも有意義なものだったのだろう。



「久しぶり」
「おう」

 指示された公園に出向くと、影山はランニングウェアを纏って立っていた。きっとここに来る道中も、ここから帰る道も影山はトレーニングとして活用するのだろう。それが影山にとっての当たり前で、これからになってゆく。その背中を、私はきっと追うことも出来ず見送るのだ。そうなる前にこうして影山から“会おう”と言ってもらえて良かった。

「Vリーグ行くんだってね」
「あぁ」
「頑張って」
「おう」

 訪れる沈黙。前まではこの沈黙が当たり前で心地良ささえ感じていたのに。今はちょっと心苦しい。3年ぶりの2人きりだから、もっと話したいこともあるはずなのに。私たちはその空白を埋められるほどの距離ではなくなってしまっていた。……影山はきちんとその隙間をバレーに向ける熱量で埋めてみせたというのに。なんなら、私が知っている影山の傷でさえ影山は受け入れているというのに。影山は、これからもその歩みをとめずに走り続けるというのに。……私はただこうして突っ立っていただけ。呼び出された今も、何も踏み込めず取り留めのない言葉ばかりを口にしている。

「コレ、やる」

 スッと差し出されたのは、受け取ったばかりであろう黒い筒。それをバトンの要領でこちらに向ける影山の意図が汲めず困惑していると「ん」という言葉でそれを押し付けられた。影山の眉に皺が寄っているのを確認し、そっと受け取れば、その丸筒は羽のような軽さで手に収まる。……一瞬、この中に第2ボタンでも入ってるのかもと邪推してみたけど、それは思い過ごしだったようだ。

「コレは……?」
「卒業証書が入ってる」
「えっ、うん。……私、貰ってどうすれば良い?」
「開けてみろ」

 開けて見ろ――と言われた気がしたので蓋を開け中に入っている紙を取り出す。そこには予想通り“卒業証書”と書かれた文字と、その左隣に影山の名前がでかでかと書かれている。影山は私に無事に卒業出来たことが言いたいのだろうか。よく分からず、困惑気味にその証書を両手で持ってみれば、木漏れ日が差し込みその後ろを照らしだす。そこに何か書かれていることに気付き、証書を裏返すとあまりきれいではない字が端から端まで走っていた。

「コレ……は?」
「サインだ」
「サイン? 影山の?」
「おう」

 俺以外誰が居る――と言いたげな表情を浮かべる影山。確かに、影山の卒業証書だからこのサインは影山のものなんだろう。ただ、これを私にくれる意味が分からない。わざわざ3年間ろくに会話もしていなかった相手を呼び出してまで、どうしてこれを渡そうとしたんだろう。

「……みょうじのおかげでここまで来れた」
「え? わ、私は……何も、」
「応援、来てくれただろ」
「……っ、知ってたの?」
「3年間も通われたら嫌でも気付く」

 3年前、北川第一のバレー部員としての立場を選び、影山を切り離した時から。その背中を支えられなかったことを悔やみ続けてきた。1度でも手放してしまった背中を、自分勝手な理由で追うことも、掴むことも出来なくて。私は、影山の心に付けた傷の一因でもあるから。影山の背中に触れられずとも、見守ることが出来ればそれで良いと思っていた私を、影山はちゃんと見つけていてくれていた。それだけじゃなく、影山はこうして手の届く場所まで歩み寄り、声をかけてくれた。そして、「その……礼っつーか。なんつーか……」と不器用な言葉で感謝までしてくれている。

「……へへっ。影山が烏野に行って、本当に良かった」
「それは、俺と離れられて良かったっていう……」
「違うよ。そうじゃない」
「そうか……」

 影山は私が傍に居なくてもちゃんと強い。ずっと強くて、強くなって。そうして強く在り続ける影山は、私の背中に手をまわしてくれた。今目の前に居る影山は何を考えているか分かりにくいけど、私との縁を手放さないようにしていることだけは分かる。……本当に、強くなったなぁ。

「これからも応援に来てくれ」
「行っても良いの?」
「みょうじが居ねぇ方が落ち着かねぇ」
「ふふっ。大学生に遠征は厳しいかもだけど、なるべく足を運ぶ」
「おう」

 ブランコの安全柵に隣り合って腰を据え、もう1度サインを眺める。……うん、全然読めない。コレはきっと影山が考えたものじゃないなと思い至り、その考えを笑い声と共に吐き出せば、「先輩が考えた」と白状する影山。やっぱりともう1度笑ってみせると、影山の頬も同じように緩む。

「コレ、ちゃんとどう読むか分かってる?」
「……分かんねぇ」
「えぇ〜? それ、良いの?」

 書くなら分かって書かないと――、じゃあどう書けば――。そんな風に他愛もないやり取りを交わす。このやり取りがこれから先私たちの環境が変わろうとも、2人の関係性が変わろうとも。ずっと続けば良い。――そう願い、木漏れ日を見上げたあの日。





「こうしてちゃんと飛雄のフルネーム見るの、久しぶりかも」
「ん?」
「ほら、いっつもよく読めないサインばっかりだったから」
「そうか? ……そうか」
「そうだよ。だからこうやって“みょうじなまえ”の名前と“影山飛雄”の名前が並んでるの、ちょっと違和感」
「嫌か?」
「嫌だったらここにサインしてない」
「……そうか」

 あの日から今日まで。そしてこれからも。私たちは、ずっと隣に居る。その誓いを今、ここにサインしよう。

BACK
- ナノ -