珈琲

 兵舎近くに店を構えるミルクホール。割安価格で飲食を提供しているここは、主に学生が多く訪れる。それに加え、新聞や官報、そして雑誌を無料で公開していることもあり、毎日学生以外の客も足を運んでくれてありがたい限りだ。

「こんにちは」
「い、いらっしゃいまし」
「珈琲を1杯いただけるかな」
「は、はい」

 店内に顔を出したのは、白い額当てを施した軍人。この軍人は時折この店に顔を出しては、あまり売り上げの良くない珈琲を注文してくる。珈琲というのは、まだあまり日本に普及していない飲み物だ。牛乳に比べると高価であることも相まって、珈琲を淹れるのはこの軍人――鶴見中尉殿から注文を請けた時に限られる。

「将校さん、こんにちは」
「やぁ。勉学は捗っているかい?」

 鶴見中尉殿は軍人といえど、醸し出す雰囲気は穏やかだ。だからこの店に訪れる学生も鶴見中尉殿に気を許し、こうして親し気に言葉を交わし合っている。そのやり取りを眺め、自身の口角を緩めていれば鶴見中尉殿は私の目の前に腰掛け、とても静かに微笑みを向けてくる。
 たったそれだけなのに、鶴見中尉殿がなす所作や言葉には得も言われぬ求心力がある。そして、その求心力は間違いなく私にも作用している。初めて鶴見中尉殿がここを訪れた時――いや、初めて珈琲を飲んで「とても美味しい」と微笑んでくれた時から。私の心は鶴見中尉殿に惹きつけられている。

「なまえさん、また来ます」
「はい。ありがとうございました」

 学生の言葉に返事をし、金銭を受け取ればその動作の途中で鶴見中尉殿と目が合った。そうしてニコリと微笑まれれば、私の瞳はまた分かり易い程に揺らぐ。鶴見中尉殿からしてみれば、街中に居る女などどれも一緒なのかもしれない。それに私なんて、きっとそういう対象として見てすらもらえていないのだろう。……そう分かってはいても、こうして得られた2人きりの時間をずる賢く利用したいと思ってしまう。

「あの、鶴見中尉殿」
「ん?」
「鶴見中尉殿は、どういった人がお好きですか?」
「人……んー、そうだね。……利用出来る人間かな」
「り、利用ですか……?」
「はは」

 軽く笑い、カップに口をつけ静かに珈琲を啜る鶴見中尉殿。まさか鶴見中尉殿から“人を利用する”などという言葉が出てくるとは思わなくて、思わず固まってしまった。その様子をちらりと見つめた後、「幻滅したかな?」と窺われる。その問いに咄嗟に首を振り、「軍人であれば、そういうことも当たり前でしょう」と分かったような口を効く。そんな口先の言葉しか返せない私に、鶴見中尉殿は今度は笑みを返しはしなかった。

「私はね、自分に利がある人間が欲しい。その為には“愛”を渡す」
「……鶴見中尉殿?」

 いつもは穏やかな笑みを携えている口角は、カップに隠れてよく見えない。伏せられた瞳は、額当てのせいでよく見えない。鶴見中尉殿の心境を察する為にはその言葉を聞くしかないけれど、その声色には今まで聞いてきた鶴見中尉殿の優しさが滲んでいないような気がして少し怖い。今目の前に居る人は、本当に鶴見中尉殿なんだろうか。それを確かめたくてその名を呼べば、軍人はおもむろに視線を上げ私を捕らえる。その瞳を見つめた瞬間、私は息の仕方を忘れてしまった。それはあまりにも真っ暗で、彼の中には恐ろしく深い闇が居座っていることに気付いてしまったから。

「なまえさんは私にとって“利”がない。だから、私はなまえさんに偽りであっても愛を渡すことが出来ない」
「……そう、ですか、」

 残酷で優しい人だと思った。ただの町娘が抱く恋心1つに対して律儀に真実を明かし、この恋が報われることなど決してないのだと粉々に砕いてみせる。こんな向き合い方をされてしまえば、忘れるどころか余計心惹かれてしまうというものだ。だからこそ、鶴見中尉殿はもうここには来てくれないのだろう。

「すまない。……珈琲、美味しかったよ」
「……お元気で」
「ありがとう」

 美味しい、ではなく美味しかった――鶴見中尉殿にとって、この場所はもはや過去になったらしい。そういう言葉の端々で気持ちを気取らせる辺り、やっぱり鶴見中尉殿は残酷で優しい。
 私は、もうこの先一生、珈琲を誰かに淹れることはないだろう。

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