愛の在処

 大地は私の夫。それは戸籍上確固たる事実ではあるけれども。それを明確に表すものといえば、大抵の人は結婚指輪だと答えるだろう。
 とはいえ、結婚指輪をしていなくても結婚している人だって一定数居るのも事実。現に大地がその一定数に含まれている。

「ねぇ、指輪嵌めてよ」
「んー、今更嵌めると違和感があるっつぅか」
「いいじゃん。嵌めてるうちに馴染むって」

 こうして今みたいに指輪を嵌めることを促し、その度に「んー」と躱されるこの行為は一体何度目のことだろうか。何度か喰い下がってみても大地は首を縦には振らない。こんなに嵌めたがらないのには何か疚しい理由でもあるのでは――という疑惑はすぐに大地の人柄が払拭してみせた。
 だからこそ余計に大地の嵌めない理由が知りたくて「ねぇ」と腕に絡みつけば鍛えられた二の腕の先から「誰も俺が指輪してようがしていまいが気にしないだろ」という声が響いた。

「私が気にしてるじゃん!」

 そう反論すれば、それまでスマホに落とされていた視線が私へと向けられる。そうして続く「なまえはどうしてそこまでさせたがるんだ?」という質問はもはや警察官の眼差しだった。実は今の今まで私側の理由を訊かれたことはなかった。いざ踏み込まれるとぐっと言い詰まってしまうのは私の方なんだということを今ようやく思い知る。

「だって……、」
「だって?」

 そう言ってこちらの言葉を待つ姿は、警察官のような、父親のような、まるで意地悪な恋人のようだ。どんな表情にもとれるけれど、瞳だけは変わらず私をまっすぐ見つめている。その瞳と一瞬だけ自分の瞳を絡ませすぐさま離し、「……こんなに格好良くて素敵な人は既に誰かのものですって、証明したいじゃん……」と自白すれば、先程逸らした視線が弧を描いているのは見なくても分かった。震えている二の腕をペチっと叩けば、今度は口から力のない笑い声を漏らされ余計に頬を膨らませることになる。

「指輪を身分証明書みたいに思うのはどうかと思いますよ、奥さん」
「そ、うですよ……分かってますよ! だから言いたくなかったのに……。てか、言わせたからには嵌めてよね!?」

 予想していた通りだと思いつつも投げやりに詰め寄ってみせれば、大地はそれさえも分かりきっていた様子で「さてどうかな? 俺の嵌めない理由を覆すほどのものかどうか、じっくり考えないと」などと調子の良い言葉を放つ。この手のやりとりを躱すことなど、警察官にはお手のものということなのだろう。まったく質が悪い。

「ちょっ、ずるい!」
「さて。お風呂にでも入りますか」
「あ、ちょっ、そのニヤけ顔やめてよね!? 〜っ、もうっ! ビール冷蔵庫から取り出してぬるくしてやる!」

 子供染みた挑発など歯牙にもかけない様子で脱衣所へと足を向かわせる大地の背中に、「チャラ男!」と吐き捨て鼻息を荒く吐いた。そうしてふっと吐き終わったあと、「……いやチャラくはないな」と今度は笑いが溢れる。“大地”と“チャラい”はどれだけ追いかけっこをしても巡り合わない組み合わせだ。

「……ビールはキンキンにしてやるか」

 お風呂上がりの大地に酌をすれば「あー! 生き返る」と満足そうに笑うから。その笑顔を見ていれば“まぁいっか”といつも思わされてしまうのだ。……次は酔っ払った時にでも言ってみるか。



「おはよう」
「おはよう。お弁当そこに置いてる」
「おう、ありがとう」

 翌朝。いつものように大地とおはようを言い合い、行ってらっしゃいと送り出す為に玄関先へと共に向かう。そうして贈られる「行ってきます」を受け取ろうとするよりも先に大地の左手から見慣れない眩しさが放たれた。

「……あっ」
「俺もそろそろ身を固めないと――だろ?」
「……ふふっ。チャラ男卒業だ」
「誰がチャラ男だっての」
「痛っ」

 大地から額を軽く小突かれるけれど、そんなの大した痛みじゃない。それよりも武骨な手にしっかりと嵌められたシルバーリングの輝きの方が何倍も嬉しい。

「本当は傷付けたくなくて大事にとってたんだけど。なまえの指に指輪があるの見て、思い直したんだ」
「えっ?」
「なまえは俺のものっていう証明が目に見えるのは、良いもんだなって」
「大地……」

 それじゃ行ってきます――そういって掲げられた左手には幸せの塊が嵌められている。その姿を見つめた瞬間、私の身体を覆えるほどの愛おしさが湧きおこって思わず笑みが零れた。その気持ちを証明したくて、自分の左手を大地に掲げ返せば、大地も同じような顔で笑い返してくれた。

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